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第14話 夜の踊り子

左頬が痛い。口の中を舐めたら傷口から血の味がする。

確か、親父に早く連れ戻して来いと怒鳴られて殴られたんだと思う。皿が割れる音と、荒れた部屋。張り詰めた空気だけ鮮明に思い出せたけど、自分に何が起こったかはよく覚えていない。痛いなーとか思いながら、今あの子はどうしてるか、それだけが気がかりだった。

きっと顔を鏡で見たら酷い事になってるだろうけど、アザができていようが、饅頭みたいに腫れあがっていようがもうそんなの全部どうでもいい。

ブルーズが帰った。


実家うちに帰る」


夜、ぶどう棚の下であの娘は泣きながらそう告げると、それ以上意味がある事を何も言わなくなった。引き留めても泣くし、体に触れようとしても拒絶される。終いには「認めてくれなくても一人で歩いて帰る」なんて脅すみたいに言うから、親友のクリシュナに事情を話して翌々日、ブルーズを送ってもらった。

出会った山を越えて大きな川の手前まで来たら、


「それじゃあハルさん、お元気で」


と、笑顔で別れを告げた彼女はそのままクリシュナと実家までの約十十キロの道を進んだ。俺は模範的な返事をしたらすぐに背中を向けて二人を最後まで見送ろうとしなかった。等間隔で聞こえてきた馬の足音は段々遠くなって、やがて無音へとなっていく。

振り返ったときに見える無人の景色が怖くて、俺は馬の腹を踵で強く蹴って走らせた。


一度落馬しかけ、慌てて手綱を強く引いて姿勢を正したら気付いたら俺の生まれ育った街がすぐそこだ。心失していたのか、どうやってここまで戻ったのか全く覚えがない。

気付いたら夜だ、そこらから夕飯の匂いがする。俺と、借りてた父さんの馬のクロだけ帰ってきて両親が不思議がり、ブルーズは? と首をかしげる母さんに、

「ブルーズは帰った。ティカはあげた」とだけ伝えたら、何かを察した親父に怒鳴られて何発も殴られた。


『連れ戻して来い、土下座でも何でもして来い、ブルーズさんが戻るまで帰ってくるな』


怒鳴る親父に当たり前の報いだと思って何も言えやしなかった。皿が何枚も割れて、椅子もひっくり返って部屋がめちゃくちゃになる中、母さんが仲裁に入ってくれたけど先に怒声に疲れた父さんが力無く部屋に戻った。俺はいつの間にか自分のベッドで寝ていて朝になっていた。


嘘をついていた事が元通りになっただけだ。

だから平気だ。

母さんは一人っきりで朝食を準備している。父さんはというととっくに家を出て顔を合わせなかった。


「ブルーズはもう戻ってこないの」


その問いかけに「うん」とだけ答えたら「そう」とだけ聞こえた。


ティカはブルーズにあげた。強く断ろうとするのを押し付けるようにして帰路の相棒にさせたから、今頃ティカをどうするかクリシュナと困ってるかもしれない。ブルーズの家で飼ってくれればいいけど、ティカなら売ってもいい値段になるはずだからそれでもいい。何らかの形であの子の役に立てばいいと思う。



クリシュナに預けた地図には安全なルートやぼったくりされない宿等のメモを書き残してる。あいつは旅慣れしてる男だから別に心配してないけど、少しでも彼女の役に立てばいいと思った。気持ち悪いくらいの量の書き込みをされたメモを渡して、寒空の下で震えてた子だから野宿だけはさせないでほしいとクリシュナには伝えたけど守ってくれてるだろうか。

人見知りしがちなブルーズでも最初から仲良く話していたクリシュナが、きっと帰り道のおしゃべりを盛り上げてるはずだ。雑貨屋の息子で人好きする性格のクリシュナだから、ひょっとしたら俺とよりも気が合うかもしれない。実はブルーズはあぁいう男がタイプかもしれないし……。

……そんな資格ないのに想像しただけでむかつくと思いながら仕事をした。普段従業員に任せてる事でも気が紛れるから全部やって、物静かな人にも無理やり話しかけて無の時間から少しでも逃げたかった。それでも昼勤と夜勤が入れ替わりだんだん人の少なくなってくると俺もやる事が無くなって、歩いて家に帰った。


