正当な段階を踏み、許嫁の話は破棄されたので、表向きは私が正式に
すべき事は果たしたのでこれでいつでも帰っても問題はない。とはいえ「今すぐ消えるとあからさま過ぎてばれる」という事で、周りの様子を見ながら、もうしばらく居候する事になった。本当はさっさと帰りたいけどまだ足が痛むし、道もわからないし、お金もない私は、ここから放り出されたら生きていけない。しょうがないので、開き直ってこの異常事態を楽しむ事にした。
まだ若干のぎこちなさを見せつつ、ハルさんのご両親は私に様々な事を教えてくれた。いずれはこの街を離れてしまうのだから無駄になってしまうと気が引けたけど、嫁になりたい女がご両親からの好意を断るなんておかしな話だし、せっかくなので流れに身を任せる事にする。
まず周囲の地理を覚えなさいと言われ、夕食後に地図を見ていた。ハルさんの住んでいる街は大きくて、紙にはたくさんの四角形と文字が書き連ねられている。
ハルさん家は街の中でも特に栄えている位置に建っていて、さらに家の面積が他の家に比べてすごく広いというのがわかった。流石はお金持ちだと思いつつ、このあたりがマーケットで、ここが集会所だよと説明を受けた後に、周辺の地理の話になった。
地図の絵を見る限り、街の外れになればなるほど家屋が減って、そのうち平原が広がっていく地形となっているみたいだ。
山の形はボコッとした形で描かれてるので、山だなぁと伝わってくる。
青色で広く塗られている所は、湖とか池なのも分かる。
根っこみたいに白く伸びるのは多分キャラバンとかが使う道だろう。
ただ、たまに書いてある文字が読めない。なんとなく建物の名前だろうくらいは分かるけど全く読めない。
「あのぉ、これって何て読むんですか?」
だから私は深く考えずに、お母さんに読み方を聞いてみた。
「……有名なお寺の名前よ? 知らない?」
お母さんは私の質問に不思議そうに答える。私としては何気ない一言だったから「ちょっと大袈裟な反応だなぁ」と思いながら、「じゃあ、これは?」と、地図に一番大きく書いてある文字を指した。
一瞬時間が止まったような気がしたのは気のせいだろうか。
お母さんたちの顔は明らかに硬直していて、落ち着かない様子を見せ始めている。
「……ジラヌンよ? 私達の国の名前よ…?」
「あ、これでそう読むんですね! そう言われたら、見た事がある気ィします!」
私は一つ疑問が解決した事に対して素直に明るく返した。
結果的に、これが決定打になったんだと思う。
「…………ちょっと待っててね?」
お母さんはそばにあった本をとって、ちょっと読んでみて、と優しく言う。でも、私は当然「無理です」と答えると、次にお父さんが絵のたくさん入った本を持ってきて、じゃあこれは? と次から次へと聞いてきた。
だけど、そんなの分かるはずが無い。
「あのぉ、私、文字習っとらんけぇ、そんなん読めん、読めないです」
私以外の全員が、お化けでも見るような目で私を見てくる。
だって私は女だから文字なんて覚える必要がない、これは昔から言われてきた言葉だ。だから私は自分の名前と家族の名前しか読み書きする事が出来ないし、別にそれで不便もしていない。
なのにどうしてみんな、私を不思議そうな目で見てくるんだろう? 確かにお兄ちゃん達は子どもの頃は学校に行って色々習ってた。でも全員勉強を嫌がってたし、めんどくさがってた。父に怒られながら嫌そうに宿題をするお兄ちゃん達の顔を見ていたから、勉強って大変なんだなと思って、私も強く関心を持った事がなかった。
「でも文字なんて読めんくて大丈夫ですって! 私、家事とかは全部得意じゃし!」
だから文字が読めない事が何故いけない事なのかを全く考えなかった私は、この日から猛勉強する義務が課せられた。
*
「まさか、字が読めないだなんて思わなかった」
