目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第2話 私たち結婚しま~す。

 昼に近い時間に起きた私を迎えたハルさんのお母さんが私を見るなり気まずそうな顔をしていたので、その瞬間に「あ、マジで話したんだな」と察した。


 身だしなみだけ整えると打ち合わせをする時間もないまま全員で食卓を囲み家族会議が始まる。


「俺この子と結婚するから」


 彼がとんでもない事を言い出したおかげで、ハルさんのお父さんとお母さんは、睨むような、見定めするような、そんな目で私を見ている。

間違いなくこの会議の原因は私だ、歓迎されていない事は火を見るよりも明らかだ。とはいえ言い出しっぺはあなた方の息子だから勘弁して♡とは口が裂けても言えない。

 私は改めて名乗るとぎゅっと口をつぐんだ。これ以上何か話すと罪悪感で自白してしまいそうだからだ。


「ベルには悪いけど、お互い一目ぼれしたんだ。俺はもうこの子以外は考えられない。父さん達には悪いけど許嫁の話はなかった事にするから」

「いや、いやいやいや待ちなさいハル。昨日会ったばかりの子と結婚なんて、そんな」


 突き抜けるほどまっすぐ非常識な事を訴え始めたハルさんを、ご両親は必死に説得した。私は内心ハルさんが負けたらいいなと思ったいたけど、ハルさんは引き下がるどころか更に上をいく。私に対する愛の賛歌とでも例えればいいのだろうか?


「ブルーズじゃないと嫌だ」

「初めてこんな気持ちになる子に出会えた」

「この子は今すぐ結婚したいと思えるけど、ベルは妹としか思えない」


など、心にもない事をつらつらと語る。


 最終的に、「それでも認めてくれないなら家なんて継がない」なんて脅迫じみた台詞まで並べ始めたものだから、ご両親は本当に困った顔をしていた。


 私の身元については『家族に先立たれ、養子先で女中のような扱いを受けている可哀想な孤児』というあからさまに怪しい設定にされた。遠回しに「この子を野に放てばまた路頭に迷うぞ」と言いくるめていた。もちろん「いいえ、私の家族は全員元気です」と思ったけど口には出さない。


 ボロボロに汚れた私を甲斐甲斐しく世話してくれた優しいご両親なので、すでに何となく察してはいたけれど、この人たちは人情に訴えられると弱いみたいだ。まるで死にかけの子猫を渡されてたような顔で悩んでいた。ハルさんも二人の性格が分かっているのだろう。だからこそ、こんな無茶苦茶な計画を持ち掛けたのかもしれない。


「ベルは美人だし性格もいいから、俺なんかじゃなくてもいい人はいるよ、それに彼女はお嬢様だし、お金に困ってないし、恵まれてる。それに比べて、可哀そうに。この子は頼る家族も親戚もいないんだ。子どもの頃、父さんたちは弱きものを助けるのが恵まれたものの使命だって教えてくれたじゃないか」


 畳みかけるようにツラツラと言い続けて小一時間、ご両親はついに折れてしまった。あぁ、せめて心に添え木をしてあげたい。



 愛息からの痛烈な告白に酷く傷心したであろうご両親はそれぞれふらふらしながら出かけてしまったので、がらんとした家には私とハルさんだけが残された。あんなにいい人たちなのに頭がおかしくならないか心配だ。


「本当に大丈夫なんでしょうか」

「うちの親は心配性なだけだから大丈夫大丈夫。それに俺、ベルに好きとかの感情がないのは本当なの」


 淹れてもらったお茶を啜り、のんびりと答える目の前の男を見て私は不安になる。あんなにいい人たちなのに嘘をつくだなんて心が痛んだ。取り損ねた食事もこれじゃあ喉を通る気がしない。

