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花で飾る
ayahich
異世界恋愛ロマファン
2024年07月29日
公開日
186,716文字
完結
【女性向けマンガ原作賞優秀作品】偽装結婚&中央アジア風&異世界恋愛!
人攫いから逃げて彷徨っていた森で、間一髪のところを美しい青年ハルに助けられた少女ブルーズ。
彼女はハルに頼まれて、偽の花嫁として、知らない街で生きていく。

第1話 嘘だらけの花嫁さん

「母さん、水がめの水がのうなってるけぇ汲んでくるわぁ」


 五月にしては暑い日だった。だから、山で木こりの仕事をしている父と三人の兄達が、いつもより多めに水を飲んでしまったのかもしれない。朝に兄弟仲良く共同井戸で汲んだはずの水が、夕方にはほぼなくなっていた。


 これじゃあ夕ご飯の鍋が作れない。私はこれから十人分の夕食の準備をしないといけない。なのに誰かに頼もうにも、弟は遊びに行ったのか見当たらない。義姉は泣き出した姪の世話で手が離せそうにない。妹はまだ五歳だから大きなバケツなんて持たせられない。めんどくさいけど身軽な私が行くのが一番早い。


「お姉ちゃんありがとう。そういえばお父さんが帰ったら話があるから必ず家にいてって言っとったよ」

「うん分かったぁ。いってくるね」


 最後に母と会話をすると、山の上にある我が家から小道を下って村の中心にある村共同の井戸へと向かった。

 ど田舎にある私の生まれ育ったトルトゥーガ村には今日も平穏な時間が流れていて、たまに会う村人に挨拶して手に持ったバケツを揺らす。何にもない村だけど十六年間育てば愛着も湧く。

 その辺じゃ近所の鶏が散歩してるしヤギが文字通り道草を食ってるようなど田舎だけど、小さい頃からの付き合いの村人はみんないい人だし(結婚はまだなの? と聞かれるのは鬱陶しいけど)、砂漠の多い国の割にこの辺りはよく雨が降り緑にも水にも恵まれているから案外住みやすいのだ。うちは貧乏だし贅沢なんてした事ないけど、これ以上の生活なんて望んだ事なかった。きっと私は明日も明後日も同じように水汲みをして、家族のために働いているんだろう。


 十五分ほど歩くと目的の共同井戸へと着いた。朝は水汲みを任された子供でうるさい位の声であふれかえる場所だけど、夕方も近い時間だからか、しーんとして誰もいない。気にせずにいつもみたいに水を汲んでいたら、背後から足音が聞こえた。振り返ると、知らないおじさんが一人で突っ立っていた。


「こんにちは」


村で知らない人に出会う事なんて滅多にない。だから最初は誰だろうと、きょとんとした。

 見た目はぼさぼさの茶髪に灰色の目をしたおじさんだ。黒髪黒目の住人しかいない村では滅多に見ない容姿だ。ここはどこかの家にお客様が来ればすぐに噂が回ってくるような小さな村だから、知らない人がいればすぐ我が家にも話が回って来るはずなのに、そんな情報は聞いてない。


「村長さんの家はどこか分かるかなぁ? 教えてくれる?」


 笑っていない目元が気持ち悪いと思いつつ、「あっちの、角を曲がったらすぐの家ですよ」と返す。それでもおじさんはわざとらしく「分かんないなぁ、連れて行ってくれないかい」と惚けて引き下がろうとしなかった。

 得体の知れないものに出会ってしまった予感に少し背筋が寒くなった私は「行けば分かりますよ忙しいから失礼します」と矢継ぎ早に返事をする。


 水がたっぷり入ったバケツを持ち上げようと、いったん足元に目線を落とす。そして、また頭を上げたとき視界に映ったのは、私の首元に添えられた鈍く光る刃物だった。

 驚いて声も上げられない隙に、物陰から出てきたもう一人のおじさんに口を塞がれ、体を押さえられ、見えない位置に止めてあった馬車の荷台に無理やり乗せられると、彼らは急いで村を発った。

 目つけてた子や、高く売れるでぇ

 この子も運が悪いなぁ〜ハハハ

 嬉しそうな汚い笑い声が聞こえる中、抵抗するために暴れた私は、おじさんに首を圧迫され、息ができなくなり、気を失っていた。



 目覚めた時、荷台の格子越しに見えた空はすでに真夜中だった。どれくらい時間が経ったんだろう。夜になってすっかり冷えた空気に気遣ってくれたのか薄い毛布がかけられている。それでも荷車には冷たい隙間風が吹き付けて、私の体温を奪っていった。