この街で生まれてこの街で育った。だから全ての思い出はこの街にある。

妹が生まれた事、友達と喧嘩した事、割礼が痛くて泣いた事、よく理解しないまま許嫁ができた事、勉強に明け暮れた事、勉強が嫌で抜け出ては友達と遊んだ事。

どうでもいい事も大切な事も全部ここであったはずなのにはっきり思い出せない。あの頃どうやって生きていたんだっけと疑問に思う位だ。だって何を振り返ろうとしても、二か月しか一緒に過ごしてないブルーズが記憶の中で満開な笑顔を向け俺の名前を呼んでいる。


俺の人生はきっと、この数か月でやっと始まったんだと悟った。別に今までの人生に不満なんてない。贅沢すぎるくらいの環境で育った。だけど、今までの人生で、こんな不安定にさせられるものには出会った事がない。


サラサラの髪の毛を風になびかせて歩くあの子の後ろ姿が見えるような気がした。街のどこを見てもブルーズの幻がこびり付いていて、明るい笑い声が聞こえてくるようだ。細い脚で子猫みたいに自由に歩いて、子犬みたいに表情豊かで、お人好しでチューリップみたいに可愛らしいあの子は一緒にいるだけで安心した。

もう終わった事だと自分に言い聞かせても沸き立つ思いはあふれ出る泥水だ。後悔ばかりが襲ってきてももう遅い、俺はあの子を引き留める事ができなかったんだから。


「フラれたんだよなぁ……」


夜は寝れない。一緒に書いていた日記を読み返したくてブルーズの部屋を探してみたけど、持って行ったのか処分したのか無かった。部屋の中を見渡すと買ってあげた服は一、二着を除いて畳まれて、アクセサリーもほとんど置いてある。

あげたんだから持って行っていいと伝えたけど、持って行ったら不自然だからと言って結局最後まで首を縦に振らなかった。丁寧に片付けられたそれらを見たら、ブルーズのものだった部屋の扉を静かに閉めて部屋に戻った。

眠れないと思いながら無理やり瞼を閉じたら、しばらくたって鶏の鳴き声がした。


「薄情者!なんで、どうしてなの? だってブルーズはハルの事好きだったのに」


ベルにもブルーズが帰った事を伝えた。

翡翠の瞳を潤ませて、顔を真っ赤にして怒鳴って睨みつけてくるベルを見ると感情が揺さぶられる。適当に返事をしてその場を離れたら後ろから「ばか」と罵る声と豪華な玄関が大きな音を立てて閉じる音が同時にした。


「…元に戻っただけだろーがよ、全部、嘘だったんだから」


苛立ちとやっかみを飲み込んで奥歯をかみしめたら仕事に戻った。昨日と同じで無理やり仕事を作って余計な時間を作らないように努めた。誰にも気持ちをさとられないように笑顔を張り付けて、いつもなら帰る時間になっても夜勤の時間になってもそのまま書類仕事を続け、深夜にやっと宿を出た。


帰り道に喧嘩した日の夜を思い出した。確かあの日もこれくらいの時間に仕事がやっと終わって、走って家まで帰った。家に帰ったらブルーズが緊張した面持ちで部屋で待っていて、遅い時間だったのに話し合いをして、仲直りしたら年下のブルーズに弟をあやすみたいに対応されたのはちょっと恥ずかしかった。けど、あの子がまた笑いかけてくれたのは嬉しくてしょうがなかった。

あーあ、思い出したって空しくなる。少しでも寂しさを紛らわせたくて次の日の晩は友達に付き合ってもらってグダグダになるまで酒を飲んだ。ただ、泥酔してて覚えてないけど友達の一言に怒鳴りつけたらしくて俺は後日死ぬほどいじられて恥ずかしい思いをする。酒なんて飲まなきゃよかった。


四日過ぎたからブルーズは実家についただろうか。寄り道しなきゃ今日にはつくはずだ。クリシュナはブルーズの村の入り口ぎりぎりまで一緒について行って、そこからはブルーズ一人で帰宅する予定。二人でいるところを誰かに見られて変に勘違いされなきゃいいけど。

ブルーズは家に帰ったらきっとどこかの男と結婚するだろう。花嫁衣装にそでを通すブルーズは絶対に綺麗だ。

神様、あの子が結婚する相手が暴力を振るうようなひどい男じゃありませんように。誠実で優しい男と夫婦になって、たくさん子供を作って幸せに暮らしてくれますように。俺の事なんて一生思い出しませんように。暮れていく寂しげな赤い夕日を見て、きっと同じ夕陽を見ているブルーズに届きますようにと願った。


