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第7話 卑怯な私

 晴れやかな空、澄んだ空気。

 街は目覚めた。周りの家から朝ごはんの匂いが漂い始めている。鳥も歌うみたいにさえずって、ティカちゃん達も朝から元気にひひんと鳴いている。

 美しい自然に影響されて、私の生命力まであふれ出てきそうな一日の始まり。せっかくだから歌いながら家事でもしようかしら♪とおバカなことを考えるほど素敵な朝だった。

 なのに、ハルさんのお母さんは朝からいつもより青白い顔をして台所に立っている。



 大丈夫と言い張るお母さんを、ハルさんとお父さんが無理やりベッドに寝かせた。寝かせた後は強がる体力も無くなったのか、血の気のない顔で氷嚢を頭に乗せて湯たんぽをお腹に抱えながら苦しそうに唸っている。


「……大丈夫よ。ごめんなさいね、一日寝てたら良くなると思うから」


 真っ青で元気のない目は、どう見ても大丈夫じゃない。


「大丈夫ですか……?」

「大丈夫よ、心配しないで」

「欲しいものとかあれば遠慮せずに言ってくださいね、準備しますから、無理しないでくださいね」

「とりあえず少し横になるわ。もう、そんな心配そうな顔しないで? 元々アレが重いだけなのよ。……最近来てなかったから油断してたわ」


 気丈に振る舞おうとはしていたけど、急な差し込みが来たのか瞬時に背中を丸め眉間にしわを寄せた。私はオロオロと慌てるばかりだった。

 私のお母さんも、末の妹を産んでからは産後の肥立ちが悪くて一年くらい体調を崩した時期があった。あの時は小さかった弟も母恋しさに一日中泣くし、乳児の妹の世話で休む暇もなく、私も私で疲れてしまって、母の最悪の結末を予想して泣いた事は何度もあった。

 母は今は元気に暮らしているけどあの頃は気が気じゃなかった。だから、いつもパワフルなハルさんのお母さんが弱っていると昔の事を思い出してつい不安になってしまう。


「……じゃあ、何かあったら呼んでくださいね。すぐ来ますから」


 とはいえ、私は実の娘じゃない。ずっと傍に人がいたら落ち着かないだろうと思い、ベッドの脇に呼び出し用のベルを置いて部屋を出ると、大きな音を立てないように気をつけながら、寝室から近い台所の掃除を始めた。

 お手伝いさんと協力しながら廊下や居間も掃除して、たまに寝室を覗いて、お母さんがすうすう寝息を立てているのを確認したらまた掃除に戻るのを数回繰り返した。縁側の掃除をしている時にチリンチリンと高いベルの音が聞こえたので、かけ足で寝室まで戻る。扉を開けると寝ていたはずのお母さんが体を起こして、少しだけくすくすと笑ってこっちを向いていた。


「どうしましたか?」

「……なんだかワンちゃんみたいって思ったの」

「え?」

「ベル鳴らしたら来るなんて、昔飼ってた犬思い出しちゃったわ」


 お母さんには見えない耳と尻尾が見えたらしい、恥ずかしくて両手で両耳を押さえつける。


「ごめんなさいね、バカにしてるわけじゃないのよ、何だか可愛かっただけ。寝たらだいぶ良くなったの。ごめんなさいね、心配させてしまって。よかったら話し相手になってくれないかしら? 目が覚めちゃって」


 お母さんが紫色の瞳で私の事をじっと見てくると、ハルさんを思い出して少しどきりとしてしまう。この母子は顔が似ていて、だから私はなんとなく断る気になれない。二人分のお茶を淹れてきた私は部屋の椅子を拝借して、お母さんとお茶会をする事にした。


 ハルさんのお母さんは、私の母よりうんと年上だ。目尻には深い皺があって貫禄があるし、髪には白髪が混ざっている。だけど、若い頃は凄く美人だったとわかる顔立ちをしているし、お世辞抜きに今もとても美しい人だと思う。女性にしては少し低めの声とゆったりとした話し方には知性と教養を感じる。ふとした瞬間の表情もハルさんそっくりで、その度にこの人達は親子なんだなぁと感じる。


「ハルとベルちゃんは大きくなったらどんどん交流が減っていってね。だから前から心配してたのよ、ちゃんと夫婦になれるのかしらって。そうしたら、ね、案の定破談でしょう? 流石に落ち込んだわぁ。私、ベルちゃんは実の娘みたいに思ってたのよ」


 破談させた原因となっている私は、これにどう反応したらいいのか分からず固まっていた。


「……あぁいいのよ。ごめんなさいね、気にしないで。今思えばあなたも大変だったわよね。知らない家に嫁ぐことになって。それに、今は結果的に良かったのかもって思ってるのよ。ハルってばまだ十八歳なのに家と仕事の往復ばかりでね、親から見ても淡白な生活してたのに、あなたが来てからいつも楽しそうだから」


