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第4話 いじわるな許嫁?

「ずっとハルの事だけを慕ってきたのに、突然現れた方に横取りされたんですもの。そんなの、目の前で愛し合ってる証拠でも見せてもらえないと私だって諦めがつかないのなんて当然じゃないですか。だからここでキスして見せて欲しいの。今すぐ。そうしたらすっぱり諦めるわ」

「いや、ベルそれは無理だ」


 ベルさんが非常識な事を要求したのか、ハルさんが少し慌てた様子を見せている。


「どうして? あなた、この子に一目惚れしたんでしょ。一眼見て結婚したいと思った子にキスの一つや二つもできないわけ?」

「そうじゃなくて、お前を満足させるために人前ではしたない行為はできない。俺はともかく、この子は嫁入り前なんだぞ」

「よく言うわよ! 十一年も許嫁だった私を裏切って、ブルーズさんの事を愛する事に決めたんでしょ? なのにそれくらいの覚悟も見せられないの? それって本当に愛なのかしら? そう思わない? ねぇ、ブルーズさん?」


 翠色の瞳が再び私へ向けられる。よくない予感に思わずつばを飲み込んだら、緊張で乾いた喉にしみるような気がした。

 けれど、言い訳にしか聞こえないと思うけど、私だってこれを言うのは迷った。

 どう考えても空気の読めてない質問なのは分かってる。非常識な事だと分かってる。

 それでも、それがどういう意味か聞いて理解しておかないと話し合いに参加できない。多分知ったかぶりをしたままだと、この先とんでもない事になる気がする。

 だから私は場の流れに沿わないと分かっていても、勇気を振り絞って聞くしかなかったって事は、みんなに分かってほしい。


「あの、ごめんなさい、キスって何ですか?」


 部屋にいた全員の力が抜けてずっこけた。


「……口づけの事だけど?」

「え?」

「……ちゅーよ」


 何を言い出すんだこの女はと言いたげな表情を浮かべながらベルさんが教えてくれる。


「……ぢゅー⁉」


 ベルさんが怒っていて何かをやれと言ってるのは分かっていても、そもそも「キス」の意味が分かっていなかった私は、一歩遅れてやっと話が理解できた。


 それなら、ベルさんの要求は無茶だ!そんなのは本当の結婚式の時、初めてすべき事だもの。

いや、まぁそりゃ恋人ならこっそりしててもおかしくはないんだろうけど、人前でそんな事するなんて頭がおかしいに決まってる。

 でも十一年間慕ってきた人に裏切られたのだと考えたら、それくらいしてみせろと言い出すのも当然の感情かもしれないとも思う。私は本当の恋をした事がないけど、婚約者に裏切られたのなら、一言じゃ表しきれない憎しみや妬みの感情が生まれる事は容易に想像できた。

 ベルさんはハルさんを睨み続けていたけど、様子を伺うみたいにたまに私もチラリと見てくる。

 「恋人の証明」に口づけだなんて。私は好きな男の子と手を繋いだ事もないのに絶対無理だ。ハルさんが美男子でも無理だ。想像しただけで、炎に近づいた時みたいに顔が熱くなる。

 どちらの家のご両親も気まずそうな顔をして、ひとまず本人同士がどう出るのか伺っているみたいだった。隣のハルさんの顔を見たけど、真顔でどうするか考えている様に見える。

 そして、はぁとため息をつくと諦めた様子で私の方に顔を向け、「ブルーズ、こっち向いて」と囁いた。

 ハルさんは、モテるだろうからこういう経験がたくさんあるのかもしれない。

 こんなの、人生でたまに起こる事故だとすぐに諦めがつくのかもしれない。

 一方の私は、周囲の人に聞こえそうなほどの勢いで心臓が脈打っていた。初めての口付けがこんな形で済まされるなんて本気で嫌。今すぐ窓から逃げ出したい。

 でも、嘘をついた罰が早くも下ったのかもしれないとも思った。私たちはここにいる全員を騙してるんだから、神様が早々に裁きを下したんだと本気で思った。

 私は拒否感と緊張と不安で少しだけ目が潤んでしまう。本当にするんですかと目で訴えたけど向こうからの返事はない。ベルさんは扇で口元を隠しながらこっちを睨み続けていた。