 荷台の中に見張りはいない。もごもごと口を動かして猿ぐつわをずらすと、足りない空気を補うために何度も大きく息を吸って吐きいた。落ち着いて、人さらいにあったんだと状況を理解した私は、泣きたい気持ちを抑え、手首の縄をほどくために必死にもがく。両手をひねって、皮膚が擦れて傷付く痛みに耐えるために歯を食いしばった。

 でも、どうしても外れない。狭い荷台に役立ちそうなものがないか探したけど、めぼしいものは無い。無慈悲にも、虫みたいにもがく間も、馬車は山道を進んでいく。

 荒れた道を選んでいるのか乗り心地は最悪だった。きっとすでに地元の山からは相当離れているだろう、凸凹道を馬に走らせているせいで、私はすでに何度も体が宙に浮くような感覚を味わっている。


 人さらいだとしたら、私は売られるんだろうか? 私だってもう十六歳だから、年頃の女の子が売られたらどんな扱いをされるかなんて大体想像がつく。


 そんなのは嫌だ、絶対に家に帰りたい。


 しばらくすると馬車は止まり、おじさんが様子を見に来た。扉から見えた景色はまだ田舎で、もう少しで山に入る平野みたいだ。差し入れの水を飲むと、トイレだと言われて外に出された。

 寒空の下で縄を腰に結び直されてから茂みに連れていかれる。早くしろと促されてしゃがんだ私は隙を見て、傍に転がっていた尖った石を、口の中に隠した。

 荷馬車に戻される前におじさんたちを観察する。二人組で、手綱を持って待っていた方は眠そうにあくびをしていた。どう見ても小娘の私を完全に舐め切っているみたいなので隙をつけば逃げられるかもしれないけれど、「朝まで走ったら引き渡しやからしっかりしろ」と声を掛け合っていたのが聞こえてぞっとした、ちんたらしていられないと思った。


 荷馬車に戻ると、さっきの石を吐き出した。時間はかかったけど手首と足の縄を擦り切り、鍵があったはずの位置へ格子の隙間から手を伸ばす。でも、手が届かなくて作戦は失敗に終わった。

 馬車はまた山に入り、傾斜のある道を進んでいた。ガタガタと荷台が大きく揺れて酔いそうになる。けれど、おじさんたちの何でもない会話を盗み聞きながら「もう逃げられないかもしれない」と絶望し、泣きそうになりながら覚悟を決めた瞬間、馬の大きな嘶きとともに馬車が急停止した。

 急停止した反動で私の体はボールみたいに跳ねて勢いで壁に顔からぶつかった。特に強くぶつけた鼻を触ると鼻血がぽたぽたと滴り、勘弁してよという怒りと痛みで泣きそうになる。そのまま鼻を押さえて、痛みに悶えていた時だった。


「お前、後ろの子の様子見てきぃや!俺馬見るから!あーあ鹿なんかにびびんなや、どうどう、あーいい子いい子」

「いってぇー! 舌噛んだ」


 おじさんたちの慌てる会話が聞こえて、片方が私の様子を見に荷馬車へと来たのだ。

 ガチャガチャと鍵を開ける音を聞きながら、私はまだ縄に巻かれているフリをして急いで再び床に寝転がった。同時におじさんが扉を開けて入ってくる。ぎりぎり間に合った事に内心ほっとした。


「おーい、生きとんか」


 二百センチ。ぎぃと軋む音を立てながら荷馬車の扉が開く。


 私はわざとらしく「うぅ」と痛がる演技をした。おじさんは広くはない台車の中へしゃがんだ体勢で入ってきて、ランプで照らしながら私の顔を覗く。


「うわうわぁ鼻血出てるやん。困るわお前商品なんやから」


 百五十センチ。私からも、髭面の悪人顔が明かりで照らされて、色の薄い目の瞳孔が光で小さくなるのもはっきりと見える。

 百センチ。商品がダメになっちまったと言いたげに困り顔でハンカチを取りだしながら、おじさんはもう一歩近付く。

 五十センチ。


「かわいそうに、嬢ちゃん別嬪なのになぁ。鼻血止めたるから、顔、こっち向けてや」


 三十センチにも満たない距離までおじさんが近付いてくれたので、私は十六年の人生の中で一番の力と勇気を出し、おじさんの顎目掛けて、全力で頭突きをした。



 待て、逃げんななどの怒鳴り声が聞こえるのを無視して私は走り続けた。山育ちの私にとって山の中を駆ける事は何でもないけれど、地の利のない山奥で刃物を持ったおじさんと終わりのない鬼ごっこをするとなると話は別だ。先手を打ったおかげである程度距離は稼げたはずだけど余裕なんて持てなかった。

