しばらくの間、朝は食事の準備をして、ティカちゃん達のお世話をして、午前中の勉強を追えれば比較的自由に過ごせるようになった。
とはいえ居候の身なので、家事は積極的に手伝うようにしている。とはいえこの家にはお手伝いさんもいるし、基本的にはお母さんが一人でこなしている家事を二人でやるもんだから、やらないといけない仕事自体は少ない。それに、私はじっとしている事が嫌いだ。家事をするのは得意だし、こき使われているという感覚にはならなかった。
昼食後はお母さんに教わりながら一時間くらい勉強して、二人とも飽きたら手仕事したり花を活け直したりする。三時からは夕食作りを手伝う。隙間時間があれば散歩もできた。
それで夕食を食べたらハルさんにまた勉強を見てもらって、終わったらお茶して、日記を書いたらハルさんは自室に戻って、私は自分の部屋で眠りにつく。実家にいた頃とは全く違う毎日を送っている私は、なんだかんだでこの生活を楽しんでいた。
勉強については分かる事は増えた。けど、まだまだ学ぶ事はあって退屈を感じる暇はなかったし、知識が増えると街の看板が分かったり、本のタイトルを読む事ができるので、学ぶ事は楽しいとさえ思えてくる。一日の終わりに日記を書くのもすっかり習慣になった。
二日目の日記に「お母さんと一緒に読みました」と書いたら「恥ずかしいから母には見せないで」と返ってきたのをお母さんと一緒に笑いながら読んだので、それ以来は分からなくても一人で読む様にしている。
国語も算数も筋がいいと褒められて嬉しい。最近はハルさんに聞かなくても文章が自由に書けるようになっていたし、綴りの間違いも減ってきて、自分でも成長を感じられて楽しい。ハルさんからの返事には、「今日宿に変なお客さんが来て大変だった」とか、「お昼にうどんを食べた」とか、他愛のない事ばかり書いてある。だけど、それを読むのが最近の一番の楽しみになっていた。
「楽しそうね」
日記の返事を見ていた私にお母さんが声をかけた。私は日記帳を机に置いて、そっと本を閉じる。
「意外と面白い事が書いてあって面白いです。ハルさんって冗談をいうタイプなんですね。それに、文字って読めたらその場にいなくても会話ができるんですね。凄いです」
ハルさんとは夜一緒に勉強しながら雑談もするけど、基本的には私は勉強しているし、ハルさんはハルさんで難しそうな本を読んだり、持って帰った仕事をこなしている。だから私達は友達とする和気藹々とした会話はあまりしていない。なので日記を通しての交流は貴重だ。
「……。十六歳と思えない発言ね。本当は百歳のおばあちゃんとかじゃないわよね?」
またお母さんが可哀想な人を見る目で私を見てくる。
最近知った話だけど、ハルさんのお母さんは元々私塾で先生をしていたそうだ。教え子にはスパルタ教育を施すタイプだったそうで(スパルタ教育の意味はハルさんに教えてもらった)、昔取った杵柄ということで尚更私への教育に熱が入るのだとハルさんが言っていた。
「勉強ってできるようになったら面白いですね。この前パン屋さんのお店の名前が読めて嬉しかったです。まぁ、まだまだ分からない事も多いですけど……」
「昨日よりできる事が増えたならそれでいいのよ。それよりね、バタバタしててすっかり忘れてたんだけど……」
できるようになった事なら、日々増えている自信がある。素直に「あぁよかった」と喜んでいたらお母さんが思い出した様に話を始めた。
*
「私はいいって言ったんですけど」
次の日、ハルさんと私はまた市場にやってきていた。相変わらず人が多いし、みんな話し声が大きい。私達も負けないように大きな声で話しながら市場の通路を歩いていた。
「母さんが言ってきたなら気にしないでいいよ。実は俺もちょっとどうにかしなきゃって思ってたんだよね」
この前買い物した路地ではなく、他の路地に入った。この筋の露天の店先には、色とりどりのワンピースやチュニックが飾る様にして置いてある。
びっしりスザニ(刺繍)の入った上着や、アトラス(織物)のワンピースが色彩豊かに道を飾り、女性の多い路地からは華やかな活気が溢れている。今日は、私の私服を買いに来たのだ。