 楽しそう、というのは意外だった。私に対して初日からおちょくるみたいな態度だから、てっきり私はあれが通常運転なのだと思っていた。

 へぇ、あの人、楽しそうなんだ。

 顔がニヤついてるわよ、とお母さんに突っ込まれたので、私はだらしない顔を拭くみたいにごしごしして誤魔化す。


「……、私、あなたはすぐ音を上げてどこか行くかと思っていたわ。気付いてただろうけど、私あなたに意地の悪い事たくさんしてたのよ。初対面の男と一緒に住むなんて言い出す非常識な子、意地悪なおばさんとの生活なんか耐えられないだろうと思ってたの」


 思い当たる点が多すぎて苦笑いしながらごまかした。私を見張るような目は常に感じていたし、怪我が治っていなくても家事の手伝いを要求されて、勉強の強要だってあった。現実の見えていない甘えただったなら確かに嫌な話かもしれない。でも理不尽な仕打ちは一つもなかったし、全てはハルさんに対する愛があるから故の行動だと理解できていたから、私もそれを受け止めて「ハルさんの事が大好きな女の子」という設定を何とか貫く事ができていた。


「あなたがまともな子でよかったわ。ごめんなさいね、試すような真似して」


 安心したように「まとも」と言われると後ろめたさを感じる。本当に私がハルさんと両想いなら、きっと汚名返上ができたと喜ぶ所だったはずなのに、人を騙している罪悪感のある私はつい自白して楽になりたいと思ってしまった。

 でもそんなわけにはいかないから、うれしそうな声を無理やりひねり出して話を続ける。


「私、皆さんに感謝してます。何処の馬の骨かもわからない私を受け入れてくださって、怪我も、勉強も見てくださって、本当に皆さんに会えてよかったって思ってます。……それに森の中で会えたのがハルさんでよかったです。だってお父様がおっしゃってたじゃないですか。私みたいな黒髪と黒目は珍しいから、人売りのための誘拐だったのかもって。また悪い人に会ってたらこんな風に暮らせてなかっただろうなって、たまに考えちゃうんです」


 まさかそのあと嘘の恋人になるとは思っていなかったけど、私は自分の幸運すぎる待遇には本当に感謝していた。

 もしあのまま人さらいに売られていたなら、知らないおじさんの慰み者にされたか、よしんば野良犬に食われて死んでいたはずだった。そんな運命だったはずの私が、今では毎日平和な日々を繰り返して、毎日綺麗な服を着て、暖かいご飯を食べて布団で眠る事ができている。それだけでも充分すぎる生活なのに、この前買ってもらった服とアクセサリーのおかげで、本来の身分よりずっと立派な身分の女の子になれたような気がしていた。高級なものが欲しいわけじゃないけど、一人の人間として大切にされてる気がした。


「神様はいい子に悪い事なんてしないわよ」


 お母さんは優しく笑って私に微笑みかけてくれる。お腹を撫でながら、やっぱりちょっとしんどいわと愚痴った後話した。


「ハルもね、昔は女の子みたいだったから人さらいが怖かったわ。今はでっかくなって可愛げなんて無くなっちゃったけど。段々旦那に似てきちゃったしね」

「そうなんですか? ずっとお母様に似てると思ってました」


 何度も言うけど私はハルさんはお母さんに似ていると思う。母親から見たらそういうものなんだろうか。


「昔は私に似てたけど今はすっかり旦那よ。あの人今はあんなだけど昔はもっと痩せてたし、髪もあったし、結構かっこよかったのよ。……あの子も十年後にはおじさんになっちゃうのかしらね。あぁやだやだ」


 ハルさんのお父さんはぽやっとした雰囲気の優しい男性だ。ちなみにここの家庭は姉さん女房なのでお父さんが年下だ。お父さんの体形は確かにちょっと膨よかかもしれない。帽子の下はちょっと寂しげ、かもしれない。でも顔だけに注目したら優しい顔つきの男前だと思う。

 きっとハルさんは鷹と鷹から生まれた男の子だ。ハルさんももっと大人になったら、太ったり禿げちゃったり、髭がぼうぼうになったりするのかなと想像してみた。お父さんの顔とハルさんの顔を重ね合わせてみると、何となく自然と年取ったハルさんの顔を想像する事ができて、ちょっと面白い顔が私の脳内で生まれる。でも別に嫌じゃないなとも思った。


