目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第12話 続・恋心とはだかのお付き合い

ハルさんはいつもより早い時間にまた部屋に来たけど挨拶だけして無視した。そのまま「お腹が痛い」とお母さんに嘘をついて部屋に閉じこもった。あんな醜い醜態を晒したら顔なんて合わせられるはずがない。ハルさんはそれでも家を出るギリギリまで扉の向こうから話しかけてくれていたけど、返事は一切できずに時間だけが過ぎていった。



一時間ほど経ってお母さんが様子を見に来てくれた。

ハルはもう行っちゃったわよ、と一緒に食べるはずだった朝食が盛られた器を見ると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「あの子すっごい顔してたけど、喧嘩でもした?」

「……ごめんなさい」

「あぁ、いいのよいいのよ。ハルに何か言われた? たまに信じられない事言うのよね」


何も答えられない私にお母さんは苦笑いしている。


「……まぁ、秋風と夫婦喧嘩は日が入りゃ止むって言ってね、何があったか知らないけど大丈夫よ。いつの間にか仲直りするもんよ」

「…………………………私たち夫婦じゃないですもん」


めそめそしてうざったいのは分かってる。自分らしくない。

家庭の空気を重くしてしまって、お母さんにも申し訳ない。



一晩過ぎて、少しだけど頭が冷えた。


自分が何に傷付いたのかも理解したつもりだ。

あんなのただの醜い嫉妬だ。

別に、私は仲間はずれにされた訳でもないし、本当に恋人というわけでもないのに、立場を勘違いして、感情を乱してしまった。

もし昨晩に戻れたら、きちんと言葉にしてハルさんに伝える事が出来るのにとか、考えても仕方が無い後悔ばかりが押し寄せてくる。

ちゃんと謝らなくちゃと思うけど、ハルさんの顔はまだ見たくない。

このまま仲直りできなくて実家に帰る事になったらどうしよう。帰りたくて仕方なかったはずの家なのに、こんな形で帰れば心のしこりになってしまう。


どんよりした雨雲でも背負っている様な顔をして庭の雑草抜きをしていると

「お客さんよ」

とお母さんに呼ばれた。手を洗ってから玄関に顔を出すと、玄関先には、涙目になったベルがいた。


話がしたいと外に連れ出された。最初は断ろうかと思ったけどベルは今にも泣き出しそうな顔を堪えながら、


「今日のお代は全部払うから着いてきて。私たち、裸で腹を割って話し合う必要があると思うの」


と、お風呂セットを片手に大真面目な顔で言うから、(お代の部分だけ丁重に断りつつ)、私も着替えを持ってお風呂屋さんへ向かう。


前から大きなお風呂屋さんがあるのは知っていた。けど中に入るのは初めてだ。女性用の更衣室に入ったらみんなすっぽんぽんで過ごしてる事にまずギョッとする。地元の村には共同のお風呂なんてなかったから、大人になってからは家族以外の裸は見た事がない。

そもそも入り方の作法が分からない。ベルに色々習いたいけど、だけど今の空気じゃベルに聞くに聞けない。

家族以外の人前で裸になるなんて死ぬほど恥ずかしかったけど、みんな当たり前のように全裸になり風呂に入るための準備を行っているから、思い切って見よう見まねで全て脱いだ。


中は老若女で溢れかえり、世間話をする人たちで騒がしい。

全裸で駆け回る子供の中にはあそこが丸出しの男の子もいる。若い女の子も周りの事なんて気にせずに過ごしているから、赤の他人の裸を思わず目で追ってしまう自分を心の中で叱った。

なのに目線を外した先に飛び込んできたシワシワのおばあちゃんの胸が重力に負けて干からびた茄子みたいにダランと萎びていた。つい、将来私もあぁなっちゃうのかなと不安になる。


