いつもより高い視界に、風を切る音が心地かった。
ティカちゃんは有り余った自慢の脚力を見せびらかす様に平原を全力で走り抜ける。少し後ろからハルさんを乗せたクロが私達を追いかけてきたけど、風になったブルーズとティカのペアには到底追いつけなんてしやしない。縮まるどころかどんどん遠くなる2頭だけが平原を駆け抜けていく。
「速いよ、ちょっと、速いって、ストップ、止まってって!俺の負けでいいから!」
クロを走らせていたハルさんが笑いながら負けを認めた。
しばらく馬を走らせていないのに暇がないと困っていたお父さんからの頼みで、私達は2人と2匹で遠出していた。私はティカちゃんに、ハルさんはお父さんの馬のクロに乗って地平線の見える草原をあてもなく騎行している。
「そんなに乗馬がうまいなんて思わなかった」
開けた平原で2匹を放牧させた後、私達は木陰でピクニックセットを広げて休憩していた。くべた火の上でやかんを沸かしていた私の鼻は高くなる。
「お兄ちゃんの馬によく乗ってましたから」
昔、お兄ちゃんがどこからか馬の赤ちゃんを拾ってきてそのままうちで飼ってる。馬種は知らないけど結構大きくて元気な馬だから乗りこなせるのは、私と馬を拾ってきた本人と、父さんしかいない。なので家の仕事が忙しい時は私が馬を走らせて運動させないといけなかったので馬には乗り慣れてる。
「いや、そこまでいけば才能だよ。運動神経いいんだね」
人目がないからか上着を脱いでシャツだけになったハルさんは暑そうに汗を垂らした。特技を褒められた私はちょっと上機嫌になったので団扇で扇いであげると、彼は気持ちよさそうに顔を緩ませる。
「俺はさぁ、遊牧民の子孫なんだよ。女の子に馬の乗り方で負けるなんて悔しい」
「ティカちゃんの脚も速いんだと思いますよ」
「えぇ、じゃあ俺が走らせてる時は手抜きしてるのか? ティカ」
おーい、ティカ、おーいとティカちゃんがいる方へ文句を言っていたハルさんだったけど、聞こえなかったのかティカちゃんは若草を夢中で食べている。無視された彼は少し拗ねた顔をすると寝転んで、胸元をつまんで風を送っていた。髪も一つに結び直してうなじを晒してる。
私も靴のまま敷物にごろんと転がると、一面の真っ青な空を見上げて、全身で大きく伸びをした。
「あ゛ー、田舎だぁ……!」
「落ち着く?」
「うん!」
都会も悪くはないんだけどどこに行っても人がいるので、田舎育ちの私はこういう土と草の匂いがするだけの何にもない場所がたまに恋しくなる。
街は何となく時間が進むのが早い気がする。毎日どこかしらでイベントが行われるから流行の話題が次から次へと変わっていく。それか日記をつけるようになり日付を意識するようになったからだろうか。この街に来て一ヶ月半が過ぎたけど、村で過ごす一ヶ月半より早かったような気がする。
平原では耳を澄ましても風が草原を靡かせる音とティカちゃん達が草を喰む音しか聞こえない。この心地よい静寂さは村そっくりで落ち着いた。頭が空っぽになる程青空を見上げる。真っ白な雲が風に流されて、東へと穏やかに流れて行った。実家でもよくこんな風に空を見上げて、流れていく雲を動物に例えたりして友達と遊んだ。あの雲はどこに流れ着くんだろう、東の方に住んでる人はあの雲を見て何を想像するんだろうか。そんな何でもない事を考えて居たら、今ならこの空と同じくらいあの話も爽やかに話す事ができるんじゃないか、と思い立った。
「ねーハルさん、私達いつ別れます?」
なので、思い切って話題にあげてみる。
「……今その話するの?」
だけど彼は乗り気じゃない様子だ。明らかに声がピリッとした声色に変わった。
「だってここ誰もいないから、心置きなく話せるじゃないですかか」
穏やかに話を進めようとする私とは変わり、ハルさんの顔がどんどん曇っていく。
「……父さんと話してるのは三か月後はどうかって」
「何を?」
「式」
「……えっ結婚式の事? 本当に挙げるんですか?」
以前参加してわかったけど、この街の結婚式はとにかく派手だ。三日三晩祝い続ける様な式を挙げてから蒸発なんてしたなら、多額の賠償金を払わないといけないんじゃないかと思う。
そんなのは払えない。払ってしまったら私だけじゃなくて、うちの未婚の兄弟全員が結婚できなくなる。それだけは絶対に避けたい。
「だから、なるべく早く別れないととは、思ってる」
沈んだ様な声でポツリというと、ハルさんは上着で顔を隠して見せてくれなくなった。
風が吹いて前髪を乱した。誰も見てないのに私はそれを直すとお茶を一口飲んで彼が何かを言い出すのを待った。だけどそれっきり黙って何も言わなくなったから、私から話題を振らないといけないんだと思って少し無理をして明るい声を出した。