友達が結婚して、ブルーズと二人で祝いにいった帰り道。俺が男友達に呼ばれて席を外してる間にベル達と仲良くなったブルーズはずいぶん機嫌がよかった。遠くから聞こえてくる音楽に鼻歌を乗せて思い出し笑いをしながら話す彼女は、その時までは妹みたいだと感じていた。

俺の人生が変わったのはあの晩だ。

ブルーズが聞こえてくる音楽に合わせて踊りだしたら、そこからは彼女以外目に映らなくなった。指の先まで神経をとがらせ、髪の動きまで計算されたような踊りと、汗をかいて俺だけに向けた笑顔を見せられれば、魅了されるには十分だった。彼女の柔らかい手が俺の手を掴んだ瞬間心臓が跳ねた。ステップを踏めば足先までしびれる様な感覚があった。見る物が急に色付いてキラキラと輝いて見えるようになった気がした。

もしかしたら気付かないだけでずっとそうだったのかもしれない。初めて会った日、酷い目にあったのに泣かない気丈な彼女をまず気に入った。その時すでに、心のどこかで何か芽吹いたのかもしれない。

それを自覚したのはあの晩だ。俺はきっと、ずっとブルーズが好きだった。


せめて同じ街に生まれていたら? 

いや隣町でもいい、もっと近い場所で生まれてさえいれば何か違っただろうか。

妹の友達、友達の友達。

同じ学校のクラスメイト。

学年違いの子。

行きつけの店が同じでも何でもいい。街ですれ違う他人同士でもなんでも今より自然に巡り合えていたら、きっと当たり前に恋に落ちたと思う。

あーあ、本当に一目ぼれをしていれば一目見て運命の人だと分かればこんな気持ちになる事もなかった。見る目のない自分が嫌になる。あんなにかわいい子なのに気付かなかった俺はばかだ。

あーあ、皮肉だ。自分で考えた嘘に首を絞められている。


あの子がいなくなって五日目、母さんが玄関のカギをわざと閉めてない事に気付いた。理由は聞かなかった。危ないから気付いたら俺が閉めておく事にしようと思う。俯いたら涙が出そうだからずっと顔を前に向けて仕事を続けた。

六日過ぎた。昨日と同じだ。さすがに家にブルーズがいないのに慣れてきて父さんとも話す様になった。

七日過ぎた。なんとなく、欠落感のある気持ちが当たり前になってくる。


そして八日目。

もう帰ってこない人の事は忘れよう。ふんぎりをつけよう。

ブルーズが日記帳を持って行ってくれてよかった。別に大した事書いてなかったと思うけど、見返したら呪縛されて前を向くなんて考えられなかっただろうから。十年後とかに苦い恋の思い出として振り返る事ができないのは残念だけど、きっとその頃には俺も別の人を愛する事ができるはずだ。その頃にはブルーズの顔も思い出せないようになってる。だからこの気持ちは、まだ見ぬ誰かにいつかまたぶつけようと思った。


母さんたちが寝静まった頃、ブルーズの部屋だった部屋に足を踏み入れた。

ここは元々客室だったから本来生活感のない部屋だったのに、ブルーズが来てからは途端に女の子らしい部屋へと変身した。かわいい柄の布団はまだあの日のままたたんである。花瓶の花も新しいものが飾られて、服やアクセサリーもそのままだ。父さんが買ってきたちょっと古いデザインの女の子向けの家具も、母さんが掃除してるのか埃一つ無い状態でいつでもあの子が帰ってこれるようになってる。


ブルーズの匂いがする部屋でいつもの定位置に座ったら、頬杖ついて机に向かった。

『ハルさん、これが分かんないの』

高くも低くもない声のブルーズが鉛筆を頬に当ててへこませながら、問題とにらめっこする横顔が思い浮かぶ。


帰り道に買ってきたお菓子を皿に出す。パン生地にドライフルーツの混ざったのはブルーズが好きだったやつだ。一人で食べたなんて言えば怒るだろうなと思いながら半分に割ると小麦の良い匂いがふわっとたちこめる。