 双方のご両親は止めに入ろうとはしてくれていない。ハルさんは早くしろと言わんばかりにこっちを見てくる。

 ……事故だと思おう、そう覚悟を決めた。

 一瞬我慢すればいいだけなんだから。そうすればきっと滞りなく事が進むはずなのだから。

 覚悟を決めた私はハルさんに言われるまま体をハルさんと向き合う様に向き直した。

 恥ずかしくて彼の顔を見れない。周りもざわついていたけど何を言っているか聞き取る余裕なんてない。緊張で手汗が滴ってしまいそうだし、背中には滝の様に汗が流れている。

 ハルさんの手が私の頬にそっと触れた時、あぁ本当にされるんだなと思った。心臓が激しく動きすぎて壊れて止まってしまいそうだ。もう一度強く目を瞑って少し上を向いた。歯を食いしばって待っていたら、思っていたより早く唇に硬い何かがプニっとひっついたので驚いて体が跳ね上がる。

 私の初めての経験がこんな形で奪われてしまった。最悪だ、もうお嫁にいけない。泣きそう。目頭にはすでに涙の粒が溜まっている。

 ……だけど、あれ、唇ってこんなに硬いものだったっけ? と、唇の感触に少し違和感を感じた。唇が当てられたというより、どちらかというと干し肉のような、腸詰のお肉のような、そういう異物の感触に近いものが当たってる気がする。そして唇のような感覚はおでこで感じ取っていた。

 そっと目を開けて、何が起こっているのか確認する。キスなら彼の宝石みたいな瞳が見えるはずだけど、見えたのはハルさんの喉ぼとけと、手のひら。

 ハルさんは私の口を親指で塞いで、おでこに口付けをしていた。

 頭に彼の重みを感じる。

 頬と唇に添えられた手は大きくてゴツゴツしてるけど暖かくて、心地いいとも思えた。そのまま何秒間か留まると、柔らかいハルさんの唇は離れる。


 目が合った。ゆっくり瞬きしたのが「ごめんね」って言っている気がして、彼の紫の目から逃げる事なんてできなかった。

「これでいいよな」


 ハルさんはベルさんへぶっきらぼうに言い返す。私の顔が赤いのか青いのか分からない。ただ、恐る恐る見たベルさんの顔は少しも笑っていなかった。



 努力の甲斐あって、正式に婚約の話はない事になった。ヘトヘトになりながら帰宅した私達は夕食も食べずに解散した。お母さんは友達の所へ、お父さんは仕事をすると言って家を出ていく。婚約破棄については思ったより早く終わったので、キス以外は肩透かしを食らった気分だ。

 この街では大体十八歳前後で結婚するのが慣わしらしいのだけど、ベルさんはまだ十六歳な上にあの美貌だ。新しい相手はすぐ見つけられるだろうし「よくある話だから」という事で、チアンウェイ家もまだ承諾しやすい話だったそうだ。

 先程の唇の感触が頭から離れない私はまだ彼の顔を見れなかった。でも当の本人は平常運転という感じで涼しい顔をしている。その証拠に昨日みたいにお茶とお菓子を持って私の部屋に遊びにやってきていた。


「さっきはごめんね。口は嫌だろうと思っておでこにしたけど、それでも嫌だったでしょ」


 すぐ返事をしないとと思ったけど、適切な言葉選びができる自信がなかったので首を横に振るだけにする。


「……ったく、ベルのやつ、俺を困らせたいからってあんな無茶な要求してきたんだよ。本当に性格が悪い、普段からあぁなんだよ」


 ベルさんを振ったのはハルさんなんだからそんな言い方はないんじゃないかも思いつつ黙ってお茶を飲んだ。


「ベルさん、ほんまに美人で驚きました」

「あー、まぁ美人だよね。小さい時から見てるからもうよく分かんないけど。でも性格がダメ、猫かぶってるけど本性はただの主導権握りたがりのわがまま女だから」


 本人がいないからって言いたい放題だ。ハルさんの悪口の調子が乗り始めたみたいでどんどん滑らかになっていく。


「今日は親がいたからマシだったけど」

「誰がわがままじゃじゃ馬女ですって?」


 そして歌うような悪口を遮るように、突然さっきまで聞いていたはずの琴音がした。

 真っ赤な髪からいい匂いを漂わせて、この家にいるはずのないベルさんが入ってきた。驚いた私はひっと声を上げてハルさんも驚いてお茶の入った湯飲みを落としかけている。


「ねーえーハル君、誰がじゃじゃ馬なの? ねーえ?」


 私達の反応に構う事なく、子猫が甘えるみたいな声で煽るように迫っていた。二人で何か言い合ってたけど私は頭が真っ白で何が起こっているのか理解できない。言い足りなかった罵詈雑言をしに来たのだろうか。