「そうですね、あれやっちゃったら本当に結婚しないといけない感じになっちゃいますもん」
冗談だとわかる様に、わざとらしく笑って返事を促した。
――だってのにいくら待っても待っても返事がない。ここは笑い返してくれないと滑ったみたいで恥ずかしいじゃないか。
これは本当はハルさんが考えるべきなのになと思いつつ、私は真面目に策を出した。
「……また出かけた時に、喧嘩した事にして、私だけ村に帰るのはどうですか? うちの村まで送ってもらえるとしたら距離もあるし、それならハルさんが探し回ったって事にして、一日二日帰ってこなくても不思議じゃないんじゃないかなって」
「……うん」
上着の下から返事が聞こえる。聞いてはいる様なので続けて策を連ねた。
「それか私が財産目当ての女だった事にして、お金盗んだフリして逃げちゃうのはどうですか? お母さん達、息子が泥棒する女と結婚しなくてよかったわぁ~ってなるんじゃないですか……ねぇ今鼻で笑いました?」
「笑ってない」
「笑いましたよね?」
絶対、上着の下で空気が鼻から抜ける様な音がした。
「役人呼ばれそうだしそれは止めようよ」
不真面目な態度に少し苛ついたけど、泥棒って事にすると確かに役人に被害を訴えられるかもしれない。平穏な日常に戻りたい私にとって確かにそれは悪手だ。
風が吹いて前髪を乱した。誰も見てないのに私はそれを直すとお茶を一口飲んで彼が何かを言い出すのを待った。だけどそれっきり黙って何も言わなくなったから、私から話題を振らないといけないんだと思って少し無理をして明るい声を出した。
「そうですね、あれやっちゃったら本当に結婚しないといけない感じになっちゃいますもん」
冗談だとわかる様に、わざとらしく笑って返事を促した。
――だってのにいくら待っても待っても返事がない。ここは笑い返してくれないと滑ったみたいで恥ずかしいじゃないか。
これは本当はハルさんが考えるべきなのになと思いつつ、私は真面目に策を出した。
「……また出かけた時に、喧嘩した事にして、私だけ村に帰るのはどうですか? うちの村まで送ってもらえるとしたら距離もあるし、それならハルさんが探し回ったって事にして、一日二日帰ってこなくても不思議じゃないんじゃないかなって」
「……うん」
上着の下から返事が聞こえる。聞いてはいる様なので続けて策を連ねた。
「それか私が財産目当ての女だった事にして、お金盗んだフリして逃げちゃうのはどうですか? お母さん達、息子が泥棒する女と結婚しなくてよかったわぁ~ってなるんじゃないですか……ねぇ今鼻で笑いました?」
「笑ってない」
「笑いましたよね?」
絶対、上着の下で空気が鼻から抜ける様な音がした。
「役人呼ばれそうだしそれは止めようよ」
不真面目な態度に少し苛ついたけど、泥棒って事にすると確かに役人に被害を訴えられるかもしれない。平穏な日常に戻りたい私にとって確かにそれは悪手だ。
「だって私、ハルさんよりお母さんといる時間の方が長いですもん」
それに三人家族の中で一番長い時間を共に過ごしてるのはお母さんだ。仲が悪かったらこんな長い間お嫁さんのふりなんて耐えられない。
「……ブルーズのコミュ力の高さが仇になるとは」
意味が分からなかったから「こみゅりょく?」と聞いたのに意味は教えてくれなかった。
「でも私、お母さんの事好きだからもう冷たくなんてできないです」
「それなんだよなぁ。ブルーズが悪い奴だったみたいな事にするのは母さんも傷つけそうで気が引ける」
上着の下からまた返事をされた。
「……ねぇ、ハルさん、怒らないから教えて欲しいんですけど、最初に立てた作戦、私が長居しすぎたからもう計画破綻してるんでしょ? なのに代わりの案とか何も考えてないでしょ」
いくら返事を待っても無言だったので、いい加減顔を晒してやろうと上着を剥ぎ取ろうとした。
でも両手でぎゅと顔に押し付けて「やだー」と抵抗されてしまう。もう!と怒りながら軽くお腹を叩くと、隙間から目だけ出してじぃっと湿っぽく睨まれた。
すっかりハルさんの美形っぷりには慣れたつもりだったけど目元だけ出されるとより際立って見えて一瞬許してしまいそうになる。いやダメだダメだ、だからこの人に責任を放棄させるわけにはいかない。ここでまた許したら私は永遠にこの街から出られない。なので私は気持ちを強く持ち直した。
「そんな顔してもダメです!嘘の結婚話言い出したのハルさんでしょ!行き当たりばったりじゃないですかこのおばか!」
「……………………ごめんなさい」
長い沈黙の後に返事は返ってきたけど、頼りなさ過ぎて、叩けば空っぽの乾いた音がしそう。