 とにかく遠くへ遠くへと、がむしゃらに走った。跳ね上がる心臓が痛くても気力だけで私は全速力で走り続けた。

 けれど、先に開けた場所に出た私は思わず足を止める。無計画に走ったせいで飛び出てしまったのは、地面が途中で途絶えて、真下も見えない断崖絶壁の崖の上だったのだ。


「ど、どうしょ」


 明るい満月に照らされているのに真下の様子が伺えない。高さがわからなきゃ、飛び降りる勇気も出ない。

 怒鳴り声はだんだん大きくなってくる。捕まった後の恐ろしい仕打ちを想像して恐ろしさに震えながらうろたえていると、何かが足に引っかかって転びそうになった。


「何?」 


 私の足にぶつかったのは、水をたっぷりと吸い込んだ苔だらけの小さな丸太だ。妙案が浮かんだ私は急いでそれを崖から転がり落とすと、茂みの奥に生えた大きな木をリスみたいに一気に天辺まで登り切った。その間に丸太は崖の土や木を巻き込んで、大きな音を轟かせながら落ちていく。十秒も立たないうちに、どぼんという鈍い水音があたり一面に響いた。


「――お、おいおい、おいおいおい。待ってや、あっ、あの子まさか飛び降りたんちゃうの?」


 丸太の残響がする崖にやっと辿り着いたおじさんたちが、息を切らしながら崖の下を覗いていた。一方の私は木が不自然に揺れない様に息を殺してじっとする。心臓が破裂しそうなくらいバクバクと音を立てていて痛い。

 風が葉をざぁざぁと揺らしたから、まるで森自体が吠えているみたいだった。最初は崖を降りようとしていたおじさんたちも私の自殺疑惑と、森独特の不気味な雰囲気に惑わされて、弱気になっていったのだろう。わかりやすくうろたえ始めて、お互いを責めるような口調に変わっていき、言葉が荒くなっていく。


「どないすんねん、お前のせいやぞ!」

「こ、この高さじゃ助からんやろ~。絶対、もう死んでるわ。俺のせいちゃう!」

「お前がしっかり見張ってへんからやろが、ボケが! ほんま仕事できんやつやな!」

「そ、そんなん言うてもまさか頭突きしてくるなんて思わへんやんやろ! 俺まだ鼻血出てるねんで!」

「うっさい! ボケ! ……あーあ、せっかくめんこい子やったのにもったいな。成仏してやぁ。逆恨みすんなよ」


 震えた声でお経を呟くと背中を丸めて足早に馬車のある道へと帰っていった。

 私は、絶対に戻ってこないという確証ができるくらいの時間を木上で過ごしてから、ゆっくりと地面へと降りる。豊かな森で肥えた土はざらざらしてるし、ふかふかもしている。母なる大地の感触を靴越しに味わうと、無事に逃げられた事を実感できた。


「……助かった」


 雲の裂け目から差し込む月明りで輝く森の中。木にもたれかかり、そのまま倒れた。



 虫も鳴かない夜の寒さに耐えながら独りで朝を迎えた。水汲みの為に外出したから外套なんてものは無い。体が弱い子なら寒さで死んでいたと思う。無理をしてでも毛布を盗んでくるべきだった。泥と鼻血で汚れた服を早く着替えたくて仕方がなかった。

 朝日に照らされた崖から周囲の地形を確認すると、地元の村から相当離れている事は予想できる。知らない山と、知らない川に、遠くの方に知らない大きな道があるのが見えたからだ。