……あ、いや違う。俺が元々このお菓子が好きだったんだ。だからブルーズもこれをよく食べてただけだし、あの子は美味しいものならなんでも幸せそうな顔で食べてた。なんでも大袈裟に「おいしい」とリスみたいに頬を膨らませてたし、そんなの特別視したらキリがない。

ドライフルーツがたくさん溜まってる部分を一口噛んで咀嚼したら、飲み込むまでに勝手に涙がこぼれて膝の上に落ちて濃いシミになった。

味は何も変わりやしない。どこにでも売ってるお菓子なんて何もありがたくない。

ただ、下手な芝居みたいな大袈裟な声が聞こえない。隣にあの子がいない。それだけなのに塩辛くて食べられなくなったお菓子を皿に置き、俺はブルーズが本当にいなくなった事を受け入れたら声を押し殺してやっと大泣きする事ができた。


気が済むまで泣けば久しぶりに空腹を感じた。残りのお菓子を腹に入れてもまだ足りなくて台所に行くと大きなスイカがどーんと丸ごと置いてあったから、スイカと包丁とまな板、皿とスプーンを持ってブルーズの部屋に戻った。


今夜はやけ食いする。

今からはどんなに泣いてもいいし、どんなに食べてもいい。一人酒なんて普段は絶対しないけど今日は飲む。二日酔いで仕事するハメになっても明日からは事実を受け止めよう。なよなよするのは止めて、気持ちを切り替えろと言い聞かせる。

普段は細かく切り分けるスイカも縦に半分に切って、手についた薄赤色の青臭いスイカの汁を舌で舐めたら皿に乗せた。酒も注いで一気にグイッと飲んだら、勢い余ってちょっとだけ咽せた。別に誰も見てないから遠慮せずオッサンみたいに咳き込んでそのままスプーンを手に取る。


二キロはありそうなスイカを半分、まずは一キロか。こんな下品な食べ方した事ないし大きさに一瞬怯んだけどまぁ水を一リットル飲むのと一緒だから余裕だろ。真ん中の一番甘くてヒビの入ったザラザラの赤い果実にスプーンの先を近付けた。

冷たいスイカだからか、この辺りだけ気温が低い気がする。泣いて熱くなった体を冷ますにはちょうどいいはずだ。明日スイカが丸ごとなくなってたら流石に母さんに怒られそうだけど構うもんか。

ブルーズなら、自分もやりたい気持ちを抑えつつ「こんな事していいんですか?」と理性的に諭してきそうだ。多分そんな顔も可愛かったろうなと思いつつ、スプーンの半分だけ果実に刺した瞬間だった。


「そんなにたくさん食べたら下痢になりますよ」


開いた扉の風圧が俺の前髪をまくって視界を明瞭にさせたのは。


嗅いだ事のあるような、ないような、……香水だろうか? とにかくいい香りが鼻をくすぐり前髪を泳がせる。いつもの匂いだ、でも彼女にはまだ早くて大人の女性がつけるような上質な花の香水の匂いもする。


「あの、玄関開いてたんですけど大丈夫ですか……?」


サラサラの黒髪も同じタイミングで観賞魚のヒレみたいに泳いだ。だから最初は髪の毛が邪魔で顔が見えなかった。その内風が鎮まるとその人はいつもみたいに髪の毛を耳にかけて、黒い瞳をこっちに向けてくる。


「灯りがついてたからここかなと思って」


いるはずのないブルーズが、出ていった日の服のまま部屋の入り口に立っていた。


思わずスプーンを床に落とした。「あらら」といいながらブルーズはしゃがんでそれを取り、はいと言って俺に渡してくる。


……ついに幻でも見るくらい頭がおかしくなったのかと思った。でもスプーンは一人で浮くわけない、スプーンを無視して俺はブルーズの手を握ると、間違いなく、柔らかくて小さくて温かい彼女の手だ。幻覚とか夢じゃない。彼女は確かにここにいる。



「なんで?」


べたべた触ったら間抜けすぎる声で疑問をぶつける。

だって帰ったじゃないか。八日も過ぎたらとっくに家に着いて、元の生活に戻ってる頃のはずじゃないか。


「…………やっとらん事、あるなと思って」


そのままブルーズは俺の手を握り返すとゆっくりと離して、いつもの定位置に座って話を続けた。


「クー君が十分だけ待つって言ってくれてるんです。だからもう本題に入りますけど」


重い空気を互いに飲み込むと改めて向かい合う。クー君って誰? あ、クリシュナか。俺だってまださん付けなのにアイツは君付けなの? 何で帰ってきたの? 突然の事に頭がパニックになりつつブルーズの顔を見ると、緊張と焦りからかなかなか上手く言葉が出てこない様だった。ブルーズは深呼吸して、胸のあたりをポンポンと叩く。