またすっぽりと顔を隠してしまったのでこの件について考えたくないのかも、とは思った。けどそれとこれとは別だ。主犯なんだから、ちゃんとした作戦を考え直す義務がこの人にはある。
「あの時は事情があって、ベルとの許嫁の話を破棄させる事しか頭がなくて必死だったから、ブルーズさえ説得できればあとはどうにかなるって思って、その後の事はあまり考えてなかった」
言葉を区切る様に辿々しく答えた。
「……それで、段々、言い出しにくくなって」
あぁやっぱり。
最近の彼は私が家にいるのが当たり前のようにして過ごしている。私の帰宅話は一切口にしないし、話そうとしたらはぐらかそうとする。
「……じゃあもう今日はいいから、またちゃんと話し合いましょうね」
はっぱをかけてでもちゃんと話を進めないと。私がしっかりしないと。
そうとは分かってるのに、どうして私は甘い対応をしてしまうんだろうか。
お腹いっぱいになったティカちゃん達が戻ってきたのでブラッシングしてやっていると、ハルさんの寝転がっている方向から寝息が聞こえてきた。上着を枕代わりにして熟睡してしまったみたいだ。
ハルさんは用事がない限り仕事をあまり休まないし、日頃の疲れが溜まっていたのかもしれない。日陰だと涼しく、屋内にこもっているより何倍も心地よい気分になれるこの場所では眠気が来るのも仕方ないのかも。
休みなんだし、起こさずにゆっくり昼寝させてあげよう。
「ほんとーに、良い天気」
緑色の野原と澄んだ夏の青空が織りなす景色は、田舎を思い出させるには充分だった。心地よい風が雑草を揺らし、雲を遠くへと動かしてしまう。尻尾を左右に揺らすティカちゃんが気持ちよさそうに鳴いたから、私は話しかけながらブラッシングを続けた。
「ティカちゃんって、田舎と都会どっちが好き?」
ツヤツヤな黒い毛並みを撫でながら尋ねるとキラキラの目で、私を見てくれる。そこに私が映っていた。さらにその背後には山が見える。山の方へ振り返ったら実家のある方角だった。
……あの山の向こう側に出たら、大きな道をまっすぐ進む。いくつかの街を抜けて川を越えたら、またひたすらまっすぐ進む。またその山を越えつつ、中腹で方向を変える。
そしたら私の生まれ育った村に辿り着く。
地図を見たから道は頭に入っていた。
ここからならきっとティカちゃんに乗って飛ばせば一日半くらいで辿り着く事も覚えてる。
「私は田舎派かもしれないよ」
ティカちゃんが鼻を鳴らす。
「ティカちゃんも?」
聞き直すとさらに鼻を鳴らし、ふんふんと鼻息が荒くなる。
「……あぁ、ティカちゃん都会派?」
正解と言わんばかりに顔をベロっと何度も舐められた。
顔を拭いてからまだ時間に余裕はあると思った私は、再びお湯を沸かすとお茶を入れ直して休憩した。
普段は家事や勉強に追われているから、こんなに何もしなくて良い時間なんて本当に久しぶりだ。ティカちゃん達も二匹で仲良く散歩したり遊んでいるみたい。広大な大地を自由自在に走り回って楽しそうだ。
三角座りをしてその光景を見ていると私もついコクリコクリと船を漕いでしまう。手仕事に刺繍セットを持ってきたけど、意識は段々と遠のく。
今は多分、午後二時くらいだろうか。お日様はてっぺんを少し外れたくらいの位置にあるけど木陰のおかげで眩しくはない。ここから街へは二時間くらいの距離だから、遅くても四時には出ないといけない。夏とはいえ夕方を過ぎれば暗くなって、灯りなしでは帰るのが難しくなってしまうし、遅くなればお母さんたちが心配する。
そうと分かっていたのに眠くなった私はあくびをしながら「まだ日は高いし、私も少しくらい寝てしまっても構わないでしょ」と思ってしまった。
私も疲れが溜まっていたのかもしれない。目覚めたら辺りは真っ暗だった。
飛び起きたと同時に横で呑気に寝てるハルさんを急いで叩き起す。今日は早めに帰る予定だったのでランプの類や宿泊道具なんて持ってきてない。
「今から帰るのは無理かも」
ハルさんは懐中時計を見ながら参ったなーという顔をする。楽天的に見える顔にどうするのよと一人焦っていると、ハルさんが「近所にうちの宿があるし大丈夫大丈夫」というから今晩はそこに向かう事になった。
普段は空いてる所だからすぐ泊まれるよと言うから、私も安心し始めていた。今日はあったかい布団で眠れるみたい、野宿は勘弁して欲しかったから助かった。
だけど、たどり着いた宿の受付で、ハルさんはさっきからずっと髭の生えたおじさんと揉めている。
「近くで崖崩れが」とか不穏な言葉が聞こえ、その後も何度かやり取りを交わす。ハラハラしながら見守っていたらしばらくしてから彼は困った顔でこっちを振り向いた。その表情に私も不安を胸に抱え恐る恐る「どうしたんですか?」と声をかけると頭を抱えたように私に伝えた。
「ごめん、今日はもう一部屋しかないって」