「あっち行きゃあ助けてもらえるんかな」


 普通の遭難なら動かないでじっとしておくけど、こんなところに誰も探しになんてこないだろうから私が麓に降りるしかない。

 道沿いに歩けば人に会えるはず、保護してもらえれば家に帰れるはずと自分に言い聞かせ、崖の上から見えた川を目指して道の無い山を下った。

 けれども、歩いても歩いても、森から抜け出る事も川を見つける事もできなくて、結局また夜になった。

 のどが渇いて水たまりの水を飲んだ。

 途中で自生の果実を食べた。だけどお腹は満たせなくて力が出なかった。この日も木の根っこを枕にして、寒さに文句を言いながら眠った。

 太陽が昇ったと同時に山の中を何時間も歩いた。この日も何も見つけられなかった。

 さらに翌日、へとへとになりながら歩いていると、途中で鹿らしき大きな動物が作ったと思われるけもの道を見つけた。ふらりと、そっちの方へ行ってみる。神秘的なほどに透き通る綺麗な水が湧いている泉を見つけた。

 私は思わず飛びついて冷たい水を飲んだ。たくさんの水でお腹がチャプチャプになるまで飲んだ後、ついに自身に降りかかった不幸に耐えられなくなって、気付けば声を上げて泣いていた。

 私が何したって言うの。ふざけないでよ。

 誰も聞いていない森の中で絶叫すると、驚いた鳥が数羽飛び立った。

 思う存分怒鳴り散らして泣き終わると、まだ昼なのに猛烈な眠気に襲われた。当たり前だ、四日もまともな食事と睡眠を取れていないのだから。ここには清潔な水もあるし、今後のためにもここで明日の朝まで休もうと思った。

 お父さんは、水さえあれば生き延びれると言っていた。父のありがたい言葉を思い出しつつ、顔を洗い、服を脱いで泥だらけだった体と足も洗うと、汗と汚れが取れただけなのに随分さっぱりした。

 さっきまで泣いていた癖に少しだけ気分がよくなった私は、上機嫌で上着と靴を脱ぎ、日陰で横になる。うつらうつらする目に、泉に集まる野生動物が映った。きれいな毛並みの鹿が数頭、泉に集まって水を飲んでいる。


「……せめてナイフがありゃあ捕まえて食べれたのになぁ」


 自力で鹿なんて獲った事ないけど、タレで濃いめに味付けしたジビエの焼肉を思い浮かべた。 ……あぁ、脂が乗ったお肉をお腹いっぱい食べたい…。妄想の世界でごちそうを食べている間に、死にかけてる人間の存在を無視してたくさんの動物が泉で水を飲みだした。水鳥も何羽か浮いて、魚を捕まえては食べている。

 魚なら手掴みで捕まえられる。鹿を狩るよりは現実的だ。いやでも、川魚は火を通さんと寄生虫が怖いなぁ。ぼんやりそんな事を考えていたら突然、ザッと音が鳴り響く。

 何事かと思って体を起こしたら、動物達が四方八方へと逃げる様に一斉に散っていった音だったらしい。さっきまで透き通るほど美しく静かだった泉が、今は赤く染まって大きく波打っていた。

 波の中心には先ほどまで生きていた水鳥を咥えた野犬が、森の王の様に堂々と振舞っている。

 そして、暴れる鳥の息の根を止めながら私の方をじっと見ていた。

 おいしそうな人間だ、食べちゃうぞぉ、とでも思っているんだろうか。目が爛々としている気がする。

 でもあの犬は鳥を食べるんだから私に興味は持たないはずだ。私はゆっくり立ち上がり、少しずつ後ずさると、野犬はこっちから目を逸らして動かなくなった鳥を食べ始めた。

 あぁよかった、良い子だからそのまま鳥にだけ集中してね。

 私はこの場を立ち去ろうと反対方角を見た。

 そっちには別の野犬がいた。

 涎の量を見るにこっちの犬は間違いなく、おいしそうな人間だ、食べちゃうぞぉ、と考えているに違いない。爛々を越えて目がギンギンしている。


「こ、こっち、きききき、来たら、おっ、怒るけぇ!」


 私は足元の石を慌てて数個拾い上げて構えた。山に怖いものはたくさんあるけど野犬も怖いと父にはきつく言われてきている。腹を空かせた犬は人間でも構わず襲い掛かるから、見かけても絶対に近付かないようにと子供のころから兄妹揃って何度も脅されていた。