この街にきてから私はずっとハルさんの妹の服を借りていた。元々着ていた服と靴は例の件でボロボロなったので、とてもじゃないけど着られなくなった為、自分で雑巾に直した。
服なんて適当に作ればいいのになぁと思いつつ、この街の「普通」が分からないし、流行もあるから、今日は甘えさせてもらう事にする。
それに「服なんて…」と遠慮しようとしたら、
「そうよね、既製品なんていやよね。じゃあやっぱり仕立て
と、お母さんが真剣な顔で悩み出したので、それなら安い服を買ってもらう方が気が楽だった。
店先においてある服は古着でも充分綺麗で可愛いくてなかなか選べない。
国産品だけではなく外国の服も置いてあるみたいで、見た事のないデザインの物を扱ってるお店もあった。胸元がガッツリ開いてるドレスとか、いつ着るんだろう。レースがふんだんに使われていたりビーズで綺麗に飾られてはいるけど、あんなの恥ずかしくて着れない。
悩んでる私にしびれを切らしたのか、ハルさんがお店のお姉さんに、「新品でおすすめを全部見せて」と、声をかけて助け舟を出した。
ところが何着か私の体に合わせていると、暇そうにしていた隣のお店の人が「こっちの方がいい」と参戦し始めて、ついに似合う服はどっちの店にあるのかという水面下の戦いが始まってしまった。早く決めないといけないという焦りはあったけど、こんなにたくさんの中から服を選ぶ機会なんて人生で一度もなかった私は優柔不断を発揮し、結局両方の店員さんが選んでくれたものを何着かと靴も買ってもらう事になった。
「どっと疲れました」
「着せ替え人形みたいだったね」
ハルさんは疲れた私の顔を見て、私より楽しそうに笑っている。
せっかくなので私は買ったばかりの服に着替えた。膝丈で、首周りが開いた涼しげな薄オレンジのチュニックを着ると、私は一気に夏らしい装いになる。夏のお嬢さんって感じだ。
軽い生地の質感に少し浮かれた私は、周りに人がいるにもか関わらず、くるっと回って裾の広がり方を確認する。
「やっぱり女の子はおしゃれしなきゃね」
気分がよくなったのを見透かされたのか、その様子がおかしかったのか、ハルさんに笑われてしまった。ちょっと恥ずかしい。
「でも、緊張しちゃう。こんな良い服、着た事ないから」
裾を指で擦らなくても肌触りでわかる。明らかに私が実家で着ている服とは違う質だ。
「緊張? 服着るだけなのに? 変なの」
本当に、何を言ってるのか分からないという顔で微笑みながら首を傾げた。このお坊ちゃんには貧乏人の気持ちなんて理解できないのかもしれない。とはいえ、新品の服にそでを通したのは私だけだと思うと、独占欲が満たされたのか、征服感かは分からないけど気分がいい。今後の人生でもなかなかない事だろうし、今だけの贅沢を味わおうと思う。
しかし買い物心に火が付いたのか、ハルさんが荷物を持ったままスタコラと先に行くので慌てて後を追いかけると、アクセサリーばかり置いてある店の前で止まった。
「家にある若い子向けのアクセサリーはサラが全部持っていったから、一通り買おう」
ハルさんはそう言いながらお店に入って、店頭のアクセサリを片っ端から見始めた。端から端まで金銀と宝石のはめられたアクセサリーがびっしりと並んで店中が光輝いて見える。その輝きに私は目が眩むようだったけどハルさんは何も気にせずに「これはフェイクだからダメこっちは良いやつ」と、ちゃっちゃと候補を選び始めていた。
慌ててハルさんを引き留めた。フェイクだからと言って避けたやつも十分に高そうで冷や汗が出てきた。
「いっ、いいです!さすがに、高級なのは気が引けます」
このアクセサリーがいくらなのか分からないけど、繊細な装飾のついたアクセサリーが安いわけがない、と思う。
「こういう所にあるのは安いんだって。心配なんてしなくって大丈夫だから」
宝石レベルの笑顔が私の心配を一蹴すると、私の青ざめた顔なんてお構いなしに店の人と候補を選び続けた。
私は二週間少々、ここで暮らしてきて分かった事がある。私の金銭感覚と、ハルさん達の金銭感覚には雲泥の差があるという事だ。
お母さんはお使いで必要なお金とは別に、お小遣いを持たせてくれる。お父さんも私の部屋が殺風景だからと、見た事のない立派なお花とか、可愛い家具を置いてくれた。