「部屋にはブルーズが泊まって。俺は誰かの家に泊めてもらう」
ハルさんが頭をかきながらそう指示した。だけど、受付のおじさんは不思議そうな首を傾げている。
「……? 坊ちゃんこの方、噂の新しい婚約者さんでしょ?」
「いや、そうなんですけど」
ハルさんの返事を聞くとおじさんは急にニンマリと笑みを浮かべ、私とハルさんの顔を交互した。そうするとさらに満足そうにニンマァーリと笑う。
「じゃあ一緒に泊まればいいでしょー? 大丈夫ですよ、タシュさんに言いつけるなんて野暮な事しませんから!」
タシュさんっていうのはハルさんのお父さんの名前だ。受付のおじさんは白い綿みたいな髭を触りながら含み笑いし、「わしは若者に理解があるぞ」と言いたげな顔をしている。
「女の子一人で部屋に泊めるのもアレでしょ? 何かあったらどーするんですか」
「いや、ブルーズ一人で泊らせます。……ねぇ、アルルクさん家泊めてくださいよ。お礼ならするから」
ハルさんは苛立照れた様な顔で宿泊を依頼する。だけどおじさんは顔の前でぶんぶん手を振って、受ける気なんてさらさらないという態度をとった。
「だめだめだめ、母ちゃんがうるさいんですよ!この前家で友達が吐き散らかして一年間人呼ぶの禁止されてんだから!」
「いや、俺酒飲まないし…」
「坊ちゃんだってダメ!いいじゃないですか二人で泊まったらぁ!タシュさんにはちゃんと部屋をわけたって伝えますよ」
「……あー、アグリ、アグリ!お前ん家泊めてよ!」
食い下がっても埒があかないと思ったのか奥の方にいた別の若い男性に話しかける。書類仕事をするアグリと呼ばれたその人は明らかにめんどくさいなぁと言う顔を浮かべた。
そしてペンを額にぐりぐり押し付けながら、
「俺結婚したばっかなんだから勘弁してくださいよ」
と冷たく断られた。この人本当に御曹司なのかな。
「あの、ハルさん別に私気にしませんから」
二人で泊まるのに多少の抵抗はあるけどわがまま言ってる場合じゃない。私もハルさんを説得する側に回る事にする。
「ダメ、嫁入り前の女の子がそんな事しちゃ」
「でも……みんな困ってるし」
時計を見たら午後八時過ぎだったので、今から無理矢理泊めてもらうなんて事になったらきっと奥様に迷惑だ。せめて四時くらいならギリギリ大丈夫だったろうけど、きっとみんな既に寝る準備をしてしまってるはずだもの。
「寝る場所分けたら大丈夫ですよ、ね?」
ハルさんをアルルクさんとアグリさんの三人で説得し、渋々納得したハルさんと私は広めの部屋に案内された。後から知ったけど値段の高い良い部屋だったらしくて大きなベッドが二つ並んで置いてあって、呼び出し用の専用のベルまで備え付けられてる。
綺麗なお花が生けられてる上に良い香りのするお香が焚かれて、暇つぶし用の本やボードゲームまで置いてある。まるで何人も召使を抱え込むお金持ちの家みたい、と私は子供みたいに舞い上がって一人で室内を探索すると、何と寝巻きまで置いてあるし、頼めばあったかいお湯で入れた外国風のお風呂まで準備してくれるらしかった。お風呂は流石に今日はハルさんがいるから頼まないけど、そんなのお姫様みたいだと私は一人で浮かれまくった。
まだ駄々をこねているハルさんは事務室で寝ると布団を持ち出そうとしたから仕事の邪魔ですよと言って引き止める。そうしたら別の場所にあったつい立てを、ベッドとベッドの間に移動するために運び始めた。
つい立てを運ぶ様子を見ながらふと、ベルが「ハルは責任取りたくないだけ」と言ったのを思い出す。これがそれなんだなと思って椅子に座りながら見ていた。
無理を言って食事を用意してもらった。しかも美味しいお酒まで一緒についてきた。私はお酒が強い方だけど飲み過ぎに注意してちょびちょび飲んでいく。それでも少し強めのお酒だったのか体が適度にポカポカしてきて心地よく酔えた。ハルさんは一口飲んだら「うわ」と何とも嫌そうな顔をしてその後は飲まなかったから口に合わなかったのかもしれない。
熱々の串刺しのお肉から肉汁が垂れる。お腹が空いていた事もあって私は自分の分をあっという間に平らげたけど、ハルさんはまだ思い詰めた顔をしてサラダを無心で食べている。
「ハルさん、気にされすぎると逆に緊張するんですけど……」
できる事なら食事くらい楽しんでほしい。
「……だって」
何度もフォークでレタスを刺すから下品ですよと注意する。
「それより旅行みたいでワクワクしません? 私、旅行って生まれて初めてします」
どうにか機嫌が直らないものかと話しかけたけどなかなか表情は元に戻らない。
「ごめんね、俺が先に昼寝したから……」
「ん-でも六時間近く寝たのは私も一緒なんで」