真顔のベルが今か今かと話しかけようとしているのが手に取るように伝わってきた。

私だってベルと話がしたかった。ハルさんとの関係とか、昨日の男の人は誰なのとか色々聞き出したかった。

でも、人で溢れかえるお風呂では突発的に起こる笑い声や、子供を叱る母親達の声が聞こえ、話に集中しようとする度に邪魔が入る。まず私達は先に体を洗う事にした。


右隣に座って体を洗うベルを盗み見ると、同い年とは思えない豊満な胸に思わずどきっとする。自分のあまり膨らんでない胸と比べてつい劣等感を覚える。

ベルは綺麗だ。粗探しをしてでも悪口を言いたくなるほどに綺麗だ。

顔は綺麗な猫みたい。豊かな髪の毛は傷み知らずでいつもいい匂いがする。肌にはニキビなんてひとつもない。

胸は大きいのに腰は細くて、誰もが羨む様な女性らしい体つきをしている。

喋れば誰もがうっとりするような声で、上品でゆったりとした話し方からは育ちの良さが伺える。

そんな神様のお気に入りみたいな人の隣にいると嫉妬で気が狂いそうになる。


本当はこの子がハルさんと結婚する予定だった。

婚礼衣装を着て横並びに立った姿を想像したなら、美男美女で悔しいくらいお似合いだ。

ベルは背も高いし、ハルさんと並べば素敵なカップルに見える。

私が一緒に歩いたってせいぜい主人と侍女くらいの関係にしか見えないのに。

……あぁ駄目だ気が弱くなってる。気を強く持つために皮膚をいつもより強く擦った。



体を洗い終わった私達は隅っこの方に座った。相変わらず騒がしかったけどこれから話し合いを行う事を考えるとうるさいくらいがちょうど良いのかもしれない。

蒸し風呂だから動かなくても汗が滲み出てくる。流れる汗をたまに拭いながら私達はしばらく無言の時間を過ごした。


「……あの、朝ね、ハルが家に来たの」


いつもより落ち込んだような声でベルが語り出す。予想はしてた、ハルさんに全部聞いて飛び出てきたんだろう。

謝りに来た事は聞かなくてもわかる。でも、全て白状したとしてスッキリするのはベルだけじゃないかと、そんな意地悪な考えがどうしても頭に浮かぶ。


「ごめん、私昨日見ちゃった」


お風呂の壁を見ながら私は答えた。


「うん……。あのね、昨日一緒にいた人は、私の家にたまに行商に来る商人の跡取り息子なの。歳は十五歳。見えないでしょ? ちょっと老け顔よね、私も最初二十歳くらいだと思ってのよ。…………でも、一目惚れしたの。別にすごくかっこいい顔じゃないのに不思議よね。でも初めて会ったその日に好きになったの」


無理をしている様な明るい声だった。

喧騒の中、ここは静寂な空間だ。私は相槌は打たないけど、そのまま彼女の話を聞き続ける。


「それからはその人が来る度におしゃれして待ってたわ。二階から見えたら急いで玄関まで降りて、『偶然近くにいたから仕方なく扉を開けたのよ』って風を装って迎え入れてたわ」


今か今かと待ち侘びるベルの姿を想像したら、それはそれは可愛いくてこんな時なのに思わずきゅんとした。


「でも最初はね、彼の姿を見れるだけで満足だった。だってハルと婚約してたんだもの、結婚前の思い出だと思って割り切ろうとしてたの。本当に、本当よ。……でも偶然街で会ったのよ。大勢の人がいる中、ばったり。そしたら何でか私、『これは運命だ』って思っちゃった。だから思い切って私から声をかけたのよ、お茶でもどうですか? って。……それで、約束して会うようになった。そこからそういう関係になったの」


真面目に事の顛末を教えてくれているというのに、私は大人な話にドキドキしている。元々大人っぽいベルだけど、話を聞くと、人生という名の階段を何段も先にいる先輩みたい。

