朝起きたら昨夜のことなんてなかったかの様に彼は飄々としていた。約束通りに観光したらお母さん好みのお土産を買って街に帰ったけど、それは効力を発揮する事もなく、無断外泊については予想通り大目玉を食らった。
ご両親からは遠回しに何かされなかったか尋ねられたけど、私は何もなかったと嘘をついて、そしてすぐにいつもの日常に戻った。
街にはいつもより大きなキャラバンが訪れて朝からそこら中騒がしかった。ユリウス家が運営に携わっているキャラバンサライの方にいつもより大量の商人が泊まるから、いつもは現場に出ないハルさんとお父さんもあちこちに駆け回って忙しそうにしてる。
お母さんから従業員さんへの差し入れと2人の弁当を持っていく仕事を与えられた私は宿に向かった。すっかり顔馴染みになった従業員さんとお父さんにはすぐ会えたけど、ハルさんは宿のどこを探してもいない。
仕方ないので歩いて15分くらいの距離にあるサライの方へと向かった。異国の香りが漂うサライでは、文字通り嗅いだことが無い香水と独特な体臭が入り混じって、じっとしていると悪酔いしそうだ。ラクダの鳴き声と酔っ払いの人混みの中でハルさんを探している途中もたくさんの外国人ともすれ違う。人の事を言える容姿じゃないけど、雑貨屋のクリシュナ君みたいに肌の黒い人や、のっぺりした顔つきの人も多い。知らない外国語も聞こえてくるから異国に迷い込んだ気分だ。
キャラバンサライは大きなロの字になった建物で、みんな二階の区分けされた部屋の中で寝ているらしい。旅の疲れを癒したら、マーケットで商売をして一儲けするそうだ。
今は久々の都会と、屋台の食べ物や酒に満足しているみたいだ。そして、団体客を待ちわびていたセクシーなお姉さん達の誘惑にみんな鼻を伸ば始めてる。
彼女たちは胸元が大胆に出ている服を着て客引きしてるから女の私でも目のやり場に困ってしまう。一度間違えて
何であんな場所があるんだろう、ケチをつける立場じゃ無いけど下品だなと思いながらそそくさと逃げた。
でもこういうピンクな場所のおかげなのか、カップルがいつもよりも多い気がする。普段なら結婚前の若いカップルが一緒に歩いていたらそれだけで雷を落とされるのに、ここなら人混みに紛れて見つかり辛いから利用してるみたい。
色々な事を考えて、道行くカップルに自分の姿を重ねた。声をかけてくる人を適当にいなしつつ彼を探していると、ふと、すれ違った団体の話し声が耳に飛び込んで来る。
「なぁ今すれ違った子、すっげー美人じゃね?」
「あぁー赤い髪の子だろ分かる。男連れだけど」
赤い髪という単語に足が止まった。赤髪といえば私の中ではベルだから自然と彼女の顔が思い浮かぶ。
赤い髪で美人な女の子なんてまるでベルみたいだ。とはいえ、ベルがこんなところにいるはずがない。
きっと偶然の一致だ。そう思っていたのに、彼らが歩いてきた方へ目を向けると、見覚えのある人影が視界の端に写った。
驚いてとっさに物陰に隠れる。そして、もう一度その後ろ姿をまじまじと見る。
やっぱり、スカーフで頭を隠していたけど、あの豊かな赤髪の後ろ姿には見覚えがある。
「ベル?」
何でベルがこんなところにいるんだろう?
サライは旅人の為にあるものであって、地元の女の子が用のある場所じゃない。そもそも治安がとても良いとは決していえないサライは、ベルみたいなお嬢様は決して近付かないようにと強く言い付けられているはずだ。
……もしかしたら無理矢理連れてこられたのかもしれない。危険な目に遭っていたら人を呼ばないとという正義感から、私はこっそりあとをつけた。
ベルは男の人と肩を並べて人通りのない裏道へ行くと、危うい事をされるでもなく、壁にもたれてのんびり話し始めた。
男の人は歳上に見える。普通の人って感じで、優しそうな印象だ。服装はしっかりしてるから多分きちんと働いてる人でプー太郎とかでは無さそう。
距離が近い、腕と腕が触れ合うほど近くに寄り添いながら二人でお喋りに花を咲かして、とても楽しそうだ。二人とも笑顔を絶やさないし、無理矢理連れてこられたとかじゃない事はすぐに分かった。
余計なお節介だったみたい、と反省しつつ、じゃああの男の人は誰だろう? という疑問が新たに生まれる。
もう少し二人を観察してみる。
ベルは今まで見た中で一番女の子らしい穏やかな笑顔を浮かべている。いつも可愛くしてるけど、今日は髪を結い上げ、アクセサリーもいつもの倍つけて特別気合が入ってる様に見える。そもそもあの服見た事ない、もしかして新しいやつだろうか?
