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8:聖女はまだ殺してない

 先述の通り、ギャランの妻であるラルカは単身、町にある屋敷で暮らしている。

 別居中と言われればそれまでなのだが、ギャランは案外愛妻家であり、暇を見つけては奥方のいる屋敷に戻っているのだ。


「休日はお昼から見かけないでしょう? ああして、家に戻っているんですよ」

「気付かなかった」

 トーリスは目をぱちくりさせている。

「一緒に仕事をしているのですから、気付きましょうね」

 鋭いのか抜けているのか、案外読めない。魔剣とは皆、こういう性格なのだろうか。


 だとしたら、こんな連中に国の命運を握られていたと思うと……ちょっと泣けて来た。

「どうしたエシュニー。痛いのか?」

「いえ、痛いというか情けないというか……とにかく大丈夫ですので、お気になさらず」

 こちらを窺うトーリスを受け流して目尻を拭いつつ、エシュニーは別館の応接室へ入る。


 赤毛の妖艶な女性が、モリーと談笑していた。

 と、エシュニーに気付いてにっこり振り返る。

「お嬢様、お元気そうで何よりです」

「いらっしゃい、ラルカ」

 柔らかな抱擁ほうようを交わし、彼女を歓迎する。


 ラルカはエシュニーの使用人ではない。ただ、時折こうやって神殿を訪れては、外界と遮断された状態にあるエシュニーへ、社交界の情勢を教えてくれる、貴重な話し相手なのだ。

 それもこれも、ギャランとラルカの厚意によってもたらされている交流である。


 彼女から体を離し、エシュニーはにこりと笑いかけた。

「知っていると思うけれど、新しく来た子がいるの」

「ギャランから聞いていますよ。お嬢様の後ろにいらっしゃる、恐ろしく綺麗な男の子でしょう?」

「ええ、トーリスです。トーリス、彼女が話していたラルカで──トーリス?」

 なんとトーリスの視線が、ラルカの豊満な胸に釘付けだった。


(むっつりスケベか、お前!)

「……トーリス。あまりに不躾ぶしつけすぎます。女性の体を、じろじろ見ないの」

「すまない」

 じっとり言うと、すぐに顔が持ち上げられた。しかし、その顔は珍しく無表情を崩していた。

 眉間にしわを作った彼は、たしかに困惑の表情を浮かべていた。


 おおっ、と物珍しいものに、ラルカを除く一同が色めき立つ。

 それを無視して、トーリスはエシュニーを見た。

「エシュニー」

「どうしました?」

「ラルカは、エシュニーとモリーより出っ張っている。胸には個人差がある?」

「うるさい、ほっとけ!」

 無自覚に痛いところを突かれ、たちまち涙目になった胸ないコンビが叫んだ。


「それ、絶対他の人に言っちゃだめだからな! 殺されても仕方ないんだからな!」

「分かった、言わない」

 涙目のエシュニーに詰め寄られ、トーリスは何度も何度もうなずいた。

 あらあら、とその様子を眺めてラルカは艶然えんぜんと微笑む。


「すっかり仲良しなんですね、お嬢様」

「仲良しと言いますか……この子が魔剣の噂の、斜め下をくぐって来るものですから、その、つい……」

「そういえば、うちの人もそんなことを言っていましたわ」

 愛妻の視線を受け、窓際にもたれているギャランが、自身の金髪をかき回す。


「天然ってヤツだろうな。ま、暴れられるより、俺は仕事が楽でいいけどな」

 なんだかんだでトーリスを気に入っているらしい彼に、「トーリスの奴、ギャランがいなくなることに、気付いていなかったぞ」と伝えるべきではないだろう。

 彼の主として、この秘密は墓場まで持って行こうと決意するエシュニーであった。

 控えめな胸に手を添え、うんと彼女がうなずく。


 それと同時に、お盆に山盛りのお菓子を積んだサルドが、ドアをノックして入って来た。

「お茶菓子が出来ましたよ、皆さん」

「サルドったら、相変わらず全力ですね」

 笑ってモリーを見ると、彼女も苦笑しつつ、視線に気づいてうなずく。

「それでは、お茶の準備をいたしますねぇ」

「ええ、お願いします」


 こうして不定期に行われる、ラルカによる下界レクチャーが始まった。

 主な聴衆は、聖女とはいえ貴族の子女でもあるエシュニーと、噂話大好きのモリーである。

 ギャランとサルドは、話半分に聞きつつ、自分の仕事に関係ありそうな話題──たとえば、町のスラム街でまた大きな抗争があった、等だ──にだけくちばしを突っ込むという姿勢でいる。