――急にベルが年上に思えてきた。ベル達がしょっちゅう「ハルとどこまでいってるの?」と質問してくる理由がちょっと分かった気がする。

あぁ、これはもっと深追いしたい。こんな時じゃなければベルとその彼氏が一体どこまでの段階まで進んだのが、根掘り葉掘り聞き出したい。

でもベルはそんな私のちょっと元気になった目線に気付いて「キスまでしかしてないから!」と慌てて否定した。


気を取り直してベルは話を続ける。


「でも、私に婚約者がいるのは向こうも知ってたから大っぴらに会うわけにいかなくて、それでキャラバンが来る時に待ち合わせしてサライで逢引きしてたの。あそこなら人混みに紛れて目立たないでしょ? デートしてるカップルも多いし……。……そこを、ハルに見られたの。私すっかり忘れてたけど、あのサライってハルん家が経営してるんだからあいつが巡回してるのって当たり前なのよね……」


婚約者相手の家業を忘れるだなんて流石にハルさんに興味なさすぎるんじゃないかと思い、ほんの少しだけど内心あきれた。

汗をかいたおかげか私もだんだん冷静になってきた様で、ベルの話を落ち着いて聞く余裕が生まれてきている。

というか、その日といい昨日といい同じ事を繰り返してるじゃないかと突っ込みたい気持ちにもなったけどそこは抑えた。


「それで、ハルにすごく怒られた。本当にすっごく怒られたわよ何考えてるんだって。子供でもできてみろ、傷付くのはお前だぞって怒鳴られた。だから一度はこの恋はあきらめようって思ったのよ。でも、私、どうしても、諦めるなんてできなくて……」


段々鼻声になってくるベルの話を私は黙って見続ける。意地悪かもしれない、でも彼女が話しやすい様に相槌を打って手助けするのはまだ癪だった。


「それでハルに結婚しないでほしいってお願いしたの。ハルも困ってた。そうよね、浮気されて、即婚約解消のお願いなんて誰だって戸惑うわよね。落ち着いてまた話し合おうってなってその時はそれで終わったの。……その後は知っての通りよ、急にブルーズちゃんを連れてきて『この子と結婚するから』って」

「あぁ……」


ここでやっと私は相槌を打った。色んな意味でなかなか忘れる事のできない思い出だ。すでに少し懐かしいような気がする。

やっと聞こえてきた相槌に安心したのか、ベルは私の顔をじぃっと見てくる。視線を感じた私もベルの方を見返すと、ベルが眉尻を下げて申し訳なさそうな顔をした。


「……あの、ごめんね? 私その時ハルの意図がちゃんと理解できてなくて。『あんなに怒ってきたくせにハルも隠れて付き合ってる子がいたんじゃない、私だけ説教するなんてどういう事よ』って勘違いして、自分の事を全部棚に上げて少しイラついたの。それであの日キスしてよ。って意地悪しちゃったのよ」

「それはもう終わった話だからもういいよ!」


おでこの感触を思い出した私は汗を拭うふりをして顔を隠した。


記憶から抹消しようと思っていたけど、そういえば私達は人前でキスをした仲だ。おで事はいえ、とんでもない事を思い出して赤面しそうになったけど、すでに熱気で顔は赤くなってるはずなので誤魔化せるはずだ。お風呂屋の熱気にそっと感謝する。私が思い出したくない事に触れてしまった事をベルは察したみたいで小さくごめんと謝っていた。


「だから、私が全部悪いの。ハルは悪くないの、なんならハルだって被害者なのよ浮気されてるんだから。なのに、ハルは私の将来を気遣ってそういう事にしてくれたの。女から婚約破棄するなんて普通ありえないから、将来にかかわるから。でもごめんなさい、私達、最初からあなたに全て話すべきだったのよ。……本当にごめんなさい!個人的な問題をあなたに曝け出すのが恥ずかしかったの。それにブルーズちゃんはすぐに街を出て行くと思ってたから、それに甘えてた。だけど言わなくて本当にごめんなさい。巻き込まれてるのに知らない事があるなんて、嫌だったわよね」


