神官長からのお願いは、唐突なものだった。
「スラム街への慰問を考えております。そのために、魔剣トーリス殿の助力を乞いたいのです」
内々の相談とのことで呼び出された彼の執務室にて、そう頼まれたのだ。エシュニーはポカン、と呆ける。
ちなみにギャランとトーリスは、執務室の入り口に控えていた。
「……何故、急に慰問を思い付かれたのですか?」
とりあえず、そう尋ねる。
禿げあがった頭を撫で、神官長は弱々しく笑った。
「慰問自体は、以前から行いたいと考えておりました。ですが……恥ずかしながら、あの地区への恐怖心のため、二の足を踏んでいた次第です」
たしかに危険地帯だ。旅行者も決して訪れないと聞く。
ここで言葉を切り、もじもじする彼に代わって、エシュニーが言葉を継いだ。
「そこに魔剣が登場した。彼を盾にして慰問を行いたい、ということでしょうか?」
「……その通りです」
いつになくトゲのある聖女の言葉に、うなだれつつも神官長は肯定した。
――魔剣なら、危険な目に遭ってもいいっていうわけ?
エシュニーはむかっ腹で、そうまくし立てそうになる。が、寸前でこらえた。
魔剣の武力は一騎当千。神官長の考えは、何らおかしいものではない。またスラムへの慰問も、いつかは行わなくてはならないだろう、と神殿内でも度々議論されていた。
ただエシュニーは、トーリス個人への情を持ってしまっている。彼だけホイホイ差し出すことは、よしと思えなかった。
となれば、彼女が取る手段は一つ。
「でしたら私からも、お願いがございます。その慰問へ、私も同行させてください」
この申し出に、神官長が泡を食う。
「そっ……それは、なりません! あそこは地元住民も近づかない、危険地区なのですよ!」
「そんな危険地区に、教育を任されている、魔剣だけを派遣させるわけにはいきません。彼の教育係として、友として、そしてこの地の聖女として、私も帯同いたします。それが、彼の派遣を許可する、たった一つの条件です」
折れるわけにはいかない、とやや早口でそうまくし立てる。
平素にない鋭い眼差しでそう突き付けられ、元来気の弱い神官長はとうとう言い返せず、
「……聖女殿が、そう望まれるのであれば」
がくり、と頭を下げるのであった。
しかしこれに反発したのが、食事の席で慰問の事実を知った使用人トリオであった。
「あのハゲ親父……なんでもホイホイ許しやがって……」
鶏の香草揚げ焼きをぽとり、と皿に落として、ギャランがうなる。
「お嬢……トーリスが心配な気持ちは分かりますがね、そりゃ危険すぎますぜ」
そして剣呑な目で、無鉄砲な主を見つめた。
「そのことは分かっています。ですが、神殿としても聖女が出向いた方が、話題にもなります。悪いことばかりではないと思うのです」
「そりゃそうですが……でも、あんたに何かあったら、俺らは旦那様に顔向けできません!」
いつになく、ギャランの声は真剣みを帯びていた。根っこは優しい彼の手に、エシュニーは自分のものを重ねる。
「大丈夫ですよ。だってギャランとトーリスなら、鉄壁の守りでしょう? きっと、これは好機でもあるはずです」
サルドとひそひそ話をしていたトーリスが、珍しい困惑顔を向けた。彼から、スラムの意味を聞いていたようだ。
「エシュニーは何故、危険な場所へ行くんだ?」
「トーリス一人を行かせたくないから、ですよ。だって友達ですもの」
「僕は魔剣だ。慣れている」
慣れている──その響きが、エシュニーをどれだけ悲しませるのかを、トーリスは知らない。
「……分かっています。けれど、それでは私が嫌なのです。それにスラムは、危険地帯である一方、町で一番貧しい場所でもあります。そこを無視し続けることは、たとえ神が許したとしても、聖女失格なのだと思うのです」
真剣な光を灯したアメジストの瞳が、ガーネットに似た深紅の瞳を正面から見据える。
「トーリス、協力してくれますか?」
反対しろ!と、使用人トリオの視線がトーリスに注がれる。
彼はトリオを見渡し、そしてもう一度エシュニーを見つめ、
「僕は聖女のエシュニーもすごいと思っている。協力する」
途端、ギャランたちが脱力した。テーブルに突っ伏す。
「あーあ……やっぱりか……」
うなだれる彼の広い肩を、隣のモリーが慰めるように叩いた。
「トーリス君は、ママ思いですからねぇ……」
腕にあごを乗せ、情けなくサルドが微笑む。
「それに、お二人の信頼関係が強固、と分かったことは素晴らしいことですよ」
しかし彼らも、エシュニーに仕えて長い。それこそ、彼女が悪鬼のごとき悪ガキだった頃から知っているのだ。
ややあって、ギャランがジョッキのビールを飲み干し、ええいと叫んだ。
「お嬢が聖女の自覚を、ようやく持ってくれたんだ! 俺も、一肌脱いでやらぁ!」
彼の一声に、モリーとサルドも顔を見合わせてうなずく。
「やっとお嬢様が目覚めたんですから。私たちも、慰問の成功を祈りましょう!」
「そうですね。ようやく聖女らしくなられた、お嬢様とお二方のため、ご馳走を作ってお待ちしておりますので。必ず、皆さま無傷で帰って来て下さいね」
彼らの協力と応援に、エシュニーはじわり、と心の奥が温かくなった。
自分は使用人に恵まれている──などと一瞬思ったが、それよりも先に言うべきことがある。
眼前のテーブルに手を叩きつけ、エシュニーは彼らをねめつけた。
「聖女の自覚は元々持ってる。人のこと、なんだと思ってるんだ」
聖女らしからぬ、そのじっとりねちっこい眼光に、使用人たちがテヘ、とはにかんだ。