 そもそもこんな嘘をつく事になったのは全部、目の前でお茶を啜っている、金髪の美青年のせいだ。私はただ巻き込まれただけなんだから。



『――二、三か月だけでいいから、俺の恋人のふりをしてくれないかな?』


 昨日、馬上でハルさんからされた提案に私は馬から落ちそうになった。バカらしくて。


『……はい? 』


 相手は二歳も年上なのに思わず礼を欠く言い方で聞き直した。はっきり言って意味が分からない。


『俺、許嫁がいるの。ベルっていう子なんだけど、正直、性格とか趣味とか、人間性って言うのかな。その辺が全っ然っ合わなくてさ。生まれた時からの幼馴染な上に妹の親友なんだよ。だから半分妹みたいに思えちゃって、結婚相手として見れないんだよね。なので、本当に結婚する前に許嫁の話自体、断りたいんだー。けど、俺の親はこの結婚を本当に楽しみにしてて』

『えっと……、はい』


 突っ込みたい事ばかりである。大人しく最後まで話は聞いて、冷静に整理して、そして何度も断った。

 私の中でひそかに燃え上がった恋の火種がちょっとずつ冷めてった。なんて非常識な事を言いだすんだと思ったし、初対面の女に頼む事じゃないだろとも思った。馬の上でこんな馬鹿げた計画を持ちかけられてる女なんて世界で私だけじゃなかろうか。断り続ければ諦めるだろうと思っていたけど、ハルさんは諦めが悪かった。

 衣食住はすべて保証するし、何でも買ってあげるし、お礼もするし、最後は絶対に家に送り届けてあげるからと何度も頼まれると、断り続けるのは難しかった。


 「さっき、お礼するって言ったよね」


 とどめの一言である。真顔で圧をかけられると命の恩人だという事情もあって、私は彼の要求を受け入れるしかなかったのだ。



「いや、本当に助かったよ。ベルには俺が言っておくから」

「その、こんな事してベルさんは傷付かないんでしょうか」

「ないない、絶対ない」


 私の繊細な疑問は即座に否定される。


「まぁ、色々あってね。向こうもこれで良かったと思うはずだよ。ハッピーエンドってやつ」


 軽く笑いながら話す彼を見て、よくある男女間のもつれだと思い、それ以上は深く聞かなかった。さっき言った話が本当だとも限らないし、もしかすると私は痴話喧嘩に巻き込まれたのかもしれない。何だか微妙な気持ちにさせられる。


「しばらくは昨日使った寝室をグイさんの個室として自由に使っていいから」

「あ、はい」

「足らない物があれば何でも言って。お手伝いさんに言ってもいいし、俺でもいいし、準備する」

「えと、はい」

「足の具合はどう?」

「……少し痛いくらいじゃけ、大丈夫」

「そう………」


 最低限の会話が終わると、すぐ話題が尽きてしまった。天気の話を振るには遅すぎる。湯呑みのお茶は既に空になっていたけど、間違えて何度も飲みそうになった。


「……一応、グイさんは俺の恋人って事になるから、人前ではそれっぽく振る舞って欲しいんだけど」

「あ、はい」


 部屋の空気に耐えられなかったのか、ハルさんは私たちの偽の恋人ごっこの設定の打ち合わせに入る。


「俺の事は呼び捨てでいいから」

「はい」

「俺も呼び捨てでいい?」

「大丈夫です」

「敬語じゃなくてため口でいいよ」

「一応、私年下じゃから」

「それならいいけど。親の前とかでは臨機応変にイチャつくふりしてもらっていい? それっぽい雰囲気をか醸し出してくれれば親は大丈夫だと思う。キスとかそういうのは一切しないでいいから」


 人前でそれっぽく振る舞っているだけなら私にもできる気がしてきた。

 実家の家族は心配してるはずで、本音は一刻も早く帰りたい気持ちでいっぱいだ。けど、この足ではしばらく歩けそうにないし、恩返しの為にはここで言われた通りに過ごすのが今の最善なのかもしれないと無理やり自分を納得させた。

 ハルさんは何か考え事をしているのか、もうほとんど残ってないカップの底に溜まったお茶を円状に動かしていた。占いでもしてるのかしらと思いながら、私はそんなハルさんの様子を観察する。

 窓から差す光で、彼の明るい金髪の一本一本が絹糸みたいに透けていて、高級な毛皮の光沢に似ていて綺麗だなぁと改めて見惚れていた。

 こんな綺麗な髪色の人に、私は人生で一度も会った事がない。夢に出てきた天使はこんな髪色だったような気はするけど、私にとってハルさんはそれくらい現実味のない容姿だ。私の真っ黒で何の特徴もない、炭みたいな髪色とは全然違う。