「考え直したんです。もっと慎重に答えを出すべきだったって。私ダメですね、思い詰めたらすぐ冷静でなくなっちゃう。……実家には本気で帰ろうと思った。それは嘘じゃなかったです。でももっと私達話し合う必要があったのに傷付くのが怖くて逃げちゃった」


もし心臓がむき出しになっていたら心臓を掴んでいたんだろうと推測できるくらい彼女は胸の中央をポンポンと叩いていた。落ち着かせようとしてるんだろうか。



「あの晩、抱きしめてくれたでしょ。私すごく幸せだった。これ以上幸せな瞬間は来ないかもしれないって思ったら、逃げたくなったの。思い出にしちゃえばずっと綺麗だから。ここで終わらせてもこの先、生きていけるってあの時は思ったんです」

「なんで、そんな事思うの」

「だって私達とんでもない事したじゃないですか……!」


すると間髪入れずに俺の言葉に反論した。


「私達こんな事すべきじゃなかった。そのせいでみんな傷付いてる。でもあの嘘がないと私達きっと出会う事もなかった。私、ハルさんが好きなの。ほんとに好き。嘘から始まったけどこれだけは嘘つけない。ハルさんが好き。だから、離れ離れになんてなりたくない」


ブルーズは溢れ出てくる涙を手で拭いながら話を続ける。


「でも今更本当の事を言ったって、家に連絡が行けばきっと村に連れ戻される。そうなったらハルさんと一緒になれないかもしれない。こんな立派なお家のお坊ちゃんと、嘘つきで、貧乏人で田舎者で木こりの娘ですよ? 誰が結婚を認めて、祝福してくれるんですか。」

「そんなの関係ないでしょ?」

「関係ないなんて事ないでしょ、現実見てくださいよ。もちろん最初はハルさんがお金持ちの子供だなんて知りませんでしたし、あなたの家がお金持ちだから好きになったわけじゃない。でもそんな不相応な恋、本当だって誰が信じてくれますか」


黒曜石みたいに光る瞳が俺を睨む。拭っても拭っても出てくる涙は頬を濡らし顎まで伝うとポタポタと落ちてった。


「だから私逃げたの。いつか嘘がバレて引き戻されて傷付くくらいなら自分から身を引こうって。でもできなかった、ここに戻ってきちゃった」


ブルーズは自傷行為みたいに軽く笑うと、近くにあったタオルに手を伸ばして涙を拭いた。一旦落ち着くためかまた深呼吸をすると次は丸い目を伏せるように細めて俺に問いかける。


「……ねぇ、マンカラの約束、覚えてますか。私が勝ったの。あの日。うやむやになって何も叶えてもらってないけど、私が勝ったんです」

「……え、あぁ、うん」


一瞬何の事だったっけと思ったら、昼寝のせいで帰れなくなって宿に泊まった日の事だ。結婚前の女の子と二人きりで外泊する事に気まずくて緊張して不機嫌だった俺をブルーズが気遣ってマンカラに誘ってくれたんだった。接戦を繰り広げて結局俺が負けたあの時の約束なんて、俺は一回も思い出さなかったのに。


「今、約束守ってもらおうと思って。だって何でも言う事聞くんですよ。もったいないでしょ」


今この状況に合わないと思ったのか、ちょっとおかしそうに笑う。


「……一回しか、言わんし、ダメだったら断ってください。そうしたら私も諦めて、スッキリするから……」


彼女は深呼吸をすると、目を細めて真面目な顔をした。揺らぐ炎の影がチラついて黒い瞳の中で揺れるのがはっきり見える。さっきの涙で頬が蝋燭の灯りで光るのがガラス細工みたいで綺麗だ。