 野犬は私の事情なんて知らぬ顔でこっちを睨み続けているが、頼むからそのまま興味をなくしてどこかに行けと強く祈った。けれども私は自分が思っているよりも肝が小さかったみたいで、野犬ががるると唸った瞬間に、驚いた私は反射的に石を投げつけてしまった。

 投石に怒った犬は大きく吠えながらじろりじろりと私に近付く。頭が真っ白になった私はつい背を向けて泉の方へと走った。それは泉を泳げば逃げられると考えたからだったけど、泉は思ったより浅くて、膝くらいの深さしかない。

 すぐにこっちを選んだ事を後悔した。木に登った方がよかったかもしれない、そうすれば犬は登ってこれなかったのに。

 後悔しながら泉の奥へと走り続けた。犬は仲間でも呼ぶつもりなのか遠吠えをしてから、ゆっくり私の後を追ってくる。


 あぁ、もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! 人さらいにあったのも、十六年しか生きていないのに犬に食われて死ぬのだって嫌だ!


 何で私がこんな目に合わなきゃいけないの? 不用心に一人で井戸に行ったのが悪かったの? 水汲みなんて兄達が戻ってくるまで待てば良かったのかな? いや、朝に水がめにたっぷり水が入っているかちゃんと確認しなかったのが悪かったのかな?

 ご飯なんて鍋じゃなくて炒め物にでもすればよかった。時間通りにご飯が準備できなくたって誰も怒りやしないのに、真面目に働いてきたのに、まるで罰を受けてる気分だ。こんなところで死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! ……死にたくない。

 今さらどうにもできない後悔ばかりが脳裏をめぐる。裸足のままだった足に尖った石が突き刺さったけど、痛みにかまっている余裕なんてなかった。


「来んな馬鹿犬が!」


 背を向けながら叫ぶ。こんなの犬を刺激するだけで何の意味もないって分かってる。何もかも投げ出したい。誰か助けてほしい、痛いのなんて嫌だ。さっきの鳥みたいに噛まれたくない。

 死にたくない。食べられたくなんてない。


「誰か助けて!」


 精いっぱいの叫び声をあげたら足がもつれて水飛沫をあげながら派手に転んだ。

 水しぶきを体中に浴びながら絶望した。きっと私はふくらはぎからバクっと噛まれて食べられちゃうんだ。

 こんな最期なんて酷すぎる。この世に神様はいなんだ。

 そう思いながら犬の方を振り向いた瞬間、シュッと風を切るような音が目の前をよぎった。

 キャンと野犬が高い鳴き声をあげた直後に「伏せろ!」という声がした。二度目の風を切る音が伏せた私の頭の真横を通り過ぎながら野犬の心臓を貫き、野犬はそのまま静かに絶命した。

 何が起こったのかよく分からなかった。

 泉に静寂が戻って、やっと誰かが助けてくれたんだと分かった。

 こんな山奥に誰かがいるなんて信じられない。けれど、野犬の胸に刺さった立派な矢羽根こそが証拠だ。

 誰かが助けてくれたんだ。生きている事が嬉しくて、心の底から安心した私は力が一気に抜ける。その場に水飛沫をあげて座り込んだ。


「大丈夫ですか?」


 遠くから低い声が聞こえた。


「……痛っ!」


 ただ、座った拍子に飛んできた水に砂が入っていたのか、目が痛くて目が開かない。

必死に目を開こうとして擦っている最中もその声は近付いてきた。


「目擦ったらだめだよ。怪我はない?」


 茂みの向こうから出てきたその人は、何かを置く物音をさせたあと、ざぶざぶと泉に入って歩いていた。こっちに向かってきてくれいるはずなのに、視界を取り戻せない私はまだきちんと返事ができていない。


「……えっと、言葉通じてる? 外国人?」


 そして「困ったな」と言いたげな声色で問いかけてくるから、はっとしてコクコクと頷いたあと、「だ! だだだだ大丈夫、です」と急いで返事をした。声が裏返ってしまって恥ずかしく思っていたら、ごみが取れてやっとまともな視界を取り戻した。