よせば良いのにそのまま覗きを続けた。
二人はずっと楽しげに過ごしていた。話の内容までは流石に聞こえなかったけど、軽くボディタッチくらいはしていて親しい関係柄な事が伝わってくる。
恋に疎い私だって、流石に関係性が分かりつつあった。
――そして、おしゃべり中にふと、沈黙が流れる。
話が途切れ、二人の顔から笑顔が消えた。
だけど、その時を待ち侘びていたかのようにベルがソワソワするそぶりを見せると、そっと目を閉じ顎を少し上げる。
男の人はそれに気付くと躊躇う様子も見せず微笑んで、そのままそっと唇を押し当てた。
しばらくして離れた。二人は少し照れながらも微笑んで、また唇を何度も、何度も、何度も重ねていく。
そう、何度も、何度も何度も、何度も、えっ、うそ、なんども、な、な、な、何度も、なんども……。
見てはいけない光景を見てしまった私はまた物陰に隠れた。彼女達が何度キスしたかわからない、途中で耐え難くて見ていられなかった。
自分がキスしたわけでもないのに顔が一気に熱くなった。変な声が出そうになったのを必死で抑える。
「ベルって彼氏いたんだ……」
大人の空気に当てられた体が火照って熱々だ。
体の熱を下げようとパタパタと顔を仰ぐ。反面、私の頭の中で冷静に、計算式がスルスルと解ける時みたいに、自然と考えが纏まっていった。
確かハルさんは最初、「ベルとは性格が合わないから結婚したくない」って言ってた。ベルも、「ハルとは結婚したくないの」と言っていた。だから偶然出会った私が恋人っていうていの嘘をついて、そのままハルさんの家で暮らす事になった。
そこまでは別に何も問題がない。
でも私は最初、この二人には実際は男女のもつれがあったんじゃないかって疑っていた。
何故なら親が決めた結婚を「性格の不一致」だけで結婚を止めにするなんて事、普通ならあり得ない。もし相手に不服があろうと、普通は親に従うはずだからだ。
私はいつからそれに疑問を持たなくなったんだろう。
都合のいい考えは捨てろ、ブルーズ。答えを導き出せ。
『ベル以外の女の子からの告白は全員振ってたものね』
女子会の時、誰かが言った言葉が脳裏をかすめた。
普通、あんな美人の子に性的に惹かれないなんて事、ある?
ベルは本物の美人だ。実際に、すれ違った男の人はみんなベルの方へ振り返って鼻の下を伸ばしてる。
性格の不一致なんて言いながらも別にハルさんとベルが話す様子を見るに、本当に不仲に見えた事なんてなかった。
お互いに悪態をつけるのはそれだけ信頼関係を築けてる証拠でもある訳だし、ハルさんは女の子からの告白を断っていたって事は、途中までベルと結婚する事自体は人生の経過の一つとして受け入れていたんじゃないか? と思う。
「ブルーズ!」
急な呼びかけにどきりとした。
雑踏の中で聴き慣れた声が聞こえる。道の向こうから私を見つけたハルさんが、いつもの眩しすぎる笑顔を向けて、人混みを避けながらこっちへ向かっていた。
その笑顔を見ながら、私の心の中で積み木が危うい揺れを見せながら上へ上へと積み重なる様に、答えが導き出されていく。
男の人の火遊びなんて誰も咎めない。
別に好きでもない婚約者なら、放っといて女の子と遊ぶ事なんてハルさんならできたはずだ。実際、ハルさんが女の子に困るなんて事あるはずがない。
――だけど、それをしなかったという事は、ハルさんは本当はベルが好きだったんじゃないか?
だけどベルに恋人がいると知ったハルさんは、ベルの幸せの身を想って引いたんじゃないか?
『俺は我慢だけはできるの』
ハルさんの何でもなかったはずの言葉が頭の中で反響する。
人よりも我慢ができるって事は、自分の幸せよりベルの幸せを祈るという意味でも、受け取る事ができるんじゃないの?