「ハルさんって何歳じゃっけ」

「ん? 十八歳だよ」

「じゃあ二つ上じゃね」

「そうね」


 ハルさんはまだ考え事をしている。


「……ブルーズ」

「はい?」


 急に名前を呼ばれたので驚きながら返事した。


「いや、ブルーズさん、ブルーちゃん、ブーちゃん、いやこれはダメ豚みたい。ブルーズちゃん? ブルーズさん? いや、ブルーズ。ブルーズだな。それの方がそれっぽい」

「そうですね」


 彫刻みたいな顔で考えていた事があほみたいな内容だったので適当に返事してしまった、どうやら今後のあだ名がたった今決定したらしい。それっぽいというのは、恋人って事だろうか。

 少し呆れた私とは対照的にハルさんは満足そうに笑ってお茶を飲み始めた。



「あなた料理はできるかしら」


 松葉杖で広すぎる屋内を案内してもらっていた所に、ハルさんと同じ目をした彼のお母さんが大量の野菜を抱えて帰宅早々声をかけてきた。

 ただならない雰囲気を醸し出すお母さんに、私は思わず固唾を飲みこんだ。


「えっと……人並みには……」

「なら食事の準備を手伝ってちょうだい」


 これが嫁姑戦争か? 台所の机に準備された、まな板と包丁と大量の野菜を手に取ると、私はそれをひたすら刻んだ。野菜や肉を切る間、火の晩をしながらお母さんにじっとりとした目線で見張られている様な気がして、緊張で指を切らないかハラハラした。言葉遣いや設定の矛盾に気を付けながら、当たり障りのない話をして準備を手伝った。

 とはいえ、出来上がった料理はとてもおいしそうで見るだけで涎が出てくる。余程乞食みたいな変な顔をしていたのか、味見すればいいじゃないといってちょっとだけ料理の乗ったお皿を渡された。ワクワクしながらそれを食べると、「おいひい~!」と声が裏返るくらい、つい素の態度で反応してしまった。

 心配そうな顔をしていたお母さんだったけど照れながら笑い返してくれた。さっきのねっとりした目線が少し薄まったような気がする。

 そりゃそうだ、この人も可愛い息子が何処の馬の骨か知れない女にたぶらかされていないか心配しているはずなのだ。思ったよりは悪女じゃないかもと採点してもらえたかもしれない。


 ちょうどご飯が出来上がった頃、仕事に出掛けていたお父さんとハルさんが戻ってきたので、そのまま食卓を囲んで夕食を取る事にした。

 恐らくご両親は内心穏やかではないと思うけど、これは自分で刻んだ野菜だし気にしない事にして食べよう。


 地元と味付けや料理方法が違う事は話の種になったので、食事中に気まずい沈黙が流れる事はなく、意外にも穏やかな時間が続いた。

 この街はキャラバンの中継地とされていて、世界中から色々な食材が集まってくる。だから内陸国なのに干物にしてあれば魚は食べられるそうで、私は家の裏にある湖で釣った魚をよく食べていたのでそれが嬉しかった。

 それと、私のような黒髪黒目の人間はとても珍しいと教えてもらった。この辺りでは数年に一度見るか見ないかくらいの貴重な容姿で、希少価値が高いと踏んだ人さらいに狙われたのかもしれないと、お父さんは言い辛そうに教えてくれた。私の地元はみんなこんな見た目なのに。外の世界ではそんな事になってたのか。自分の事なのに人ごとのように驚いていたら少し冷めた目で見られた。


「お客様用のだから汚さないでね」


 ハルさんの家は大きな宿を経営しているそうで、食事が終わると四人が座っても余裕のある大きな机いっぱいに数枚の地図が広げられた。

お父さんはまず、私達が今いるカミーを指差す。

そこから北の山を越えて、川を越えて、さらに山を越えたところに地元のケローネがあった。


 この地点で六、七十キロは離れているそうで、私はすでにどれくらいの距離なのか実感が湧かない。この時、ハルさんの計画の邪魔になると思った私は本当の住所は言わずに近所の村の名前を出し、みんながそれを頼りに探してくれて、地図が読めない私はほぼ眺めているだけだった。数分後にハルさんが見つけた村を計ると、ここから百キロ前後離れていたらしい。


