先述の通り、ギャランの妻であるラルカは単身、町にある屋敷で暮らしている。
別居中と言われればそれまでなのだが、ギャランは案外愛妻家であり、暇を見つけては奥方のいる屋敷に戻っているのだ。
「休日はお昼から見かけないでしょう? ああして、家に戻っているんですよ」
「気付かなかった」
トーリスは目をぱちくりさせている。
「一緒に仕事をしているのですから、気付きましょうね」
鋭いのか抜けているのか、案外読めない。魔剣とは皆、こういう性格なのだろうか。
だとしたら、こんな連中に国の命運を握られていたと思うと……ちょっと泣けて来た。
「どうしたエシュニー。痛いのか?」
「いえ、痛いというか情けないというか……とにかく大丈夫ですので、お気になさらず」
こちらを窺うトーリスを受け流して目尻を拭いつつ、エシュニーは別館の応接室へ入る。
赤毛の妖艶な女性が、モリーと談笑していた。
と、エシュニーに気付いてにっこり振り返る。
「お嬢様、お元気そうで何よりです」
「いらっしゃい、ラルカ」
柔らかな
ラルカはエシュニーの使用人ではない。ただ、時折こうやって神殿を訪れては、外界と遮断された状態にあるエシュニーへ、社交界の情勢を教えてくれる、貴重な話し相手なのだ。
それもこれも、ギャランとラルカの厚意によってもたらされている交流である。
彼女から体を離し、エシュニーはにこりと笑いかけた。
「知っていると思うけれど、新しく来た子がいるの」
「ギャランから聞いていますよ。お嬢様の後ろにいらっしゃる、恐ろしく綺麗な男の子でしょう?」
「ええ、トーリスです。トーリス、彼女が話していたラルカで──トーリス?」
なんとトーリスの視線が、ラルカの豊満な胸に釘付けだった。
(むっつりスケベか、お前!)
「……トーリス。あまりに
「すまない」
じっとり言うと、すぐに顔が持ち上げられた。しかし、その顔は珍しく無表情を崩していた。
眉間にしわを作った彼は、たしかに困惑の表情を浮かべていた。
おおっ、と物珍しいものに、ラルカを除く一同が色めき立つ。
それを無視して、トーリスはエシュニーを見た。
「エシュニー」
「どうしました?」
「ラルカは、エシュニーとモリーより出っ張っている。胸には個人差がある?」
「うるさい、ほっとけ!」
無自覚に痛いところを突かれ、たちまち涙目になった胸ないコンビが叫んだ。
「それ、絶対他の人に言っちゃだめだからな! 殺されても仕方ないんだからな!」
「分かった、言わない」
涙目のエシュニーに詰め寄られ、トーリスは何度も何度もうなずいた。
あらあら、とその様子を眺めてラルカは
「すっかり仲良しなんですね、お嬢様」
「仲良しと言いますか……この子が魔剣の噂の、斜め下をくぐって来るものですから、その、つい……」
「そういえば、うちの人もそんなことを言っていましたわ」
愛妻の視線を受け、窓際にもたれているギャランが、自身の金髪をかき回す。
「天然ってヤツだろうな。ま、暴れられるより、俺は仕事が楽でいいけどな」
なんだかんだでトーリスを気に入っているらしい彼に、「トーリスの奴、ギャランがいなくなることに、気付いていなかったぞ」と伝えるべきではないだろう。
彼の主として、この秘密は墓場まで持って行こうと決意するエシュニーであった。
控えめな胸に手を添え、うんと彼女がうなずく。
それと同時に、お盆に山盛りのお菓子を積んだサルドが、ドアをノックして入って来た。
「お茶菓子が出来ましたよ、皆さん」
「サルドったら、相変わらず全力ですね」
笑ってモリーを見ると、彼女も苦笑しつつ、視線に気づいてうなずく。
「それでは、お茶の準備をいたしますねぇ」
「ええ、お願いします」
こうして不定期に行われる、ラルカによる下界レクチャーが始まった。
主な聴衆は、聖女とはいえ貴族の子女でもあるエシュニーと、噂話大好きのモリーである。
ギャランとサルドは、話半分に聞きつつ、自分の仕事に関係ありそうな話題──たとえば、町のスラム街でまた大きな抗争があった、等だ──にだけくちばしを突っ込むという姿勢でいる。