他にも何の記念日でもないのに「今日は奮発しちゃったわ」と言いながら上等なお肉やお酒が食卓に並ぶ事は、この家庭では決して珍しい事ではない。
だから、多分だけど、その二人の息子であるハルさんが買ってくれるであろうこのアクセサリーも、私からすれば安くない気がする。
というか絶対。安くない。値札が付いてない店がお買い得価格なわけがない。
いらない、大丈夫と断り続けていたけど、店員さんは私を無視しておすすめを並べるし、ハルさんもハルさんで乗り気だから強く断る事ができず、結局何かは買う流れになってしまった。
「うんうん、どれも似合う。かわいいね」
試着する度にハルさんは褒めてくれるので普通に照れる。なるべく安い奴を選びたいけど、二人が選ぶものはどれもこれも高そうで、どれを選んでも不正解な気がして怖気ついている。
上等なアクセサリーは私みたいな身分の人間は見てるだけで十分な代物のはずなのに、次から次へと高価なものを試着させられてると段々と自覚が芽生えていく。自分で言うのも悲しいけど、どう見ても田舎娘とは不釣り合いだった。
「やっぱり女の子は飾り立てなきゃ。遠慮するのなんてやめなさい。こっちも楽しいからさ」
乗り気じゃない私に顔色変えずにしれっと言うから、よくそんな事を言えるなと思いつつ他のネックレスを試着した。すると、鏡に写った私はネックレスのおかげでか、顔まわりが華やかに見えて、自分でも驚いて一瞬見惚れてしまった。
「……お姫様みたい」
「よくお似合いですよ。今までのも似合ってたけどね」
そう言ってお店の人もよいしょしてくれる。確かにこれなら、私が付けてても大丈夫かもしれない。そんな気にさせてくれた。
「今までのは、あんまり、自分には合わなかった気がして」
「全部似合ってたよ?」
「私には勿体ない気がして。だって全部高高そうだから」
試着させてもらった物は全部素敵だったけど、どれもこれも私には勿体ないような気がした。毎日薪割りをするような家で生まれ育った私が素敵なものを付けたって笑われるだけな気がする。
「そんな事ないでしょ、どれも似合ってたよ」
自信のない私の気持ちを察したのかハルさんが慰めるように言った。
「でも」
「自信持ってよ、ね?」
そんな事言われても、というのが正直な気持ちだった。でもそこまで褒めてもらえるなら、案外私だって捨てたもんじゃないのかもしれない。
「まぁまぁ、お嬢さんが好きになれるやつ選んだらいいじゃない。それ付けた時、表情がパッと明るくなりましたよ」
露店のおじさんがほっほっほと笑っている。
「じゃあこれにしようかな……」
おじさんも後押ししてくれるなら自信をもっていいかもしれない。これを選んだらいいかしらと思って、また鏡の中に見惚れていた。
「まぁそれ、お嬢さんが今見たやつの中では一番高いけどね!」
鏡に顔をぶつけた。
その後、青い石が嵌められて、輪っかの部分には蝶の模様が彫ってある指輪を選んだ。とても可愛い指輪だから勉強に疲れた時に指元を見ると元気が出そう。指輪とお揃いのピアスも、私が動くたびに装飾がゆらゆら揺れるので、頭を揺らすのが楽しくなった。
「そうそうおすすめがあるの。これは一点物ですよ」
おじさんが鍵のついた鞄から取り出したのは、白く輝く、大粒の真珠のピアスだった。
少し大振りだけど上品なデザインに、私は一気に目を奪われる。大きな真珠を縁取るように小さな石がついていてとても大人っぽい。それでいて可愛らしくもある。月みたいな真珠の輝きから私は目が離せない。頭の中で「これよ! これよブルーズ! これがいいわよぉ!」と、心の中でもう一人の私が興奮していた。
身に着けた自分の姿を想像してみる。さっき買ってもらった服を着て、髪を大人っぽく結って、しゃきんと背筋を伸ばして、仕上げに真珠のピアスをつければ、田舎者で、貧乏な家で育った上に無教養の私でも、少しはお嬢様っぽく見えるかもしれない。
そうしたらさっきみたいな劣等感も少しは薄れるんだろうか。
……でも、これは値が張りそう。これが本物の真珠なのか、精密に作られた偽物なのか見分けは付かないけど、鍵のついた鞄から取り出された上に一点物なら絶対安くはなさそう。