今日はいくらなんでも寝過ぎた。だからもうおあいこって事にしてしまいたい。自分のせいだとすっかり消沈してしまってるので気が紛れるものが無いかと部屋の中を見回すと、花瓶の置いてある棚の一角に目が行った。
「ハルさん~、マンカラやりません?」
マンカラは昔ながらの石取りゲームだ。我が家にも手作りのマンカラがあって雨で外に出られない時はこれでよく遊ぶ。
宿の人にお茶のおかわりを頼んで机にマンカラを広げた。不貞腐れつつ座り直したハルさんは石を穴に四つずつ入れて準備し、ルールを確認すると勝負を始めた。
一時間経ち、二対三で私が勝った。二時間後、七対六で逆転された。機嫌が直ってすっかりしたり顔のハルさんに駄々をこねてさらに一時間粘る。白熱した試合のせいでお茶はとっくに底をついてしまったけどおかわりを頼んだ方が負けみたな空気が出来上がってしまっている。だからお茶のかわりにお酒で喉を潤しながら夜は続いた。
深夜十時を過ぎたのに、長すぎる昼寝のせいで眠気もどこかに行った。いい加減やめて寝ないといけないのに、眠気を理由に声をかける事ができない。お酒を飲んでるのは私だけだし、ハルさんは眠気が一切ないみたいだ。私はというと指の先までポカポカになってきたので、そろそろ飲むのは止めた方が良いかもしれない。
「ハルさんって勝ち負け拘らない方だと思ってましたよ」
「ブルーズは負けず嫌いだよね」
宿はすっかり静まりかえって、二人が石を触って落とす音だけが聞こえた。一つだけ灯したランプが手元を照らして、二人の勝敗を見守っている。
「眠くないの?」
「全然~」
「俺も」
お互い昼寝を六時間したし、まだ目がギラギラしているのがわかる。部屋は暗いけどハルさんの顔つきは真昼間の時と変わらない。
「でも明日早起きして帰らないと、お母さん達心配してるはずですよぉー」
「一日くらい大丈夫だよ、俺たちいい年した大人なんだから。ていうか、顔赤くない?」
「んん~? 大丈夫ですよ」
お母さんには怒られると思うけどなぁとぼんやり考える。
「俺、たまに何も言わずに友達んち泊まるし大丈夫だよ。ここまで来たらせっかくだし、有名なモスクにお参りしてから帰ろうよ。綺麗なところがあるんだ」
「まぁーそれ位はいいですよぉ~」
「母さん対策にお土産も買って帰ろう」
「…………うふふ」
「今鼻で笑った?」
やっぱりお母さんの事は意識してるんじゃないかと思うと笑わずにはいられなかった。私は笑ってないですよ、とくすくす笑うと「もー」と怒るハルさんを眺める。普段は余裕のある態度で年上感溢れるハルさんだけど、今日は勉強してないし、一日遊んで終わったからかどこか緩んでる気がして、「跡取りだからしっかりしないと」と言いながら気を張っているいつもより、少年っぽくて何だか可愛い。
「……でもハルさん、この回で最後にしましょーよ、いい加減寝ないと朝まで寝るタイミングないですよ」
「あー、そんな時間かー。そうだね」
「そーだ、負けた方が何でも言う事聞く事にしましょー? 一個だけ。変な事は無しですよ~」
私がそう言うと、ハルさんは無言で右肩をぐるぐると回転させた。
三十分後。
自分のベッドで不貞寝する彼の背中を見ながら私は笑顔で寝支度をした。ピアスや指輪を鏡台脇の小物入れに置き、鼻歌を奏でながら髪を解いて梳かしていく。
「お願いって何聞けばいいの?」
横向きで寝っ転がったハルさんが私の身支度に不機嫌そうな目を向けている、条件を言い出したのは私だけど「勝ったらお願いを聞いて貰える」というのは我が家でよくやるゲームの締める方法の引用をしただけだったから、内容まで考えていなかった。
「……んー、何も思いつかないからまた考えときます」
欲しいものもないし、やって欲しい事も別に思いつかないから貯金にする事にする。
「それよりハルさん髪の毛櫛通さないとぐちゃぐちゃになりますよ」
お願いを聞いてもらうより、目が冴えてギラギラしてるこの人に寝支度を整えてさっさと寝て欲しい。
「えー、大丈夫だよ。俺は天然サラサラヘアーなの」
「ダメですよぉ」
幼い妹みたいなワガママをいうから少し呆れた。櫛を渡すとめんどくさそうにしつつ梳し始めたので、薄い蜂蜜みたいな長い髪を適当にくしけずる彼の姿をじっと見つめる。
私の木炭みたいな髪とは違って、うらやましい位綺麗な色だ。私は多分彼の髪の毛を見るのが好きで、この一ヶ月半で隙があれば彼の頭をじっと見てしまう癖ができたみたいだ。
でもハルさんはその視線に気付くと、恥ずかしかったのか何か言いたげな目付きをしながらさっさと櫛を返した。櫛を受け取ったら私も自分のふかふかのベッドに座る。つい立ては邪魔だから少し端によけた。こんなの寝る直前に元の位置に戻せばいい。
「金髪いいなぁ、私も染めようかなぁ」