彼女は、お願いを口にする。


「………………私の事ほんとにお嫁さんにして」


俺には願ったり叶ったりな、おあつらえな夢のような出来事をすぐに飲み込む事ができない。


「……意味わかって言ってる?」

「分かってるに決まってるでしょ、ばか」


不安げな顔に頬を赤くして彼女は俯いている。


「……ハ、ハハ、男なのに情けな。プロポーズされちゃった」

「……そうですね。ハルさんっていつも情けないかも」


そしてほころぶように笑った。


「でもそこが好きなの、本当に」

「……ここにいてよ。どこにも行かないで」


離れていた二つの影は重なり、壁に大きな影を一つ作り、ぐらぐら揺れる炎の影がふっと静かになって部屋を照らす。自分の涙を拭い、彼女の手を取って今までで一番強く握ったら、力んだ拳の強さに驚いてびくっと動いた彼女が俺の方を見た。

ろうそくの光で彼女の虹彩が透けている。不安そうな瞳を見つめると俺は伝えた。


「俺と、結婚してください」


元から少なかったろうそくの芯が燃え切って、部屋に暗闇と静寂を招いた。


窓から月明かりが差し込んだ時、俺は彼女の唇にキスをした。初めてのキスは熱っぽくて柔らかくて、そのままどろどろに溶けて一つの塊になれればいいのにと心から願った。唇同士が離れる音が聞こえるとまたすぐにしたくなってもう一度唇を重ねる。また離れた後にブルーズと目を合わせたら顔を真っ赤にして恥ずかしかっていたから、頬にキスをした後に正面から抱きしめた。


「……ねぇ、ブルーズの家族に会いに一緒に帰ろう」

「……いやだ。私決めたの、実家には戻らないって。家族は捨てる。ハルさんを選ぶ」 

「そんな事はさせない」

「絶対にハルさんから離れたくないからいやだ。ここに戻るって決めた時に覚悟決めたの」


――それがブルーズの覚悟なら、俺だって覚悟を決めた。


「いやだ、絶対ブルーズに家族を捨てさせたりなんかしない。俺はもう逃げない。全員に謝って、全員を説得する。ブルーズは家族が大好きでしょ? ならそんな方法絶対に取らせない」


腕の中のブルーズの体温がそのうち、俺の体と同じになっていった。サラサラの髪も、肌も、小さな赤い唇も、不安そうな黒い潤んだ瞳も愛おしくてより強く抱いたら向こうもぎゅっと俺を抱きしめ返してくれるのが心底嬉しい。


「俺はブルーズの家族に会いたいよ」


誘惑が俺達を愛撫しようとしてくる。もしこれが夢なら、こんなに幸せな気持ちなら目が覚めないでほしい。できる事なら暗闇を愛する動物みたいに夜の世界に取り残されたい。


「じゃあ約束して……もしダメなら私を連れて逃げてよ」

「……いいよ。でも忘れないで、俺を信じて」


この夜は二人だけのものだ。朝まで誰にも邪魔をされず、誘惑に負けてこのまま甘い夜露を舐めていたい。

今までは花で飾ったような作り物の世界みたいに、心地の良い嘘に甘えて何も変わろうとしなかった。心地よかった、本音を漏らすならこのままでいたいと後ろ髪を引かれる気持ちだ。だけど枯れない造花で飾った見た目だましの嘘は、今、本物になる。

これから咲き誇っていく花を、朝日が差し込んだって決して見捨てたりなんてしない。

美しいか醜いかも分からない世界で花はより一層美しく咲き誇るかもしれないし、枯れてしまうかもしれない。未来は誰にも分からない。

だけど、ブルーズがいれば平気だ。この子自身が俺には勿体ないくらいの唯一無二の美しい花なんだから。


翌朝、ティカが馬小屋にいる事に驚いた両親が、ブルーズの部屋で眠る俺達を見つけて叫び声を上げるまで眠り続けた。

昨晩は夢みたいに幸せだった。女の子ってこんなに柔らかいのかと知った。だけど俺の方が先に寝た気がする。布団の中にもぐって、頭を撫でてもらった感触がまだ頭に残っていた――――。


寝惚けた俺は、実は昨晩の事は夢だったらどうしようと恐る恐る布団を捲る。

すると俺の胸の中でブルーズが腫らした瞼を閉じてすーすー寝息を立てて眠っていたから安心して二度寝をしそうになった。

……二度寝しそうになったところを親父に首根っこ引っ張られ、事の詳細を事細かに説明させられた。


その間ブルーズは母さんと話していたらしい。とはいえ向こうは説教というよりは再開の喜びに母さんがブルーズを離してくれなかったと表現する方が正しいけど。

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