気付いたら泣き出したベルは頭を何度も下げてくれる。それを見ながらどう返事をするか考えていた。


「本当にごめん……」

「……いいよ、もう謝らないで」


もっとベルを困らせる返事だってできた。でも、濡れた子猫みたいにどんどん小さくなって消えていきそうなベルを見ると、不思議と「もういいか」という気分になってしまう。

彼女の気持ちだってわかる。恋してる時の自分を知られたくないのは少なからずどんな人にも当てはまる心情だと思う。


「今はもうハルさんと結婚する話は無くなったじゃない。その人と結婚できるんじゃないの?」



「……彼に言い出せないの、怖くて」


しゅんとして眉毛を八の字に下げた。


「遊びだったらどうしようって思うと言い出せない。向こうが本気じゃなかったらって思うと……」


波で崩れる砂の城みたいに「怖いのよ」と言葉の最後に付け足すと、ベルはまた静かに泣き出した。

不本意だけどその気持ちは理解できる。無責任に大丈夫だよなんて、声をかけてあげられない。


「あの人ってそういう人なの?」


「そんな人じゃないわ!ほんとに、良い人なの。信用できて、私の我儘なところも好きだって言ってくれて…」


ベルは咄嗟に否定したものの、自分の言葉でさらに追い詰められたみたいだった。恋人を信じたい気持ちと自分を守りたい気持ちがせめぎ合ってると見える。

恋する乙女の情緒は不安定だ。


「しょうがないじゃない……好きになっちゃったんだもの、止められないのよ。こんなはしたない事、誰にも相談できないし」

「でも、どうするか決めなきゃ。一緒に考えてあげるから」

「……許してくれるの?」

「もういいよ。こっちこそベルに怒ってたわけじゃ無いのに、ずっと態度悪くてごめん。イライラぶつけちゃってた」


慰めるつもりがさらに泣き出したベルは私に抱きついてそのまま泣き続けた。お互い裸で、汗でベタついてるから勘弁してほしいと言う気持ちと、豊かな胸が腕に当たって本気でドキドキする。

人目が気になる。周りの囁き声が全部自分たちに向けられているような気がする。

それでもこの恋に迷う乙女の涙が止むまでは、私は肩を貸す事にした。


「……それにしてもハルも酷いわよ!何も知らない子連れてくるなんて、そんなの誘拐じゃない!」


しばらくして泣き止んだベルはいつもの元気なベルに戻った。さっきまでしおらしくて可愛かったのに、素っ裸で怒ってるベルは冷静に見ると面白くて、私は心の中でひっそりと微笑んでいる。