トーリスは噂話自体聞き慣れていないのだろう。どこか不思議そうに、一同を眺めている。ただし両手に、サルドの焼き菓子を持って。どうやら甘い物が好きらしい。
男爵夫人でもあるラルカは、その美貌と気さくな人柄でもって、町の名士とも交流が盛んだ。友人も多い。
「お嬢様、気を付けてくださいね。ゾルナード氏が最近、増長していらっしゃるご様子です。自分は聖女様に御心を向けていただいているから、などとおっしゃって」
「うげぇ……」
瀕死のカエルのような声で、エシュニーがうめいた。
初めて聞く名前に、トーリスが身を乗り出す。
「エシュニー。ゾルナードとは誰だ」
「町のお偉いさん……なのですが、色々とめげない方でもあるのです」
ため息をつく彼女に代わって、モリーが続きを言う。
「お嬢様のことが大好きで、言い寄っているんですよぅ」
「言い寄る?」
「お嬢様の恋人になりたいって、言ってるんです。まったく……いい年して、みっともないったら」
への字になったモリーも、なかなかどうして彼に困っているようだ。
「ちょっとでも油断したら、すーぐお嬢の手を握ろうとしやがるんだよ」
エシュニーの護衛担当であるギャランも、うんざり顔で続いた。
そしてトーリスの胸元をトントンと指でつつき、彼にも注意を促す。
「いいか、覚えとけ。おかっぱ頭のオッサン……あれだ、アリバス司令官ぐらいの年の男だ。見かけたら注意しろ」
「注意。分かった」
いつも通り素直にうなずき、トーリスはラルカを見やった。
「ラルカは、情報戦を担っているのか」
平坦な声に不似合な、重々しい響きを伴った言葉に、ふ、とラルカが微笑む。
「言われてみればそうかもね。お茶会や社交界で、情報交換をしたり、
「まさに戦争だ」
「ええそうね。似たようなものかもしれないわ」
一口お茶を飲んで、息を吐き、彼女はちょっと困ったような表情になる。
「人死にこそ出ないけれど……ちょっとでも間違えると、社会的に抹殺されてしまうものね」
抹殺という言葉に、トーリスが目を見開いた。
「そんな恐ろしいことをしているのか? ギャランに任せないのか?」
「情報戦は、女の仕事でもあるのよ」
弧を描く赤い唇は、少し得意げでもあった。
「そうなのか。エシュニーは、社会的に抹殺した人が何人いるんだ?」
「どうして、抹殺した前提なのですか!」
お作法そっちのけでガチャン、とソーサーにティーカップを載せ、エシュニーは吠えた。
ドッと、使用人トリオが笑う。ラルカも控えめながら、肩を震わせていた。
彼女の夫であるギャランなど、腹を抱えてのたうち回っている。
「言ってくれるなぁ、トーリス!」
ヒーヒー笑いながら、彼は不躾にも主を指さす。
「でもお嬢の場合、実力行使でぶっ殺しちまうから、
「何を自信満々に言っているのですか!」
とうとう立ち上がって激怒するエシュニーは、半泣きであった。そのまま、トーリスの胸倉を絞め上げる。
「殺しませんからね、トーリス! 殺しませんから!」
「そうなのか?」
「なんで疑問形なんだよ!」
「今、絞められているから」
「……おっと、ごめんなさい」
パッと手を離した彼女へ、トーリスはうん、とうなずく。
「エシュニーはまだ殺していないと、分かった」
「いえ、未来永劫、殺す予定はありませんから」
じっとり彼をにらむエシュニーへ、焼き菓子てんこ盛りの皿をサルドが差し出した。
「お嬢様、甘い物でも食べて落ち着かれましょう……ね?」
「うむう……」
半眼になった彼女はしばし
「言っておきますけどね、サルド。さっき一緒になって笑っていたことを、私は一生忘れませんからね」
毒を吐くことも、欠かさなかった。
じわり、とサルドの額に嫌な汗がにじむ。そして縦方向に大きな体をちぢこませて、へどもどと言った、
「そ、それは見なかった方向で、
「ふんだ。絶対忘れてやるものか。私は深く深く、とても深く傷ついたのです」
フィナンシェをムシャリとかじって、エシュニーは悪態をついた。
しかし実のところ、それほど気にしていないのだが。
せっかくなので、もうしばらくからかってやろう、と心に決めていた。