ため息交じりにつぶやく彼に、おめぇのせぇでこげーなことになったんじゃろ。と思った私は強気になって言い返す。
「でも、文字なんて読めなくて困った事ないですよ?」
それを聞いたハルさんはまるでお爺さんみたいに顔をさらにしわくちゃにしていた。
「……うーん、まぁ、十六なら巻き返せる。いけるいける。とりあえずアルファベットから覚えようか?」
そう言いながらハルさんは少し年季の入った本やノート、文房具を私の部屋の机に並べた。だけどまだ不満が残る私は刺繍道具を端によせながら、まだまだ強気のまま疑問をぶつけ続ける。
「ねぇ、何で女なのに勉強するん? だって男の人が文字読んだり計算するがぁ? じゃ、勉強しなくたって別にええじゃないですか」
「ブルーズ」すると私の言葉を遮るみたいに名前を呼ばれた。遠回しに「黙りなさい」と言われた様な気がしてちょっと畏縮してしまう。
「いいから机向かって」
そしてそのままハルさんが珍しく少し強めの口調で指図して机を叩いたので、ちょっとだけ小さくなった私は素直に従った。
商売人の妻になる女が読み書きもできないなんて考えられないと嘆いたご両親から、私はまず、文字の読み書きと計算を覚える様にと命じられた。どうしてみんなそんな顔をするのか理解できないまま、一文字ずつ同じ文字を何度も真似して書く。数十種のアルファベットを覚えたら、リンゴとかイヌとか、簡単な文字を何度も繰り返し書かされた。
「心配だよ、今時こんな事もできないなんて」
「でも私の村じゃ女の子はみんな勉強なんてしとら、……してないですよ?」
「……俺、生まれて初めて人の人生の心配してるかも。ませてる子なら四、五歳で読めるんだよ、ジラヌン程度の文字は」
その言葉で無言になった私は算数も同時進行で習った。
足し算と引き算はすぐに分かったけど、かけ算とわり算で引っかかる。こんな大きな数字を扱う事なんてないじゃないと内心文句を言いながらも、まずは国語と算数を中心に少しずつ学んでいく事になった。
日中はあまり動き回らなくてもできる家事を手伝いながら、隙間時間にはお母さん、たまにお父さんに勉強を見てもらう。夜はハルさんとお茶を飲みながら勉強、勉強、勉強尽くしの毎日を送ると、頑丈な私も頭を使いすぎたのか、三日目で熱が出て一日寝て過ごした。
*
勉強漬けの生活が一週間とちょっと過ぎた。やっと松葉杖無しで歩けるくらいに回復したので、気晴らしとご褒美を兼ねて街を案内してもらえる事になった。外に出られるのは嬉しかった。家の中でじっとしてるのなんて億劫だったし早く歩き回りたい。でもベルさんとの話が噂になっていたら、世間体を考えると外出はまずいんじゃないかとも不安になる。でもそれを伝えたら「今時特別珍しい事でもないし何も心配する事はない」と答えられた。
うちの村ならそんな事があれば村八分にされるのに価値観が違うんだなと驚きと不安を抱えつつ、賑やかな市場へ足を踏み入れた。
道の左右へ連なる様に露店が立ち並び、見た事がない野菜や果物、小物などが山盛りとなって大量に置いてある。客引きの多さと耳をつんざく様な大声にどぎまぎしながら、こんなにたくさんの商品が並ぶところを見た事がない私は目を輝かせ、一つ一つの店の前で足を止め、その度にじっくりと見物した。「そんなに珍しい?」とハルさんは笑っていたけど、私は「すっごいですよ!」とはしゃぎながら返した。
それもそのはず、私の村にはまずお店なんか無い。欲しいものは村の中で物々交換するか、父か兄に頼んで麓の街まで行って買い物してもらうのが当たり前だからだ。たま~に旅商人が来たり、お祭りで小さい露店が出たりするから買い物自体は経験があるけど、それも数えるくらいしかやった事がない。
私がはしゃぐのをハルさんが親みたいに見守りながら、頼まれたおつかいをして、ついでに勉強用のお菓子を買う。