「私も同意してるから、誘拐じゃないよ」


私は本物の誘拐を知ってる身なので、あれと比べればとても丁寧だ。


「……それでも非常識よ!」


怒るベルを嗜めつつ、同時に『そういえばあの時のハルさんは「なんでもするって言ったよね?」と半ば脅してきたんだったわ』とも冷静に思い出していた。

うーん、今はややこしくなるから、黙っておこう。


「まぁそれでいいならそれでいいけどぉ…でもやっぱりおかしいわよ。もっと怒っていいのに」


自分が口出しする事ではないと分かってるみたいだけど不満はあるみたい。


「いいの。私もそうするって決めた事だから」

「……ブルーズちゃんって、ちょっと変わり者よね?」


笑いながらそんな事無いと否定すると、つられてベルもやっと笑顔になってくれた。

まだ少しぎこちないけど、いつもの私達に戻れそうでよかったと私は安心する。心配事がひとつ減ったら、心がずいぶん軽くなった。


「ねぇ、ハルとはどうなの?」


空気が戻ると元気になったベルが少しニヤニヤして聞いてくる。いつもの根掘り葉掘り聞いてくる時のベルだ。


「……別に、どうもしないよ」


うそです、ついこの間一緒に無断外泊しました。そんな事は口が裂けても言えない。


「うそ、いい感じでしょ?」


じっとりと嘘つきを見るかの様な目を向けなベルは、続けて「正直になったら?」と促してくる。


「ハルの事本当に好きなんでしょ?」


私は自分の顔が赤くなるのが分かった。ベルはそれを見てまた嬉しそうに笑う。

バレてしまってるのならもういいやと投げやりになった私は、ずっと気になっていた事を聞いてみる事にした。


「ねぇ、ベルってハルさんの事好きだった?」

「えっ全然好きじゃないわよ」


予想もしていなかった質問にびっくり顔を浮かべている。


「本当に?」

「だって趣味とか全然合わないもの。私、山に入るとか絶対に嫌。汚れるし、家の中にも入ってきてほしくない!大体、偉そうな態度とってくる男も好きじゃないの。サラがいなかったら話もしなかったでしょうね」


流れる様にハルさんの悪口を言い出した。あぁ、これはもう、完全にいつものベルだ。安心感さえ覚える。


「……じゃあハルさんはベルの事好きだった?」

「えー、絶対好きじゃないわよ、あいつ私みたいな女好みじゃないし」

「……でも大人になっても普通に婚約してたって事は、それまではベルと結婚していいって思ってたって事でしょ?」

「ハルが? まぁそりゃそうだろうけど……ハルって恋愛より友情タイプだから、結婚に……そんなに興味がなかっただけなんじゃ……」


勘づいたベルが急におばちゃんになった。目元がにやぁーっと細くなって、押さえている口元が笑っているのがわかる。黄色い声を上げたら「えっやだ!もう!」と声を上げる。


「やだ〜もう〜怒ってたのって、本当の事言わなかった事じゃなくて、そっち⁉ そっちだったの⁉ やだー!もう!もう!!」


仕返しのつもりか分からないけど私の背中をバンバン叩きつけてくる。痛いと言ってもやめてくれないから顔に向けて水をぶつけたら鼻に入ったと痛がりつつも爆笑し始めた。


「だってそんなの言えるわけないじゃん……!」


恥ずかしさで少し泣きそうになった。人に、こんな気持ちを打ち明けるのは初めてで、こんなに勇気のいる事だなんて想定外だ。


「ごめんごめん、でもやだぁもう〜恋する乙女可愛い〜大丈夫よぉ〜」


子供扱いするみたいに私の頭を撫でながら、ニコニコ顔のベルは話を続ける。


「ハルは絶対、ブルーズちゃんの事好きだと思うわ。だって朝うちに来た時も見た事ない位しょげてたのよ!世界滅亡でもするのかと思ったわ。ハルってね、必要以上に女の子に優しくしない主義なの。まぁ顔だけは良いから色々あったみたい。だから、もう勘違いされるのが嫌だからって」


心当たりがない訳じゃない。


「大体、どうでもいい子にアクセサリー買ってあげたりなんて絶対しないわよ。そりゃ、私だって親命令で一緒に出かけた事くらいはあったわよ? でもドキドキする事は一回もなかったわねぇー。私がねだったとしてもプレゼントとか買ってくれないし」

「……それは私がみすぼらしかったから」

「じゃあ勉強は? 毎日見てくれてるんでしょ? 気がない相手に時間なんて普通使えないわよめんどくさいもん」

「……それも、私本当に勉強できないから、見かねて」

「じゃあさっさとあなたを家に帰さないのは?」

「……タイミングが合わないから」

「ねぇ、本当にそう思ってる? 恋の神様って素直な女の子の味方なのよ? ハルに責任取れって言ってみたら? あいつ多分喜んですぐ責任取るわよ、すぐよ!すぐ!」


ベルは楽しそうにはしゃいでいたけど、何も話せなくなった私を見たら「ごめんね」と言いながらヨシヨシするみたいに頭を撫でてくれる。

溢れ出た気持ちは汗で誤魔化せず、うるさいお風呂に雫がまた一つ、また一つとこぼれていく。ベルは頭を撫で続けたまま私を慰めてくれたけど、大真面目な顔のままボソリとつぶやいた。