ハルさんは「いいじゃんこれ」とうきうきした声で話していたけど、値段の事を考えると気後れしてしまう。気に入ったとはいえ、これがいいなんて、とてもじゃないけど言えない。
――何でも買ってあげる。
なんて言われても、大体、私は偽物の恋人なんだから受け取るわけにはいかない。
結局、蝶々のピアスの方を選んで、私達は帰路についた。
*
私は鼻歌を奏でながら、さっきの蝶々のピアスのついた耳たぶを撫でていた。
本当に欲しかった方は諦めたとはいえ、買ってもらった物も凄く素敵だったから気に入っていた。ネックレスに指輪にピアスだなんてお金持ちのお嬢様みたいで、凄く贅沢をした気分だ。嬉しくて本当は今にも踊ってしまいたいくらいだ。
まだ赤ちゃんだった頃の妹に耳を引きちぎられそうになった経験からピアスを着けるのをやめて以来、アクセサリーなんて身に付けてこなかったから、おしゃれができるなんてとっても気分がいい。
それにこんなにたくさん、自分の為の買い物ができて嬉しかった。生まれて初めてこんなに自分の為に買い物ができた。ハルさんには「買い方わかる?」と田舎者いじりされたけど、地元にいたままだとこんな遊び気分で贅沢な経験なんてきっと一生できなかっただろうし、家に帰る前に良い思い出ができたなと、ぼんやり考えたりもした。
「ハルさんって何も買わなくてよかったんですか?」
指輪がついているだけで指がいつもより長く見える気がする。帰ったら爪を磨こう。そんな事を考えたまま、私は自分の指を見ながらハルさんに尋ねた。
「ん? 買ったよ?」
荷物を持ってくれているハルさんは機嫌が良さそうに返事をした。
「えっ、いつ? 何を買ったんですか?」
当然何も知らない私は質問する。大体、ずっと一緒にいたはずなのにハルさんが自分の物を買う姿なんて見ていない。大体男性物の置いてる店なんて今日は一度も見ていない。
「ん~……?」
もったいぶった態度で口角を上げるから、私は意地悪だなと思って口を尖らせた。
「うそうそ、手出して」
ハルさんは荷物から小さな箱を取り出すと、そのまま私の手のひらに載せる。
「開けていいんですか?」
「どうぞ?」
私達は少し立ち止まって二人で箱をじっと見ていた。ハルさんのにやにやが止まらない事に不信感を覚えた私はハッとする。
「ちょっと、変なのじゃないですよね」
「そんなわけないでしょ」
あまりにもハルさんが意味ありげにニヤついてるものだから、びっくり箱じゃないかと思って疑ったけれど、そうではないらしい。じゃ、何だろうと思いながらベロア生地の箱を開けた。蓋と土台が擦れる固い感覚が手のひらに伝わってくる。
蓋を開け切って驚いた私は思わずハルさんの顔を見上げた。彼は「してやったり」と言いたげにまたニヤリと口角を挙げて、明るい声で言う。
「似合ってるのに買い逃す方が勿体無かったから。だからあげる、プレゼント」
私は驚きすぎて、息も、即座にこんなの貰えないと断る事さえできなかった。だって、さっき諦めたはずの白い真珠のピアスが、太陽の光を受けて箱の中で輝いていたからだ。
ハルさんは枝みたいな指でそれを摘むとピアスを私の耳たぶに当てる。指が少しだけ耳に触れて、耳の軟骨が指に添うように反る。
「ほら、こっちもやっぱり似合ってる。ね?」
ハルさんは宝石みたいな目を細くして、まるで自分の事みたいに嬉しそうな顔で笑っていた。
「あ、あ……、あ、え、え?」
「ん?」
「あああ、ええ、あ、ええ、と、ええ」
「壊れた?」
多分、私の顔は首までトマトみたいに真っ赤になっていたと思う。色んな感情がぐちゃぐちゃになって、何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか何も分からなかったけど、喉を絞りだすみたいに「ありがとう」と伝えた。
「女の子にプレゼントするのって緊張するね。でも受け取ってもらえてよかった」
またキラキラした瞳でハルさんは微笑んで、私の耳たぶの端っこを軽くはじく。
「せっかくだし付け替える?」
提案はとてもすてきだと思ったけど、
「帰ってからにする」
恥ずかしさで彼の顔が見れない私は愛想のない返事をして、少しだけ歩く速度を上げた。