たまにハルさんの知り合いに会ってしまった時は、彼の後ろに隠れて、愛想笑いをしながら黙り込んで時間が過ぎるのを待った。知らない人と何を喋ったらいいのかなんて分からないし、たまに聞こえてくるひそひそ声もあまり気分がいいものではなかったから、ハルさん以外の人としゃべるのはまだまだ億劫だ。それでも「キャラバンが来る日はもっと豪華になる」と聞かされれば「どれだけ素敵な物があるんだろう」と、揚げ菓子を買い食いしながら胸を高鳴らせていた。
目的の物は買ったので帰ろうと思った矢先、「寄るところがある」と、住宅地の中にぽつんと建っている謎の店へと私達はやってきた。
「ここは何屋さんですか?」
「雑貨屋」
端的に返事をするハルさんと店に入る。すると、思わず目を見張った。
天井から吊り下がるガラスで飾りが、差し込んだ陽の光を受けてキラキラと部屋を照らしている。可愛い模様の食器や動物の小物やお面、タワシやほうきなどが多数棚に陳列されて、壁には刺繍がびっしり入った大判の布が一面に張られていた。変わった香りのお香が焚かれて、まるで宝石箱の中に入り込んだような錯覚に陥ってしまう。
「すごぉい……」
私はそんなお店の内装にうっとりと見惚れていたけど、ハルさんはこれらが目的ではないらしい。店番をしている浅黒い肌の若い男の子に親しげに話しかけ、何かを一通り並べてもらっている。
店番の男の子は少し黒い肌に分厚い二重瞼で、顔立ちが私ともハルさんとも明らかに違う。密かに驚いていたら「あいつは外国人なの。でも言葉は大丈夫だから」と耳打ちされた。
ハルさんと仲良さげに話す男の子はクリシュナ君というらしい。肌も髪色も暗めなので、黒髪黒目の容姿故に街中で浮いていた私は少しだけ親近感を覚えた。クリシュナ君が商品棚に並べたのは糸綴じの何も書かれていない新品のノートだった。
無地もあるけど、花や葡萄柄の見た目の可愛い表紙のノートを選んでくれたみたいで心躍る。好きなものを選んでいいよと言われたので十分くらいうんうん悩み続けて花柄を選んだら、クリシュナ君は「これは人気あるよ~かわいいよね~」とニコニコしながら商品を包んでくれた。
「これあげる、プレゼント」
店を出るとハルさんはノートの入った紙袋を私に渡した。
「これで何するんですか?」
「俺が小さい時にやってた勉強方法なんだけど、毎日日記を書こう。そうしたら文字の覚えも早いから」
「ニッキって何? スパイス?」
ピンときていないのを察したようでハルさんが少し頭を悩ませている。
「ん~……。ええと、毎日あった事を記録するのが日記。こういう出来事があって、自分はどう思ったとか。何でもいいんだ。好きな事を書いたらいいよ。ご飯が美味しかったです、とか。そうしたら楽しんで覚えられるから」
「へぇ……」
仕事の記録みたいなものかな。あんまり楽しくなさそう。
「自由でいいよ。それで書いたら俺に見せて。綴りが正しいかどうかとか見てあげるから」
夕食を終えると日記を書いてみた。書きたい事は決まっている。今日市場に行って感じた事を、みんなに話すみたいに書こうと思った。それだけなら簡単だ。
だけど、いざ書こうとしたら文章が思いつかない、筆が動かない。ほとんど増えない文字に対して私の冷や汗の量はどんどん増えていく。
分からない言葉は逐一ハルさんに教わって、小一時間、ついに書きたい事が半分も書けてない日記が出来上がってしまった。
字の美醜がよく分からないけど、字が汚いというのは私でも分かる。力が強すぎて何度か鉛筆の芯が折れてしまったし、擦れて紙が煤汚れてしまった。
「書きたい事が、全然、書けんかった……」
「最初はそんなもんだよ」
ハルさんにノートを買つてもらつたので
今日から日記お書く事にしまた。
今日は足がなをつたので市場につれててもらいました。お店には見た事ない野菜とかあって楽しかったです。
キャラバン来たら行つてみたい。
予想以上に馬鹿みたいな文章を読み返す。私って普段、こんな喋り方だったっけ?