「……ところで、ハルのどこに惚れてるの?」

「ちょっと、何でこの状態で聞くん……⁉」


突拍子のない言葉に思わず吹き出したら、そのまま私達は肩を寄せ合ってお互いの未来を祈るみたいに語り合った。お互いの恋路を、根掘り葉掘りしながら。


家に帰るのはまだ少し億劫だ。

お互い頑張りましょと言ってベルとは別れたけど、家の扉がいつもより大きく感じられてそれも憂鬱だ。だけど玄関の扉に手をかけると、いつもより軽く扉が開いて少し驚く。


「あっ」


心の準備もできないまま、同じ様に内側から扉をあけようとしたハルさんといきなり鉢合わせてしまった。


鉢合わせた途端に目を逸らしたい衝動に駆られた。けど、ハルさんが弱気な顔のままでも目線を私から一切逸らさなかったから、それじゃダメだって自分に言い聞かせる。


「今日帰り何時ごろになりますかっ」


憂鬱でどうしようとずっと悩んでいた口を動かした。


「今から仕事なんですよね。帰ったらちゃんと話したい、です。何時になっても待ってるから……」


ハルさんの顔に色が戻る。彼は、驚きつつ間髪入れずに早口で返事をした。


「一二時!」


その後、「いややっぱり、十一時五十分…」と、十分刻みで何度か時間の修正をする。ハッキリした時間を出すために頭で計算してるみたいだ。


「十一時には帰る!遅くなるけど、なるべく早く戻るから!」


駆け足で出ていく背中をその場で見送り、見えなくなったら玄関を閉めた。帰宅に気付いたお母さんが最初は心配そうな顔で玄関まで見にきたけど、私の顔を見るなり「なんか大丈夫そうね」と安堵のため息をついていた。


すっかり夜も更けた。お母さんも、遅くに帰ってきたお父さんもさっさと寝てしまった。

髪に櫛を丁寧に通した。一番気に入ってる服に着替えたら、ピアスと指輪とネックレスも全部身に着けた。

鏡を見て、光沢のある真珠が照る耳たぶを見たら

「似合ってる、大丈夫」と小さく口にする。

全部の準備が終わったくらいに、ぜえぜえと息を切らしてハルさんが帰ってきた。


「考えてみたんです、何が一番嫌だったか」


誰も起こさない様に心がけながら静かに喋った。

準備したお茶にも手をつけないまま、ハルさんは緊張してるのかしょっちゅう顔を触って落ち着かない様子だ。

私もそうだけど。


「私、ハルさんから直接聞きたかった。ベルの恋の事について、勝手に話せなかったのは分かります、初対面の私に、赤裸々に話せる内容じゃなかったですもん。でも偶然知るんじゃなくて、ハルさんの口から聞きたかった」

「それは、本当にごめん、言おうか言わまいか迷ったんだけど、その、タイミングが掴めなくて」


冷静になった私だったけど不満な気持ちはまだ残ってる。だからといって、言い辛そうにしているハルさんに「怒ってないから大丈夫」なんて都合のいい言葉は絶対言いたくない。

ハルさんから全部話すべきだと思ったし、そのまま全部話すのをじっと待った。


「俺から先にきちんと話すべきだった、でも最初に考えた事、衝動的に決めた事とはいえ、日が経てば経つほど幼稚だと思えて、その、全部伝えたら呆れられるんじゃないかと思うと、その、言えなくなった。ずるい事してごめん、でもそう思われたら本当に嫌で……。ベルとの結婚の話、今思えば二人でもっと話し合えばよかったのに、その努力さえ怠ってブルーズを巻き込んだ。それどころか、ブルーズにも責任があるかのように見せかけた。……本当なら怪我が治ったらすぐ家に送ってあげるべきだったのに」