宝石みたいな目を輝かせながら、人の波を切り分けて進む彼がいつもと違って見えた。
彼は本当は好きな子を諦めた優しい人なんじゃないかって、思った。
私以外に、不器用すぎる優しさを、向けたんじゃないかって、思ってしまった。
私は彼の手を無理やり引いて跪かせる。
悪ふざけしてると思ったのか「何?」と笑っていた。頼むからそんな、好きな子に向ける様な顔を今の私に向けないで。
ハルさんは私が指差したベルのいる路地裏の方へ目を向けると、白い肌から血の気が一気に引いて真っ青になる。
そして、非常に慌てた様子で言い訳を並べ始めた。違うとか、あれは、とか、失笑する程言葉になっていない。
「黙ってて」
強い口調で遮るとハルさんは何も言えないまま固まる。そんな彼を置いてそのまま無言で立ち去ろうとした。
「待って、送っていく、一人じゃ危ない」
でもそう言って手を掴んでまで止めるので、気まずい空気のまま街の大通りまで送ってもらった。
お互い無言だった。ハルさんは何か言おうと考えてるみたいだった。話がまとまらないのか、話すには時間が足らないと思っているのか分からないけど、汗をかきながら目を泳がせている。私もたまに彼の顔を覗き見る以外は何も話さなかった。
大通りに出ると私は逃げ出すみたいに家に向かおうとした。それを遮るみたいに、また私の手を掴んだハルさんが必死な顔で私に伝える。
「ごめん、でもやらないといけない仕事がたくさんあって。夜に必ず話すから起きてて」
そう言い残してサライの方へと引き返していった。
モヤモヤした気持ちを抱えたままハルさんを待った。いつもなら寝る時間を過ぎた頃に物音がしたから玄関まで迎えに行き即座に私の部屋へ連れ込む。勢いよく閉じた扉がバタンと大きな音を立てたけどそれに構っている余裕はない。
いつもの定位置にお互いに座ったら問いただす様に私は口を開いた。
「知ってたんですよね、ベルに恋人がいるの」
「……知ってた」
「ハルさんがベルと結婚しなかった理由は、性格の不一致じゃなかったんですか?」
「……ごめん」
「ベルには前から恋人がいたから、ハルさんが身を引いたんですか? それで合ってますか?」
「……合ってる」
彼は痛い所を突かれ、息ができなくて苦しんでいる様な、そんな顔だ。
そのまま苦い思い出を語る様な口ぶりで、「ブルーズと会うちょっと前の事だけど」と、ポツリ、ポツリと事情を話し出した。
ベルに恋人がいる事に気付いたのは、私と出会う数日前の事。
サライで仕事をしていたらさっきの男と逢引しているところを目撃したそうだ。
翌日呼び出して叱り付けた。最初は素直に認めてごめんなさいと謝っていたのに、途中からはあの人の事を死ぬほど愛してると泣かれ、ハルさんとは結婚できないとも言い出した。
どうするか一旦保留にして一人で落ち着いて考えたかったハルさんは誰もいない山の中へ向かった。
ベルと結婚する事はハルさんが望んだ訳じゃないけど、自分の未来はそういうものだと思って生きてきたから、どうするべきかすぐに答えが出せなかったらしい。どうすれば一番良いのか冷静になって考える環境が欲しかった。だから誰もいない森の中へ中へと入っていって、奥の泉で死にかけてた私に出会った。
最初は、可哀想な目にあった私を助けたらすぐ家に送るつもりでいたそうだ。
でも結婚相手も決まってなくて、身元もはっきりしない世間知らずな私と話すうちに、悪魔が囁いたらしい。
『この子を恋人だと偽れば全てうまくいく』と。
そんなハルさんの独白を、私は無言で聞き続けた。
分かってる、私は最初からそういう役割でそういう約束をしていた。別に、何も矛盾なんてしてない。
ハルさんが、ベルの事本当は好きだったかもって事以外は、何もおかしな話ではない。
「何で最初に全部言ってくれなかったんですか」
我慢していたものが一粒溢れでた。
そばにあったタオルに手を伸ばすと、取ろうとしてくれたハルさんと手が重なり、思わず払いのけた。
幼稚すぎる反応なのに、ごめんなさいなんて嘘でも言えない。
ハルさんは怒りなどの表情は表さずただただ悲しそうな顔をして、手を元の位置へ戻す。
そして、口を開いた。
「…言わなかったのは、言う必要が無いと思ったから」
「…………………………はい?」
何を言ってるんだ、この人。
「――そーですよね、私って所詮、他所者ですもんね」
言葉が出ない。成り行きとはいえ恋人という事になってる私を、一ヶ月半も同じ家で過ごしてきた私を、赤の他人だと言いたいんだろうか。
ハッとしたハルさんが慌てて、違う、言葉の綾で、とか何か言い訳しようとする。
「ごめんなさい長い事居候なんてしちゃって。私、勘違いとかしてないですから。すぐ出ていきますんで、安心してください」
「待って、話聞いて」
静まり返った街の一室で、気付けばハルさんの手を叩き落として、怒鳴り声で彼を制そうとする醜い私がいた。
「うるさい!」
何も聞きたくない。
「黙っとってよ!」
これ以上何にも傷つきたくない。
部屋から無理矢理追い出したら内鍵をかけて「あっち行って」と喚いたら、つけていたアクセサリーを乱暴に全部外した。
汗も拭わずに乱雑に箱に片付けてそのまま鏡を見たら、ただの田舎娘が映る。無地の布みたいに地味でつまらない見てくれの私だ。
何もしなくても綺麗な人とは違う。
勘違いしていた、こんなアクセサリーつけてるだけで自分の価値が上がる訳がない。きれいな服で、身分が改まる訳でもない。
私は本当はこんな所にいる人間じゃないって事を久々に思い出したら、扉の向こうから弱々しく聞こえる声に返事なんてできなかった。