 トーリスは噂話自体聞き慣れていないのだろう。どこか不思議そうに、一同を眺めている。ただし両手に、サルドの焼き菓子を持って。どうやら甘い物が好きらしい。

 男爵夫人でもあるラルカは、その美貌と気さくな人柄でもって、町の名士とも交流が盛んだ。友人も多い。


「お嬢様、気を付けてくださいね。ゾルナード氏が最近、増長していらっしゃるご様子です。自分は聖女様に御心を向けていただいているから、などとおっしゃって」

「うげぇ……」

 瀕死のカエルのような声で、エシュニーがうめいた。


 初めて聞く名前に、トーリスが身を乗り出す。

「エシュニー。ゾルナードとは誰だ」

「町のお偉いさん……なのですが、色々とめげない方でもあるのです」

 ため息をつく彼女に代わって、モリーが続きを言う。


「お嬢様のことが大好きで、言い寄っているんですよぅ」

「言い寄る?」

「お嬢様の恋人になりたいって、言ってるんです。まったく……いい年して、みっともないったら」

 への字になったモリーも、なかなかどうして彼に困っているようだ。


「ちょっとでも油断したら、すーぐお嬢の手を握ろうとしやがるんだよ」

 エシュニーの護衛担当であるギャランも、うんざり顔で続いた。

 そしてトーリスの胸元をトントンと指でつつき、彼にも注意を促す。

「いいか、覚えとけ。おかっぱ頭のオッサン……あれだ、アリバス司令官ぐらいの年の男だ。見かけたら注意しろ」

「注意。分かった」


 いつも通り素直にうなずき、トーリスはラルカを見やった。

「ラルカは、情報戦を担っているのか」

 平坦な声に不似合な、重々しい響きを伴った言葉に、ふ、とラルカが微笑む。

「言われてみればそうかもね。お茶会や社交界で、情報交換をしたり、牽制けんせいし合ったりしているのよ」

「まさに戦争だ」

「ええそうね。似たようなものかもしれないわ」

 一口お茶を飲んで、息を吐き、彼女はちょっと困ったような表情になる。


「人死にこそ出ないけれど……ちょっとでも間違えると、社会的に抹殺されてしまうものね」

 抹殺という言葉に、トーリスが目を見開いた。

「そんな恐ろしいことをしているのか? ギャランに任せないのか?」

「情報戦は、女の仕事でもあるのよ」

 弧を描く赤い唇は、少し得意げでもあった。


「そうなのか。エシュニーは、社会的に抹殺した人が何人いるんだ?」

「どうして、抹殺した前提なのですか!」

 お作法そっちのけでガチャン、とソーサーにティーカップを載せ、エシュニーは吠えた。

 ドッと、使用人トリオが笑う。ラルカも控えめながら、肩を震わせていた。


 彼女の夫であるギャランなど、腹を抱えてのたうち回っている。

「言ってくれるなぁ、トーリス!」

 ヒーヒー笑いながら、彼は不躾にも主を指さす。

「でもお嬢の場合、実力行使でぶっ殺しちまうから、謀殺ぼうさつの線は薄いぜ!」

「何を自信満々に言っているのですか!」


 とうとう立ち上がって激怒するエシュニーは、半泣きであった。そのまま、トーリスの胸倉を絞め上げる。

「殺しませんからね、トーリス! 殺しませんから!」

「そうなのか?」

「なんで疑問形なんだよ!」

「今、絞められているから」

「……おっと、ごめんなさい」


 パッと手を離した彼女へ、トーリスはうん、とうなずく。

「エシュニーはまだ殺していないと、分かった」

「いえ、未来永劫、殺す予定はありませんから」

 じっとり彼をにらむエシュニーへ、焼き菓子てんこ盛りの皿をサルドが差し出した。


「お嬢様、甘い物でも食べて落ち着かれましょう……ね?」

「うむう……」

 半眼になった彼女はしばし躊躇ちゅうちょした末、フィナンシェをつまみ上げるも、

「言っておきますけどね、サルド。さっき一緒になって笑っていたことを、私は一生忘れませんからね」

毒を吐くことも、欠かさなかった。


 じわり、とサルドの額に嫌な汗がにじむ。そして縦方向に大きな体をちぢこませて、へどもどと言った、

「そ、それは見なかった方向で、何卒なにとぞ……」

「ふんだ。絶対忘れてやるものか。私は深く深く、とても深く傷ついたのです」

 フィナンシェをムシャリとかじって、エシュニーは悪態をついた。


 しかし実のところ、それほど気にしていないのだが。

 せっかくなので、もうしばらくからかってやろう、と心に決めていた。

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