 こういう時にどうしたら良いのか分からず呆然として間抜け面を晒している私に気付いたベルさんはにこっと笑うと、私に近付いた。何事かと思って「ひぃっ」と小さく叫んだ私は身構えていたら、ベルさんはそのまま抱きついてきた。何をされるのか分からず怖いという気持ちと同時に、ブワッと漂ういい匂いが鼻孔をくすぐる。

 あぁ、本当にどうしたらいんだろう、でも凄くいい匂いがする! でもどうしたらいんだろう! 一瞬で頭の中がぐちゃぐちゃになった。


「ブルーズちゃんありがとう! ブルーズちゃんのおかげでハルと結婚せずに済んだわ!」

 いい匂いに溺れそうになっていたけど、どうして感謝されているのか分からなくて私はすぐに正気に戻る。

「なんで? どうゆう事なんですか? なんで私がお礼を言われてるんですか?」

「……ん? ハル、まさかあなたこの子に何も言ってないわけ?」

 目の前の女神はキョトンとした後、ゆっくりと、元婚約者を責めるような「信じられない」という厳しい表情をした。



「早い話が、私もハルと結婚したくなかったのよ」


 出されたお茶とお菓子を当たり前のように飲み食いしながらベルさんが言った。


「ごめんなさい、あなた本当に何も知らなかったのね。今日は親の手前、浮気した事になってるハルに対して私は怒らないと不自然だったから、わざと女の子に失礼な態度を取ったのよ。それを謝りに来たんだけど、ふふっ、知らなかったんなら、私あんな事しなかったのよ? だって、人の男盗っといて『何も知りませーん♡』みたいな態度してたから、つい意地悪したくなっちゃったの。ふふっ何も知らなかったのねぇ~、ごめんねぇ~怖かったわよねぇ~」


 小さな顔で軽やかに笑う。あれ、演技だったのか。蛇に睨まれた蛙の様な気持ちになったのだから彼女には役者の才能があると思う。


「ずっと許嫁だったし、ハルと結婚するんだと思って生きてきたのは本当よ。でも私、ちょっと前にね、お母様と花嫁修行でお料理してたの。ご飯は我ながらまぁまぁな出来だったわ。でもその時思ったの。『このご飯、全然ハルに食べさせたくないわ』って。つまり全然好きじゃないのよ、ハルの事。男として」


 花が咲き乱れる様な素敵な笑顔でハルさんへの興味のなさを主張している。その真向かいでハルさんはひたすら黙ってベルさんへ敵意の様な視線を向けていた。


「私ねぇこの後忙しいから手短に話すけど……。あっ、今日ね、私の傷心パーティー開くのよ。全然傷付いてなんかないのにね? ふふっ。まぁ、さっきも言ったけどそもそも何で私達が婚約してたかっていうと、元々私はハルの妹のサラの親友だったの。それで昔から家同士交流があったんだけど、お互いお金持ちだし、将来の許嫁としてちょうどいいと思った親同士が勝手に約束しただけの話なのよ。私はサラと姉妹になるって言われたから喜んで承諾しただけで、その時は結婚なんてよく分かってなかったのよね。だって五歳よ? 分かるわけないじゃないねぇ? あ、ハル、サラから手紙とか来てないの?」

「来てないしサラの話するならまた今度にして」


 ベルさんは楽しそうにおしゃべりを続けてるからか、ハルさんが不機嫌そうに返す。ベルさんもふーんと返す。


「あっそー。それでね、話戻すんだけど、えっと……。……ハルと結婚観について話す事があったのね。そうしたらハルも私との結婚に積極的じゃないって分かったから、『じゃあいっそ、破談にしちゃいましょうよ』ってなったのよ。自分の人生なのに、親の言いなりになるのも馬鹿みたいじゃない? ……とはいえこんな事を女側から言い出すと、ね? 世間体が良くないでしょ? 子供同士のわがままなわけだし。で、普通こういう事になれば何か理由をつけて男性側から断るのが定石なのよ。男なら断っても何もないもの。ずるいわよね……」