 まず足元が見えた。

 革製のブーツにすらっと長くて細い脚。力強い歩き方で若い男の人なのが分かる。立派な小刀が腰にぶら下がっていた。

 恩人の顔を見ようとして視線を上げようとした時、目の前に来た彼は私の顔の位置までしゃがんだ。だから、地べたに座ったままの私にも、その人の顔がよく見えた。

 太陽に照らされた麦の穂みたいな金髪が木洩れ日できらきら輝いている。切れ長の奥の瞳は宝石みたいな輝きを持つ深い紫だ。

 見た事ないくらい整った顔立ちと、透き通るほど白い肌は、美人画の女の人にもよく似ている。


「大丈夫? 立てますか?」


 まるでおとぎ話から抜け出てきたような完璧な男の人が私に話しかけていた。

 目の前の彼は、私を観察するみたいにじっと見てくる。まるで珍しいものを見つけたような目つきだ。数秒間目が合うと、私は綺麗な男の人にじっと見られている事が急に恥ずかしくなって思わず顔を逸らしてしまう。


「あの、えと、だ、へ、平気。ありがとぉございます」


 そして無意識に乱れた髪を整えた。




 こんな綺麗な顔立ちの人の力を借りるわけにはいかない。惚れてしまう。

 自力で立ち上がろうとしたけど腰が抜けて何度もその場で転んでしまう私に見かねた彼は「すみません」と断ってから横抱きで持ち上げて泉から出してくれた。初対面の男性に、生まれて初めてこんな形で抱っこされた事が恥ずかしくって仕方がない。太ってないはずだけど重いと思われていないか心配だ。

 岸に上がってから彼が指笛を吹くと、茂みの奥の方から青い毛並みの馬がぴょこっと顔を出した。馬の顔や首を撫でてやってから荷物を下ろすと、タオルを取り出して渡してくれる。

「びしょびしょだからまず拭いた方が良いですよ。俺、あっち向いてるから」

 ……確かに。泉の中でこけた私は全身ずぶぬれである。後ろを向いているのを確認してから血の付いた不潔な服を脱いで、絞って、乾いたタオルで体も拭いて、もう一度着た。

 もう大丈夫ですというと彼は振り返ったけど、多分ボロボロの私を見て同情してくれたのだろう。彼が着ていた高級そうな上着を貸してくれた。

 パンと革の水筒を渡してくれたので、空腹だった私はそれをすぐに口にした。塩味しかついてない小麦の味に、ほっとして自然と涙が出てくる。人前で泣くなんて恥ずかしいと我慢しながら、パンを胃に押し込むみたいに食べた。


「ほんまにありがとぉございました。今すぐは無理じゃけど、絶対お礼します」


 落ち着いたのを見計らってから彼が「大丈夫?」と話しかけてくれたので、私は改めてお礼を言った。


「……ずいぶん遠くから来たんだね? 別に、当たり前の事をしただけなんでお礼とかはいいよ。それより、どうしてこんなところにいるんですか? 近くなら送っていくけど」


 優しい人なのか、男らしい声なのに威圧感を全く感じない。男が嫌いになりそうだった私も安心して話す事ができた。


「……人さらいにおうて、山ん中で逃げたんじゃけど、ずっと山の中さまよってて、今どこにおるんかも全然分らんくて、犬にも食われそうなってぇ……」

「人さらい⁉ よく逃げたね」

「へへ……。あ、えっと、家は、トルトゥーガっていう村じゃけど……」

「トルトゥーガはごめんね、聞いた事ないや。何県?」


 会話の途中で抑揚の付け方が私と何か違うと気付いた。この人の話し方はなんか、丁寧というか、上品というか、癖のない話し方な気がした。私は話し方が変わるほど遠くへ来てしまったんだろうか?

 それに、金髪の人なんて地元の村では見た事がない。麓に降りた先にならいるだろうけど、そもそも私は村からほとんど出た事がないので知り合いは村人しかいない。だから、こんなに綺麗なな髪色の人がいる事に密かに驚いていた。


「……えっと、ケローネ、です」


 自分の出身地を言うだけで緊張してしまう。よく知らない人とどういう風に話せばいいのか分からない。


「ケローネ? そんなんめちゃくちゃ遠いじゃん。六、七十キロ近く離れてるはずですよ」

「……えっ⁉」


 想定以上の距離に舌を噛みそうになった。


「正確な距離は分かんないけどそれくらいですね」


 隣の隣だからね、と彼は付け咥える。


「どっ……どうしょお、井戸に水汲みに行っただけなんに、知らん人に無理やり荷馬車に乗せられて、お母さんきっと心配しとる、帰らにゃあ、父さんだって、お兄ちゃん達だって、」