私は黙ってハルさんの話を聞き続ける。


「こんなバカみたいな事に巻き込んでごめん、見損なったなら今すぐでも家まで送っていくし、俺とが嫌なら人を雇う。でも、謝罪だけでも聞いてほしいんだ、本当にごめんなさい」


謝罪の言葉を述べると、そのままつむじが見えるまで頭を下げ続けた。

彼は真面目な顔して、申し訳なさそうに眉毛を下げて、少しでも刺激したら泣き出しそうな顔をしてる。


「……何してんの?」


だからって訳じゃないけど、白いつむじを人差し指でツンと強く突いた。

彼は私の謎の行動に、ただひたすら困惑している。それでも少しの間、ぐりぐりと突き続けた。


「ここ押したら下痢になるって聞きません?」


でも、別にこの行動に意味なんてないから、こうとしか答えられない。



私だって迷った。

謝罪ひとつで許していい問題なのかって。


私がいなくなって一番心配してるのは私の家族だ。

彼は私だけじゃなくて、私の家族だって傷付けてる。

普通に考えたら許されるわけない。

きっと、重い罰を受けるべき人だ。


それでもこんなに元気のない姿を見ていると、自然と許す気になってしまった。


「…………下痢になったら許してくれる?」

「なんなくていいです」


最後にもう一回ぐりぐりと押し付けてからそっと離す。

全部許したくなった途端に触れたくなった。

指先だけでいい。

それで充分、それ以上望まない。

指を離すとハルさんはそっと頭を上げる。目が潤んで下まつ毛が下まぶたにくっついていた。私は彼の手を覆うように取って、少しだけ握り締める。



「私もごめんなさい、話も聞かずに怒って。信頼されてないみたいで、色々考えたら、ついカッとなっちゃって」


ハルさんは、私の指輪のついた指だけ握り返した。でもそれだけ。それ以上指が絡む事はない。


「私だって悪かったです。自分からきちんと話を聞こうとしなかった。話し辛い空気を作ったのは私かもしれないです」


  『だって話が進まなきゃこのままいられる』


口から出かけた言葉は飲み込んだ。これを伝えるには今はまだ勇気が足らない。


「ううんそんな事ない。全部俺のせい」


ハルさんはそう言うと指の力を少し強くする。そんな小さな反応でも嬉しいと感じる私がいた。手のひらの熱が、わだかまりをゆっくり溶かしていく気がする。


「ピアス」

「え?」


ハルさんが呟く。


「ピアス、つけてくれてて嬉しい。指輪も、ネックレスも。朝はつけてなかったから」


そう言いながら指で指輪をなぞる。


「付けてないからまだ怒ってるんだって、朝は思ってた。なんていうか、だからさっき気付いて、嬉しかった、安心した……」


力が抜けて独り言みたいに呟いた。スリスリと指輪をなぞる指がくすぐったいけど抵抗はしない。

段々と重苦しい空気が薄れていって息がしやすくなった。だから、もう意固地になるのはもうおしまいにする。


「ねぇ、私には、ハルさんしかいないんですよ。本当の話できるのハルさんしかいないんだから。だから、これからは隠し事はやめてほしいです。悲しくなるから」

「うん、ごめん、ほんとにごめんね」

「……じゃあ、もういいですよ。あのね、仲直りしたいです」

「……うん。……あのさ、ハグしていい? 仲直りの印に」

「…………はぐ? 爬具※貝をとる漁具? 今から貝取りに行くんですか?」


私はきっととってもとんまな顔だった。涙ぐんでいたはずのハルさんが一瞬で真顔に戻る。


「まさか私の皮を剥ぐんですか⁉ えぇ⁉ ハグって何? 怖い事?」

「ううん、ハグは忘れて」


何故か知らないけどハルさんが笑いを堪えてる。笑ってはいけないと思ってるのか顔は隠していたけど肩が震えているから丸分かりだ。私は多分また何か馬鹿な事を聞いたんだろうなと思うと恥ずかしい気持ちになった。