「こりゃまた、遠いところから来たんだねぇ」とハルさんのお父さんがびっくりしている。


「山も二つ越えるし、歩きだと一週間以上はかかる距離だねぇ」

「そんなに遠くなんですか⁉」


 一週間と言う基準を聞いて私はやっと百キロという数字の重みを実感できた。頑張れば歩けなくはないだろうけど決して楽な道のりではない。


「ブルーズちゃん。やっぱり、一度家に連絡を入れる方がいいんじゃないかな?」


 心配そうな顔でお父さんが訊ねる。普通は血が繋がってなかろうと不仲だろうとも、親に無断で結婚する娘なんていないんだから最もな考えだ。


「あ、いえ……」


 でも私は、こういう時どう返すかはハルさんと話し合った時に決めている。


「義父母は、私がドジすると必要以上に怒鳴ったり、うぅ、殴ったりしてきて……。居場所を知られたら、うっ、連れ戻されてしまいそうでぇ……うぅ……できる事なら、このままあの人達の元から離れてしまいたいんです……ぐずっ」


 現実味を持たせるために芝居をしたけど、流石に猿芝居すぎたかもしれない。嘘泣きなんてすぐ見破られてしまうかも思いながら、お父さんをちらっとみた。


「うぅ、う、うううう、可哀想に、そうだったのかい……」


 あ、いけた。

 嘘泣きしながら語った私の作り話に、お父さんは目頭に涙を浮かべ、うんうん頷いている。

無事に信用してくれたみたいだけど、ちょっとこの人ちょろすぎないだろうか? と、少し心配になってしまった。


「分かった、連絡するのは無しにしよう」


 鼻をかみながらお父さんは言ってくれたけど、お母さんの方は私をじっと注意深く見ていた。多分だけど、まだ私の事を疑っている。


「心配してもろうてるのに、すみません」


 疑ってきてるお母さんをあまり刺激したくないから目を逸らした。


「けど、こんなに大けぇ地図は生まれて初めて見ました。世界ってでえれえ広いんですね!」


 ごまかす為に慌てて口にした話題ではあったけどこれは本当だ。十六年間、村からほとんど出た事がない私は地図なんてものを見る機会はほとんどなかった。机いっぱいに広がる地図を端から端まで興奮しながら見ていると、ハルさんの両親からは庇護心たっぷりの優しい眼差しを注がれている。可哀そうな子だと思われている気がする。




 地図を見終わって解散すると、自室になった客室で一人で過ごしていた。


「仲良しアピールしないとね」


 すると、呼んでもないのにお茶とお菓子を載せたおぼんを持ったハルさんがやってきた。

 本当は男の人を部屋に招き入れたくなかった。

 男性と二人きりになりたくなかったし、何を話せばいいのか分からないし、緊張するし、嫌だった。うちの村は十三歳前後になった子供は異性と関わらないという事が暗黙の了解になっていたし、それを基本的にはきちんと守っていた私は家族以外の男の子とは長らくまともに喋っていなかった。

 だからハルさんとまともにおしゃべりできる気なんてしない。楽しいおしゃべりなんてたぶんできない。だけど、ご両親の前ではそれらしくするという約束だし、そもそもここは私の家じゃないから諦めて部屋に入ってもらった。

 もらったお菓子は無言で食べた。ナッツ入りの白いお菓子は濃いめの茶によく合う。地元じゃおやつに小洒落た物なんて滅多に食べない(みんな木からもぎ取った木苺とかを食べてる)から、こういうおもてなしがあるのは、少し、いや、かなり嬉しかった。