「ハルさんはおじさんになってもかっこいいと思いますよ」

「あら言うじゃない」


 お母さんは笑みを浮かべた。


「私ね、最初あなたの事ずっと疑ってたのよ。本当はハルが雇った役者さんとかなんじゃないかって」


 突然当たらずといえども遠からずな事を言い出され、私は内心ぎくりとした。


「だってね、最初はお互いに遠慮してるというか、距離があったのよ。……そう、一目惚れで結婚するとか言い出した割に距離がありすぎたわ。だって、全然仲良くなさそうなんだもの。普通もっとあるでしょ、見てられない位、痛々しくて、猛烈な恋人同士の雰囲気が。だから、ハルがまだ結婚したくないからって口裏合わせて連れてきた女の子なんじゃないかって思ってたのよ。目的を果たしたら適当な理由をつけてあなたは消えるとばかり考えてたわ」


 じゃわ、ほぼ正解。

 冷や汗が出てきたので、今日も暑いですねと愛想笑いで誤魔化した。


「でもあなた達、そのまま仲良くしてるじゃない? だから安心したのよ。ハルから感じるのよ、幸せオーラってやつ? ベルちゃんの事で怒ってたけど、結局、親なんて子供が幸せそうならそれで良いのよね。ハルが幸せなら私も幸せだもの」


 お母さんは少女みたいな表情と期待した顔で私の顔を見てにやぁっと目を細めて言う。


「この前も結構いい値段のアクセサリー買ってあげたみたいじゃない? あの子。そんな事人にしてるの見た事ないわよ〜」


 私は恥ずかしくて、ちょっとほっぺが赤くなってくる。愛想笑いをして勘弁してほしいと遠回しにアピールをすると、お母さんはふふっともう一度笑った。


「そういえば、ブルーズさんはどっちに似ているの?」


 さっきハルさんの顔の話になったからか、話の主役が私に移った。頭に母の顔を思い浮かべると、少し考えてから私は思い出を語るような口調を心掛ける。



「……死んだ、母に似てると言われます」


 私の母は本当は生きているので申し訳ないと思いつつ、そういう事になっているので頭に不穏な言葉を付ける。


「そう、じゃあ綺麗な人だったんでしょうね」


 お会いできなくて残念だわとハルさんのお母さんは悲しそうに呟いたので、罪悪感が胸をちくちくと刺してくる。


「どんな方だったの?」

「……優しかったです。料理は正直、あんまり上手じゃなかったんですけど。でも、歌とか踊りが得意で、私が踊ったら喜んでくれました。ギターとかも教えてくれましたし」


 間違っても生きている事がばれないように、言葉を選びながら母の事を語った。


 私の母は十五歳で父に嫁いだ。小柄だけど美人で、熊みたいな見た目の父と不釣り合いだとよく言われていたらしい。私は昔から「お母さんそっくりね、お母さんに似て良かったわね。本当に」と色んな人に言われて育った。

 でもお母さんは私の瞼を撫でながら「おめめがお父さんそっくりね」と嬉しそうに笑っていたのを覚えている。元々お嬢様育ちだからか、少し天然な所があって、そそっかしくて、嘘が見抜けなくて、貧乏は嫌だと愚痴る事もあるけど、父とは本当に仲が良くて、そんな両親が私は自慢だった。


 私よりも背の低い母は、今、何をしているんだろう。

 突然消えた私を、体調を崩すほど心配していないか、心配になってくる。


 山奥に住んでいると、人がいなくなるという事件はたまに起こる。

 村人総出で探すけど、それでも見つからなかった時は、残酷かもしれないけど諦めるしかない。

 人探しにはお金も労力もかかる。役人に頼み込んだって、私達みたいな貧乏人は相手にしてもらえない。だから一か月以上帰らない私の事は、家族はとっくに諦めているはずだ。


 私はこの事について、ずっと目を逸らして考えないようにしていた。

 だってハルさんと約束してここに残っているのに、家族の顔を思い出してしまったら帰りたい気持ちがどんどん強くなって、自分で自分の感情をコントロールできなくなってしまう。

 それでも母はずっと悲しんでるんじゃないかと思うと、私の為にずっと泣いているんじゃないかと一瞬でも頭をよぎってしまうと、愛する家族の姿が雪崩みたいにどっと頭に流れ込んでくる。

 寂しさを我慢できずに泣き出した私をハルさんのお母さんは何も言わずに抱きしめてくれた。私は本当のお母さんの胸で甘える子供みたいにえっえっと嗚咽しながら泣き続け、ハルさんのお母さんは私が落ち着くまで背中をさすってくれる。


「大丈夫よ、あなたはもううちの家族なんだから」


 そう囁いて慰めてくれる優しいこの人に、私は本当のことが言えなくて嫌だった。

 思考がぐちゃぐちゃになって黙ったままの卑怯な私はずっと、胸の真ん中が痛くて、涙がずっと止まらなかった。

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