「落ち着いて? 今すぐは無理。足見てごらんよ」


 不安で押しつぶされそうな私をよそに、彼は綺麗な流し目で私の足を見た。痛々しいものを見るかの様な表情に嫌な予感がする。


「……⁉」


 視線を向けると、普段は馬鹿にされるくらい痩せているはずの私の右足首が、見た事がないくらいぱんぱんに腫れあがっていた。


「バイ菌でも入ったのかな。ちょっと動かすね。痛い?」

「い、痛ったっ⁉ 痛痛痛痛痛痛ッ!」


 さっきまで何も感じていなかったくせに熱を持った痛みが急に襲い掛かってくる。彼は私の足を適当に動かして怪我の様子を伺っているけど、動かされるたびに激痛が走った。


「足の指自分で動かせる?」

「い、一応、いて、いてててててて、いてぇんよ止めんせぇ……」

「動くなら神経は大丈夫か。でもこんなに痛がるなら折れてんのかなぁ……。ちょっと動かさないで。簡単に治療するから」


 足に添え木と清潔な布を巻いてもらうと、私たちはひとまず彼の家に向かう事になった。



 まともに立ち上がれもしないので、手伝ってもらいながら馬に跨った。馬には普段から乗るから乗馬自体には慣れているけど、足も痛いし、体力も落ちていてとてもじゃないけど普段の調子が出せそうにない。それが分かっているのか、この青毛の馬は私を揺らさないようにじっとしてくれている。感謝を込めて鬣を撫でた。


「そういえば名前は?」


 片足をあぶみに乗せながら彼は私の顔を見て訊ねた。お互い名前を伝える事を忘れたまま一時間近く話をしていたらしい。流石に、今更だなぁと感じると、緊張していた顔が一気にほころんでしまった。だって私は出身村と人さらいにあった事まで話しているのに、自己紹介で一番大切な情報を言うのも、彼から聞くのも忘れていたのだ。ちょっとお互い抜けてる。


「ブルーズです。ブルーズ・グイです」

「ブルーズさん。俺は、ハル。ハル・ユリウスです。よろしくね」


 親が子供を乗せるみたいに、ハルさんが私を後ろから支えながら小一時間ほどの道中、当たり障りのない話をいくつかした。



 ハルさんは今日は狩りのために森を訪れたそうだ。けれど、道中で聞こえた犬の鳴き声が気になって、近付いたら人が襲われていてびっくりしつつ助けてくれたらしい。話の途中では、「許嫁とちょっと色々合わないんだよね」とボヤいていた。

 村では男の子となるべく話さないようにしてるから、同い年くらいの男の人と何を話せばいいのか分からない。許嫁がいる事に残念な気持ちを覚えつつ、私も当たり障りのない事を話した。ハルさんが結婚の話をしたから、

「私は、許嫁はいないけど、相手は父が探していると思います」とも話した。



 しばらくして辿り着いたハルさんの住む街は、うちの貧乏くさい村とは違って、家屋が多くて、道が綺麗な石で舗装された歩きやすくて都会的な場所だった。うちの村なんて三人すれ違えばいい方なのに、ここでは人がひっきりなしに歩いている事に驚きが隠せないまま、ハルさんの家に着く。すると、彼の両親が驚いた顔をしながらも私の心配をしてくれた上に、鼻水を垂らしながら私のついてない話に同情してくれて、あったかいお風呂に入れてくれた。最近輿入れしたというハルさんの妹が置いていった服に着替えたら、いつの間にか居間で待機していたお医者様に治療までしてもらった。足は折れてはいないけど絶対安静だとくぎを刺される。

 数時間前からは考えられないほどの厚遇に体が驚いているのがわかる。しゃんとしようと気を張っていたけど、三日ぶりのまともな食事を取っている途中、私は何度も船を漕いだ。

 本当はハルさんと一緒にこれからの事を話すつもりだった。けれど強烈な眠気には抗えない。

 先に休ませてもらう事にした私は、他人の家の布団の中でだけど、無事に取り戻す事ができた平穏を神様に深く感謝してお祈りをして、そして、ハルさんと交わした約束を振り返りながら深い眠りについた。


 私はちゃんと、ハルさんのお嫁さんになれるだろうか、と思いながら。

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