「えっだめだめ、もったいない」
暇潰しの軽口のつもりだったけどハルさんが思ったより驚いて強めに止めに入ってくる。
私だって本気で試そうとしたわけじゃないけど、明るい髪色に憧れがあるのは本当だった。私もこんなつまらない色じゃなくて、街のみんなみたいに個性的な頭になりたい。
「だってベルが、ワインと蜂蜜で金髪にできるって……あ、赤色もいいなぁ~リンゴみたいな」
「そんなん痛むよ。ダメダメ絶対ダメ。いいじゃん黒で」
何だか反抗期の娘を憂うお父さんみたいだ。
「そうかなぁ……」
「絶対そのままがいいよ、せっかくツヤツヤで綺麗な髪なのに」
自分の髪をつまみ上げていた所に褒め言葉が聞こえたから少し照れ臭くなる。彼は平然としてるので褒める事自体は何も意図してないんだろうけど、私としては恥ずかしくなるくらいまっすぐに誉めてくれるから、育ちの良さってふとした時に出るんだと思う。
「でも金髪は羨ましいです」
「俺は黒いのが羨ましいけど」
「えぇっ、何で? 意味わかんない」
思いもしない意見に思わず大声が出た。
「黒ってかっこよくない?」
「え~、金色の方がいいですよぉ」
「やだよバカっぽく見られるし」
「え~綺麗なのに!」
こんなに綺麗な髪色なのに、そんな印象を持つ人がいるだなんて信じられない。髪色ひとつでその人の個性が決められるなんてそれはちょっと馬鹿げた話だと感じた。
「まぁ俺はハンサムですから」
ちょっと捻くれた感じで自虐する風に笑いつつ理由を教えてくれた。
「だから尚更なのかな。ちょっと小綺麗にするだけでナルシスト野郎って思われるんだよね。告白してくれる子も顔しか見てない子がほとんどだし……。男からも、俺なんて外面だけだろとか言われるし。まぁ気にしてないけどねその辺りは。ただの妬みだし」
ハルさんは普段、あんまり弱音は吐かない。基本的には自信家で、ルスタムさんが目に入っていなかった様にそういうのは何も感じないタイプなのかと思っていた。でも泡が急にぶくっと湧き出るみたいに愚痴が零れたのなら、彼も色々悩みがあるんだろう。
「ハルさんは確かにかっこいいけど、ハルさんの良いところはそこじゃないのにねぇ」
お茶を飲もうとしたハルさんの手が止まる。ちょっと驚いたような顔をしてこっちを向いた。
「例えば?」
そんな顔になるほどかな? と思いつつ私は指を折りながら彼の長所を並べていく。
「ん~まずは努力家なところでしょ? 真面目でしょ~毎日勉強してるでしょ~。仕事も休まないでしょ~。何でも知ってるし、よく気付くし、人に優しいし、結構マメでしょ~。おおらかで~弓上手くて力持ちだし、あと健康」
「健康って」
最後の言葉に彼は思わず吹き出したけど、照れつつも嬉しそうにはにかんでる。
「普通に照れた」
勝負に負けた事も忘れてすっかりご機嫌になった様だ。ニコニコ顔の顔を見たら、謙遜せずに受け取ってもらえて私こそ良かったと思う。
「……そういえば、ハルさんが髪の毛くくってないの新鮮ですね。いつもハーフアップにしてるじゃないですかぁ。伸ばすんですか?」
「あー、これ? 切ってこれなの」
そう言ってハルさんは自分の肩にかかる髪をサっと触る。
「昔もっと長かったよ、母さんに伸ばされてて常に背中くらいはあったかな。でも成人した時に勝手に切ったんだよねーめちゃくちゃ怒られた」
この国は女の人はもちろん、男の人でも髪の毛は結う為に切らない人が多い。とはいえ若い人だと古い文化だと反発して短くする人もいて、ハルさんも多分それだ。私も短い髪って過ごしやすそうでちょっと憧れる。もっとも、私の父みたいに、禿げてきたから短く刈っちゃう人もいるんだろうけど。
「長い時も見てみたかったなぁ~」
「大して変わらんよ。最近はずっと肩までかな。まぁ、また伸ばすのもいいかもね」
髪の毛の長いハルさんを想像してみたら、似合うだろうなって思った。その髪に触れて、いじって遊んでみたい。
「……ちょっと髪の毛、触っていいですか」
だけど彼の髪の毛が伸び切る前に私達は離れ離れになるからそんな事出来るはずがない。だからだろうか、そんな願望を満たしたい欲が一瞬で増幅して、勝手に口から出てきた。
「別にいいよ、髪くらい」
ハルさんは椅子に向かおうとベッドから腰を浮かせようとした。けどそれより先に動いた私は櫛と手鏡を取ると向こうのベッドに乗り込んで、腰掛けるハルさんの後ろに素早く回り込んで彼に言う。
「そこでいいですよ、面倒だから」
ぎしっと音を立てて軋んだマットが二人の体重分沈んだ。
私はその音と、ハルさんが見せた戸惑いに一切目を向けず二人でベッドに座ったまま、金色の髪に櫛を通し始めた。
こうしてると妹の髪の毛を三つ編みにしてあげていた事を思い出す。