「もー、じゃあひとつ聞いていいですか?」


「ん? 何?」

「ハルさんって、ベルが好きでしたか?」

「……………………………………なんで?」


モジモジしながら勇気を振り絞った私に、ハルさんはまた真顔に戻る。


「だって、何も無かったらベルと結婚するつもりだったんなら、そうだったのかなって」

「何でそうなるの? ベルの事好きじゃないってずっと言ってるじゃん」

「だってベルってすっごく可愛いじゃないですか。なのにそんなの、いまいち信じられなくて」

「ベルは、子供時代にお漏らしして大泣きした事も知ってる位、古い付き合いの奴だよ? 妹みたいなもんだからそういう目で見た事一度だってないよ」

「でも別に仲は悪くないんでしょ?」

「それと結婚するしないは別でしょ? どうして急にそんな事を……」


くどい事をした私のせいだ。

慣れない事なんて言うんじゃなかった。私の顔が首までみるみる赤くなっていってるのがわかる。


「……あ、へ⁉ 怒ってたのってそういう事⁉」


思惑がバレるのなんて当たり前だった。目をぱちくりさせながら慌てふためくハルさんは聞いた事のない様な驚きの声を上げた。


「ない!ベルは無関係、いや無関係ではないけど!ベルがきっかけだったけど!俺からそういう気持ちとかはガチで、本気で、一切、一mmもないから!」

「そこは拾わんくていいの!」


想定外だと言わんばかりに慌てて弁解する彼に見事な逆ギレを決めた私はつい大声を出してしまった。勇気を振り絞る場面を間違えた。穴が入ったら入りたいし、ここから逃げ出したい。


「言わなきゃよかった」

「ねぇブルーズ、こっち向いてよ」


恥ずかしがる私を震えた声で揶揄う。


「いやだ」


この人はいつもそうだ、自分がちょっとでも優位だと思ったら調子に乗る。さっきまで泣きそうだった癖に、立場が逆転してしまったらいつもの調子に戻って私を揶揄うとする。


「じゃあいいよ、そのままで」


いつまでも振り返らない私に痺れを切らしたハルさんは、私を背中側から抱きしめた。

驚いてびくりとする私を逃さない程度の力が腕に加わる。そのままぎゅうっと抱きしめたら、腕をポンポンと叩いて彼は私から離れた。時間にしたら数秒だけど、真っ白になった頭ではもっと長い時間抱きしめられた様な感覚が体に残ってる。


「これがハグね、仲直りの印」

「あ、そ、そ、そうなんですね」

「嫌だった?」


口を紡んだ私を見てハルさんは満足そうだ。ムカつく。


でも多分、ハルさんもこれ以上は踏み込んでくるつもりがないみたいで、そのゆっくりな歩み寄りに私は安心した。

大人ぶっていた癖に気が抜けたのか、悪戯を許してもらった小さな男の子みたいな顔になる。ぐしゃぐしゃに丸まった紙が平らに戻るみたいにハルさんはへにゃっと笑った。

その変化を見て、つい可愛いと思ってしまった。さっきまで余裕なんて無かったくせに、私が許したら本当に嬉しそうな顔をする単純さに思わず口角が上がる。

だけど、私だってきっと同じ顔してる。それを隠すのもおかしい話だから、彼の目を見て微笑み返した。


その後は一人分の夕食を半分こして食べた。

私達はこの夕食のパンと同じだ。同じ嘘を共有して、同じ罪を被った。でもハルさんの方が悪いから少しだけ大きめに分けてあげる。

別に、仕事帰りのハルさんに少し多めにあげたいとか、私がこの人に甘いとかそういう訳じゃない。

私のせいでこの人は少し太ってしまえばいいって思っただけ。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?