「……おませな子がジラヌン読めるんなら、八歳ならもっと書けたりしますか?」
「……まぁ、書けるかもね?」
「私、初めて勉強せんとおえん気がしてきました」
絶望感を味わった私は頭を抱える。
「……別に勉強しなさいって話は真に受けなくていいよ? そりゃ文字は読み書きできた方が良いとは思うけど勉強については適当にこなしてれば」
「いや! やる! やります!」
焦った私は食い気味で返す。確かに私は今まで勉強に興味なんてなかったけど、どちらかというと何でもすぐにこなす方だった。
なのに、一から文章を書くのがこんなにできないなんて悔しい! それ以外の言葉が見つからない。もしかすると八歳の弟の方が字が上手なんじゃないかと思い始めると、私はすっかり持ち前の負けず嫌いが発揮されていた。
「でも、初めてにしては書けてると思うよ? そもそもブルーズは一週間しか勉強してないんだから」
ハルさんが気を使ってくれているのが分かるから、より焦ったくて素直に喜べなかった。自分でも幼稚な文章なのが分かる。まるで幼い妹が真似事で書いたみたいな文字だ。自分としては頑張って書いたつもりけど、絶対に字が違う。綴りが違う。書き方が違う。
「だって、もっと……、書けるって思っとったのに……」
でも、これが私の今の精一杯だ。自分でも笑えるくらい落ち込んだ声しか出ない。得意げに、「勉強なんて別にしなくていいでしょ♪」と思っていた自分が情けなくて、ちょっと泣きそうになった。
「んー……ゆっくりやればいいから」
ハルさんはそう言って慰めながら、おかわりのお茶を淹れてくれた。
「頑張ってるよブルーズは。熱が出るくらい頑張っててちょっと心配なくらいだよ。やる気があるうちは俺は満足いくまで教えるからさ、もっと力抜いて少しずつ覚えていこうよ。帰る日まで教えてあげるから」
諭すみたいに優しくしてもらうと、出来ないからとふてくされた自分が少し恥ずかしくなる。そしてハルさんとお喋りしている時、「このノートを全部使うのと、家に帰るのはどっちが先なんだろう」という考えが頭をよぎった。
でも「あと何日いたらいいの?」と聞くのは、なんか、ちょっとな。また明日でも聞けばいっかと思い直した私は、そのままお茶をもう一口飲んだ。
翌朝、ハルさんが預かってくれた日記を渡してから仕事に行ったので、空き時間に読んでみた。
誤字を色の違う筆で修正した跡があったのでふむふむと思いながら読んでいると、何行か新しい文章が綺麗な字で追記されている。
だけど私はまだほとんど読めないので、お母さんにお願いして代読してもらった。
ブルーズへ
毎日母さんの手伝いをありがとう。母も助かってると思います。
妹が嫁いでからは随分寂しそうだったから、女の子が家にいるだけで嬉しいのかもしれません。
勉強も大変だと思うけど、分からなかったらいつでも聞いてね。
ただ無理して体でも壊したら心配だからゆっくり取り組みましょう。
俺も、昨日は楽しかったです。また遊びに行こうね。ハルより。
「あら……あらあらあら…………」
お母さんは興味深そうにハルさんの文章を読むと、もう一度「あら〜〜!」と感動したように叫ぶ。少女のような顔で私と手紙を交互に見ている。お昼ご飯がいつもより豪華だった。