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4:聖女のマグカップへの熱情

 その後、先日と同じ応接室で二、三の打ち合わせを終えたアリバスは、早々に帰還した。

 トーリスには子煩悩な親馬鹿目線を向けていたが、これでもれっきとした軍の司令官であり、暇人ではないのだ。


「よいか、トーリス。しっかりエシュニー殿の言うことを聞くのだぞ。勝手に虫や蛇を食べてはいけないぞ。それから、きちんと毎日風呂に入るんだぞ」

 それでも、少々不穏な小言を最後までトーリスに向けて、彼は帰路に着いた。


 親代わりの司令官の言葉にも、トーリスは眉一つ動かさず、

「虫と蛇は食べない。風呂に入る。了解した」

淡々と言ってのけ、そして今も、真顔で空高く浮かぶ飛行船を見送っている。

 なまじ綺麗な顔をしているので、無表情ぶりが際立って怖い。


(これと共同生活……やっていけるのだろうか)

 そんな一抹の不安を抱えつつも、エシュニーは弱気をねじ伏せるようにして手を打った。

「さあ、トーリスさん。あなたのお部屋にご案内しますね」

「分かった」

 無感動だが素直ではある。エシュニーにぴったり寄り添うギャランも、警戒心を少し緩める。


 歩き出したエシュニーとギャランに、数歩遅れてトーリスが続く。あちこちに花や香草が植えられている裏庭を歩いて、来た道を戻りながら、エシュニーは彼を振り返った。

「トーリス、とお呼びしてもよろしいですか」

「構わない、エシュニー」


 呼び捨てに呼び捨てで返した彼に、ギャランがむっつりとなる。

「こら、お嬢を呼び捨てに──」

「構いません、ギャラン」

 なにせアリバスにすら、敬語を使っていなかったのだ。仕方がないだろう、とエシュニーは肩をすくめる。


 彼女を窺い、ギャランも諦めたように肩をすくめた。

「ま、俺も人をどうこう言えた義理じゃねぇしな」

「その通りです」

 澄まして答えると、にやり、と彼は笑った。

 かれこれ十五年の付き合いになるが、ギャランのこういうところが、エシュニーは結構気に入っている。


 トーリスの居室は他の三人と同じく、別館の地下にある。

 別館の一階は応接室や食堂、厨房、浴室などを備え、二階にはエシュニーの寝室や書斎、そして客室がある。

 地下への階段を下り、最奥の元空き室の扉を開けた。

 窓こそないものの、洗面台やトイレも備え付けられており、エシュニーの生家の使用人部屋よりも立派な代物だ。


「ここを自由に使ってください。本棚やクローゼットも備え付けのものがあります」

「分かった」

 こくりとうなずいたトーリスであったが、彼の荷物は小さなトランク一つだけであった。

「ずいぶんと荷物が少ないようですが……」

 嫌な予感がしたので、そう尋ねると。


「予備の軍服と、下着は持っている」

 何故か得意げに、そう言い切られた。ふわふわの銀髪を揺らして、エシュニーは首をふりふり。

「それしか持ち合わせていないのですね。歯ブラシは? お気に入りのマグカップは?」

「マグカップは別に要らねぇんじゃないか? ──いてっ」

 揚げ足取りするギャランの脇腹に肘打ちを入れ、黙らせる。


 二人の小競り合いにも動じることなく、トーリスは静かに首を振った。

「ない。軍では必要なかったから」

(マグカップが必要ない……だと?)

「……まさか、軍ではなく刑務所に入っていたのですか?」

「いや、軍だ」

「自由も個性も許されないなら、似たようなものでしょう」

 少なくとも、エシュニーにとってはそうだ。


 彼女の発言に、トーリスがごくわずかにだが、目を見開いた。

「その発想はなかった」

 そう言って固まった──呆然としているらしい彼の背中を、ギャランがやや乱暴に叩く。

「安心しろ、普通はそんなこと思わねぇし、言わねぇから。思い付くのなんて、うちのお嬢ぐらいのもんだろ」

 な?と目線で同意を求められ、エシュニーはムッとする。


「失礼ね、ギャラン。だってお気に入りのマグカップも許されないなんて、人権の侵害ではないですか」

「なんなんだ、あんたのその、マグカップにかける情熱は。ってか、それより色々言うことあるだろ? ほら、着替えとかよ」

「あ……そうでした」

 ギャランに軌道修正されたのは癪に障るが、神殿内を軍服で歩かれても困るので、再度トーリスに向き直る。


「今後、衣服はこちらのギャランと同じく、神官用の祭服を着ていただくことになります。よろしいでしょうか?」

「分かった」

 愛想は皆無だが、なんでも快諾かいだくである。その意気やよし。

 エシュニーはギャランが着ている、白地に青い刺繍が施された、立衿の祭服を示しつつ話を続ける。


 なお、彼女が身に付けているものは、白地に赤と金の刺繍がなされたローブである。太陽神の象徴たる赤の刺繍が許されているのは、神官長と聖女だけだった。


「よろしいですか、トーリス。これからあなたは、私の護衛として、ここで暮らすことになります。今までの生活とは違う部分も多々あるでしょう。ですが、私はあなたを一人の人間として扱い、もちろんお給料もお支払いいたします」

 厳密には、お給料の出所は軍なのだが。それは言わぬが花だ。


 彼女の言葉にぱちくり、と赤い瞳がまたたいた。そういえば、彼はまばたきも随分と少ない。

「給与も貰えるのか?」


(これ、今までタダ働きさせられてたパターンだ。こんな美青年になんという仕打ち……というか、本当に綺麗な……ダメダメ、同情して脱線するところだった)

 つい見惚れて熱くなった頬をあおぎつつ、白けた顔のギャランを黙殺しつつ、エシュニーはなおも続けた。


「もちろんです。護衛として雇っているのですから。あなたはそれを元に、ここで好きなもの、趣味、嗜好、その他人間らしいものを身に付けるのです。分かりましたか?」

「人間らしい。分かった」

 その淡白過ぎる口調が、そもそも人間らしさに欠けるのであるが。

 分かってくれたのなら、とりあえずは何よりだ。


 好きなものや個人的な趣味が芽生えて行けば、自ずと言葉に感情も載っていくだろう、とエシュニーは考えていた。気長に頑張るしかないのだ。

「分かっていただけて、何よりです。ところで、アリバス司令官は食事にも頓着とんちゃくされないとおっしゃっていましたが、何か好きなものはありますか?」

 彼を人間として扱うべく、その意思表示として食の好み──これぐらいなら、多少はこだわりがあるかもしれない、という推測によるものだ──を尋ねるも。


「特にない。毒が入っていても問題ない」

「そんなもの出すわけないでしょう! 私たちが死んでしまいます!」

 やはり、ずれていた。

「そうだった。人は毒で死ぬのか」

 あまつさえそんな物騒なことを呟き、何かを納得するようにうなずいている。

 やはり、前途多難である。


(魔剣って、郵送できるのかな?)

 エシュニーは彼を、着払いで軍へ送り返そうか、と一瞬考えてしまった。

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