流石に大人のハルさんは五歳児と比べれば毛質はしっかりしてるけど、それでも柔らかくて真っ直ぐだから触ってると楽しくなってくる。いつもは適当に結んでる髪の毛を、横髪を三つ編みにしてハーフアップを再現したらいつもより可愛い雰囲気になった。手鏡で確認したハルさんはちょっと嫌がっていたから、それは解いておさげにしてみる。
「お願いは明日一日これで過ごす事にしようかなぁ」
自分のおさげ姿に爆笑したハルさんだったけど、お願いの内容については全力で拒絶された。
冗談ですよといいながら髪をほどいたら、編み込んでポニーテールや、
「おでこ出すのは悪くないかもね」
ハルさんは前髪を分けた髪型が気に入ったみたいで、鏡の中の自分を見て満足そうだ。
色々試してみたけど結局シンプルな髪型が一番似合っていた。私としてはぜひ三つ編みおさげを推奨したかったから残念だし、奇抜な髪型が似合えばそれで一日過ごして欲しかったのにとぶーたれる。
「明日の朝髪の毛やってあげます」
「ありがと」
満足いくまで髪の毛を触る事が出来た上にお礼まで言われてちょっと得意げになった。ハルさんの新しい髪型を開発するのはしばらく楽しみの一つになりそう。
――――と、この時間までは和気藹々として過ごしていた。今思えば、私は久々のお酒に自分が思う以上に酔っていた。頭の回らない私はヘラヘラと笑うだけで、これから起こる事なんて、何一つ予測しないまま、ベッドの中央に横すわりし続けていた。
「でもね? ブルーズさん」
ハルさんが急に振り返って渋面でこっちを睨むまで、本当に何も考えてなかった。
だけど、不機嫌そうな顔をしてるのは酔った頭でも見てわかる。ハルさんの後ろで座っていた私は、彼がどうして怒ってるのか分からなくてそのままの姿勢でキョトンと気抜けした顔をした。
「この状況、理解できてる?」
思い当たる節がなくてさらにキョトン顔を続ける事に残念そうにため息をつく。そしてハルさんは突然、そのままの姿勢で体を後ろに勢いよく倒し始めた。
「えっ? えっ?」
ハルさんが私のお腹にもたれかかる様に無理やり倒れたら、私の体は仰向けの姿勢で押し倒された。慌てて手で押し返そうとしたけど間に合わない、それどころか力で負けた私は完全にハルさんの背中に押し潰されて身動きが取れなくなる。
天井が見える。片方の足は自分のお尻の下に埋まって動かせない。私の体を布団扱いする様に仰向けで寝転がったハルさんの頭が、ちょうど心臓の真上にきていた。
草原の匂いの混じった髪の香りが鼻腔をくすぐる。白いつむじも間近だ。そんな至近距離から顎を上げて上目遣いのまま睨まれると、咎めるような視線が私の顔に鋭く飛んで刺さった。
「ブルーズにそんな気がないのは分かってる。分かった上で言うよ」
そして怒りの混じった冷静な口調で私を叱りつけ始めた。
「男と同じ寝床に入るな。女の子がこんな事ありえない、危機感をちゃんと持ちなさい。俺じゃなかったらこんな状況とっくに襲ってるよ。このまま俺がブルーズの体を押さえつけでもしたらブルーズは抵抗できる? できないよね?」
鋭く光る紫の瞳は私を睨んだまま、自由な方の足を掴んだ。突然の事態に驚いて足をふり解こうとしたけどすでに、ガッチリと掴まれていて動かせない。
「言っとくけど、今ほとんど力入れてないから」
お腹の上がさらに一段くらい重くなった気がした。
真夜中。年頃の男女が二人、密接状態でベッドの上。
私なんてお酒も飲んでほろ酔い状態で頭の周りが悪くなってる。そんな私でもハルさんの言葉を聞いて、それが何を意味するのかはすぐに分かった。今の状況から、同衾を連想しない大人なんているはずがない。
やばい、これはやばすぎる。やらかした。そんなの嫁入り前なのに許されないし人に言えっこない。なのに焦り出した頭の端っこで受付のおじさんが全力で「大丈夫大丈夫!」と髭を摘まみながら言っている。うるさい今はどっかに行ってくれ。
「で、でもハルさんはそんな事しないでしょ?」
恥ずかしさを誤魔化すために無理やり笑顔を作った。普段ならこんな大胆な事絶対にやらないのに、深夜とお酒の力で頭がおかしくなっていた。
大体、私達は毎晩同じ部屋で勉強しててそんな雰囲気になった事一度もなかった上に、一ヶ月半と言う月日は異性という境界線をあやふやにするには充分な期間だった。なので、何もなかったんだから、これからだって何もないに決まってると思い込んでいた。
けれどもハルさんは無表情のままだ。まだ私を逃がしてくれないし、力を込めても体をどかす事ができない。
もしこのまま彼がくるりと回転して、向かい合う姿勢になったら、私はどうなってしまうんだろう。
今、寝巻きの下には下着しか身につけていない