 ベルさんは人生を憂う女の顔をした。確かに、女は相手を自由に選べないのに男は遊んでても何も言われないころに対して、ばかな私でも違和感を覚える事はある。仕方ないのかなとは思うけど。


「……でも、まさか女の子連れてくるなんて思わなかったわぁ〜。真面目なハル君がねぇ? 婚約破棄自体、別に珍しくないわよ。でも女がいますって事は、つまり二股してたって事でしょ? 他に女がいるって事を正直に言えばトラブルになるんだし、普通は馬鹿正直に言わないわよぉ。でもおじさまたちが結婚に乗り気だったから、逆にそこまで言わないと難しかったって事? どっちにしろ、そういうところあるわよねぇ」

「うるさいな、望み通り、無かった事になったんだしいいだろ」

「……分かったわよぉ! でも、それでさっき急に私に会いに来て、どうにかなったから話し合わせろだけ言って帰っていくから意味が分からなかったわぁ。その後お父様から破談になったって聞いて何となく把握はできたけどぉ。ハル、あなた大事なところ適当になるところ直した方がいいわよ。絶対いつかトラブルになるわ」


 ベルさんが私の方をチラリと見ながら最後に警告した。ハルさんが以前、ベルは特に気にしないみたいな事を言っていたけどこういう事だったのか。当事者同士だと得の多い話だったらしい。


「……でもぉ、こんな可愛い子連れてきてびっくりしたわぁ〜。ダークブラウンじゃなくて真っ黒なお髪なんて生まれて初めて見たわ。染めてるの?」


 ベルさんが急に私に顔を近づけてじぃっと見つめてくる。こんなに出来上がった顔が私の目の前にあると、いったいどこに目線を合わせていいのかわからない。


「じ、地毛です」


 女の子にたじろぐモテない男みたいな声で返事した。


「そうなの? エキゾチックで、ロマンチックで、不思議な感じがして素敵ね。目も真っ黒で子鹿みたいで可愛いわぁ。あどけない感じが目を惹くわね。ブルーズちゃん、よかったら仲良くしてね」


 超美人の笑顔が私だけに向けられていて照れる。こんなに綺麗な子が世の中にいるなんて村にいたら一生気付かなかったかもしれない。眼福だぁ、この顔を紙に一生残しておける装置があればいいのに。


「で、でも、そのぉ、よ、良かったです。私、ずっとベルさんが傷ついとんじゃないかって心配しとって」

「えっ、やだー! 喋り方も可愛い〜!」


 方言に興奮したベルさんがまた私に抱き着いてきたから、異性に抱きしめられてるみたいに緊張した。

 あぁ、お花のいい匂いがする。私の平らな胸にふかふかのパンみたいに柔らかい物が当たると本当に同じ女なのかと自問自答してしまい、自信が無くなりかけた。


「もぉ! ブルーズちゃんいい子ね、責任なんて何も感じなくていいの! ごめんなさいね? 全部私とハルのワガママのせいなのに巻き込んじゃって」


ベルさんはご機嫌で私の髪を撫でる。「そろそろ抜けてきたのがバレそうだし、おじゃま虫だから戻るわね」と言って、優雅に飛ぶ蝶々みたいにいい香りだけ残して去っていった。


「……何で、ベルさんは知ってるって教えてくれんかったんですか?」


 再び静かになった部屋でハルさんに問いかける。教えてくれていたらあそこまでビビらなくて良かったと思うと苛立ってしまった。


「え? だって、ブルーズ嘘つけなさそうだし。敵を欺くには……っていうじゃん」


 真顔で答えられた。どういう考え方してるんだろうと少し引いてしまった。本当に怖かったのにと怒ると、ハルさんは少し反省したのか

「ごめん、これあげるから許して」と見た事のない果物を剥いてくれた。

 ので、私はちょっとだけハルさんを睨みながら「別に食べ物で誤魔化されませんからね」と文句を言いながらそれを食べた。

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