 私がお菓子に魅了された事に気付いたハルさんは、もう一つどうぞと小皿に追加してくれた。しかも味違いで食べてみると全然違う味がする。

あぁ、全部美味しい。もしかすると、こんなのが毎日食べれるのかな。単純な私は、それならこの話を引き受けて良かったかもとさえ思った。


「ブルーズは、地元に好きなやつとかいなかったの?」


 脈絡もなく恋バナが始まって、お茶を吹き出しそうになった。


「お、おらんよぉ! びっくりした」

「本当に? 可愛いんだから彼氏とかいたでしょ」

「か……⁉ お、おら……、いませんよ。嫁入り前に、つ、付き合うとか、ふらちじゃし、おえん事じゃし」

「……へぇ、しっかりしてんね。まぁ普通の子ならそうだよね~」


 何故か不機嫌そうな低い声で返事をされたから、ちょっと怖かった。何か気に障るような事を言っただろうか。


「……まぁ、説得力ねぇーかもしれんですけど。こんな事しょーるし」

「ふふ、確かに」


 ハルさんは自虐風に笑うと、自分の分のお菓子を摘まんで食べ始める。

 お世辞でも「可愛い」なんて言われると恥ずかしくなって、顔が熱くなっていくのが分かる。赤くなったほっぺたを見られたくないから下を向いて手遊びするみたいに指をくねくねと交らわせた。


「好きな人はおらんけど、お父さんはお相手を探してくれとるみたいです。でも、結局お見合いもした事ねぇです。それに、正直そーゆーの、よぉ分からん。誰かをでぇれぇ好きになった事もねぇし」

「ふーん。まぁ十六歳なんてそんなもんだよね。本当に結婚するならどんな男がいいの?」

「お母さんはお金持ちと結婚せられ、て言ってました」


 強欲な母の願いが面白かったのか少しウケていた。


「だってうち貧乏なんじゃもん。でも、優しい人がええなぁ。意地悪とかしてこない人」

「それは一番大事だね」

「ハルさんはどんな人がええんですか?」

「俺は可愛ければなんでもいいよ」

「許嫁じゃった人って可愛うねぇんですか?」

「いや? 美人。俺は見飽きてるけど」


 美人なのか。

 ハルさんの隣に美人な女の子が立っている所を想像すると、少しだけモヤモヤする。


「……ハルさんってモテそぉじゃね。かっこええし、それにこの家ってお金持ちじゃろうし」

「うんまぁ、家は金持ってるし、人並み以上にはモテてる方、かな。昨日も客にナンパされた」


 素直に思った事を口にしただけだけど、否定しないとなると結構な自信家みたいだ。謙遜しない態度に一瞬本気かと疑ったかけど、裏付けるものを彼は持っている。顔が良くて背も高いし、スタイルもいいし、肌も綺麗だ。それにお金持ちだというなら非の打ち所がない。いかにも女の子が好きそうな要素が詰まった、魅力的な人だと思う。


「あっ大丈夫! 俺は絶対浮気しないから!」


 ハルさんは綿花柄の湯呑を持ってニコニコしていた。意味もなく愛想のよい笑顔に疑問を抱きつつ、私もお茶を一口飲む。


「浮気も何も、別に私達、ほんまの恋人ってわけじゃねぇし……」

「でも今は俺のお嫁さんでしょ?」


 揶揄う様に微笑むハルさんは蝋燭の灯に照らされて、昼間とは違って色っぽく見えたから、私は思わず恥ずかしくなってしまう。


「ちょっとからかわんといて。恥ずいけぇ」

「うん。ごめんね、でも」


 何か言いかけてじっと見つめてきたから、あほな私はお菓子のカスが口元についてるのかなと心配になった。でも口を拭っても何も取れなかったから、別に何もついてないですよと目線で訴える。すると、ハルさんはくすりと笑って続きを話した。


「ブルーズならかわいいから、本物のお嫁さんでも嬉しいよ」


 一瞬時が止まったかのように部屋がしんと静まった。時計の針だけが響き渡る。聞き取った言葉に呆気に取られ動けない。固まった私と目があったハルさんは綺麗な顔を保ったままニヤァっと笑ったから、私は少し遅れてからかわれたんだと理解した。

「ばか!」と顔を真っ赤にする私を「将来の旦那がうらやましいんじゃあ」と馬鹿にしながら、ハルさんはおやすみと言って私の髪をぐちゃぐちゃにかき乱し、さっさと自分の部屋に戻っていった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?