頭がお花畑な自分に嫌気がさした。これから起こりうる事態を想像して思わず生唾を飲む。
声が震える。力で勝てっこない人に体を押さえつけられる恐怖を久々に味わっていた。しかも、相手はハルさんで今の私にとって一番信頼を寄せている人だ。
「じょ、冗談ですよね……?」
涙交じりの声が漏れ、それを聞いた彼は顔を天井の方へ向けると小さくため息をついた。そして足を掴んでいた手を離してゆっくりと立ち上がる。自由になった私はホッとしながら急いで服の乱れを直した。ハルさんはそれを横目に見ながら、そのまま椅子にふらりと移動して座り足を組む。
「さぁどーでしょ? 俺も男だからね」
オオカミみたいな眼差しがこちらに向けられている。
軽くなったお腹が今度は寒くなった。私は体を隠すみたいに布団を体に巻きつけるとそのままダンゴムシみたいに身体を折りたたんでベッドの端まで逃げる。
今更警戒心を見せたって意味がないのに、ハルさんに初めて恐れを抱いた。
ハルさんは男だ、何かされても絶対抗えない。
何かされたとして、それから逃げる術を私は持ち合わせていない。
だけど誘った様な愚かな行動を起こしたのは自分だ。泣いたって意味ないのに自然と涙が出てきた。怖さと、情けなさと、恥ずかしさの混ざった感情が次から次へと粒になって流れ出ていく。
「……泣かないでよ。大丈夫、俺はそんな事しないよ、紳士だし、俺は我慢だけはできるの」
それを見てやれやれと余裕そうな顔をしたハルさんは、タオルを私の方へ投げるとそのままつい立てを元の位置に戻してくれた。つい立てのおかげでハルさんのベッドから私のベッドが見えなくなって、部屋に濃い影がかかる。
「怖かったでしょ? ごめんね。でも本当に危ない事だからこんな事、二度としたらダメだ。ブルーズは女の子なんだから同じ部屋で大丈夫なんて事も軽い気持ちで言ったらダメ」
声が優しい話し方に戻った。私の知ってるちょっと低くてゆったり喋る、いつものハルさんだ。
「……ごめんなさい」
怖かった、体も震えたし、もしあのまま事が続けばハルさんの事を嫌いになったはずだ。自分の危機管理能力の低さに愕然としたし、情けなくて涙がしばらく止まりそうにない。
けど私に教える為にあえてやったんだって事くらいは理解できる。その証拠に掴まれた足は痛くなかったし、押し倒されてる時は一度もこっち側を向かなかった。あのままの体勢で本当に襲うなんて事できるはずがない。
肩を落として涙ぐむ私を見てどう思ったのかわからない。だけどいつもなら私がこんな態度を取れば真っ先に謝るハルさんなのに、今日は毅然とした態度を崩さないままだ。でもぐずぐずと泣き続ける私にだんだん気まずさを覚えたのか、言葉を選びつつ叱りだした。
「そりゃ、今日同じ部屋で寝る事になったのは俺のせいだよ? でも、ベッドはダメだよ、ベッドは……。流石に、何も考えてなさすぎる」
正論に反論の余地なんてあるはずがなかった。何も言い返せないのと、いつものハルさんに戻った事に安心して涙の量が増えていくから、タオルで顔を隠す様に何度も拭った。
「酔ってたんでしょ、もういいよ。今日の事、将来の旦那には内緒だからね。…ていうか、そっちで寝るの?」
ハルさんがさっきまでマンカラの置いてあったテーブルに足を乗せて椅子にもたれかかった。普段は見ない行儀の悪いハルさんに驚きつつも、ベッドの上で枕を抱え放心していた私はその言葉を聞いてハッとする。急いでベッドを離れると、つい立ての向こうの自分のベッドに戻って布団をかぶり直した。
私がベッドに逃げたら、つい立ての向こうのランプの明かりが小さくなる。ハルさんは机のお酒を全部一気飲みしてから自分のベッドに入った様で、少し経ってから布団に潜る大きな衣擦れの音がした。
つい立てがあってよかった。だってこんなブスになった顔見せられない。器から水が溢れるみたいに恥ずかしさが限界を超えた私は、涙もそうだけど顔が真っ赤になってどんな表情をしているのか見当もつかなかった。とてもじゃないけど彼の顔をマトモに見られない。
「おやすみ」という挨拶に消えそうな声で返したら、その後は言葉を交わさずにお互いに休んだ。しばらくしたら規則正しい寝息が聞こえてくる。
あまりにも早い入眠に驚いた。一方私は「何であんなやりとりした後に寝れるの?」とか、「もし間違いがおこっていたら」とか、「私だって別に軽い気持ちで同室でいいって言ったわけじゃないのに」とか色んな気持ちが頭で堂々巡りしてしばらく眠れやしなかった。大きな心臓の音がいつまでたっても収まってくれない。
間違えてハルさんの枕を抱き抱えたままだけど返しに行けなかったから枕なしで眠る彼をつい立ての隙間から覗き込むと、「せめてハルさんが首痛めません様に」と心の中で祈った。