その後、先日と同じ応接室で二、三の打ち合わせを終えたアリバスは、早々に帰還した。
トーリスには子煩悩な親馬鹿目線を向けていたが、これでもれっきとした軍の司令官であり、暇人ではないのだ。
「よいか、トーリス。しっかりエシュニー殿の言うことを聞くのだぞ。勝手に虫や蛇を食べてはいけないぞ。それから、きちんと毎日風呂に入るんだぞ」
それでも、少々不穏な小言を最後までトーリスに向けて、彼は帰路に着いた。
親代わりの司令官の言葉にも、トーリスは眉一つ動かさず、
「虫と蛇は食べない。風呂に入る。了解した」
淡々と言ってのけ、そして今も、真顔で空高く浮かぶ飛行船を見送っている。
なまじ綺麗な顔をしているので、無表情ぶりが際立って怖い。
(これと共同生活……やっていけるのだろうか)
そんな一抹の不安を抱えつつも、エシュニーは弱気をねじ伏せるようにして手を打った。
「さあ、トーリスさん。あなたのお部屋にご案内しますね」
「分かった」
無感動だが素直ではある。エシュニーにぴったり寄り添うギャランも、警戒心を少し緩める。
歩き出したエシュニーとギャランに、数歩遅れてトーリスが続く。あちこちに花や香草が植えられている裏庭を歩いて、来た道を戻りながら、エシュニーは彼を振り返った。
「トーリス、とお呼びしてもよろしいですか」
「構わない、エシュニー」
呼び捨てに呼び捨てで返した彼に、ギャランがむっつりとなる。
「こら、お嬢を呼び捨てに──」
「構いません、ギャラン」
なにせアリバスにすら、敬語を使っていなかったのだ。仕方がないだろう、とエシュニーは肩をすくめる。
彼女を窺い、ギャランも諦めたように肩をすくめた。
「ま、俺も人をどうこう言えた義理じゃねぇしな」
「その通りです」
澄まして答えると、にやり、と彼は笑った。
かれこれ十五年の付き合いになるが、ギャランのこういうところが、エシュニーは結構気に入っている。
トーリスの居室は他の三人と同じく、別館の地下にある。
別館の一階は応接室や食堂、厨房、浴室などを備え、二階にはエシュニーの寝室や書斎、そして客室がある。
地下への階段を下り、最奥の元空き室の扉を開けた。
窓こそないものの、洗面台やトイレも備え付けられており、エシュニーの生家の使用人部屋よりも立派な代物だ。
「ここを自由に使ってください。本棚やクローゼットも備え付けのものがあります」
「分かった」
こくりとうなずいたトーリスであったが、彼の荷物は小さなトランク一つだけであった。
「ずいぶんと荷物が少ないようですが……」
嫌な予感がしたので、そう尋ねると。
「予備の軍服と、下着は持っている」
何故か得意げに、そう言い切られた。ふわふわの銀髪を揺らして、エシュニーは首をふりふり。
「それしか持ち合わせていないのですね。歯ブラシは? お気に入りのマグカップは?」
「マグカップは別に要らねぇんじゃないか? ──いてっ」
揚げ足取りするギャランの脇腹に肘打ちを入れ、黙らせる。
二人の小競り合いにも動じることなく、トーリスは静かに首を振った。
「ない。軍では必要なかったから」
(マグカップが必要ない……だと?)
「……まさか、軍ではなく刑務所に入っていたのですか?」
「いや、軍だ」
「自由も個性も許されないなら、似たようなものでしょう」
少なくとも、エシュニーにとってはそうだ。
彼女の発言に、トーリスがごくわずかにだが、目を見開いた。
「その発想はなかった」
そう言って固まった──呆然としているらしい彼の背中を、ギャランがやや乱暴に叩く。
「安心しろ、普通はそんなこと思わねぇし、言わねぇから。思い付くのなんて、うちのお嬢ぐらいのもんだろ」
な?と目線で同意を求められ、エシュニーはムッとする。
「失礼ね、ギャラン。だってお気に入りのマグカップも許されないなんて、人権の侵害ではないですか」
「なんなんだ、あんたのその、マグカップにかける情熱は。ってか、それより色々言うことあるだろ? ほら、着替えとかよ」
「あ……そうでした」
ギャランに軌道修正されたのは癪に障るが、神殿内を軍服で歩かれても困るので、再度トーリスに向き直る。
「今後、衣服はこちらのギャランと同じく、神官用の祭服を着ていただくことになります。よろしいでしょうか?」
「分かった」
愛想は皆無だが、なんでも
エシュニーはギャランが着ている、白地に青い刺繍が施された、立衿の祭服を示しつつ話を続ける。
なお、彼女が身に付けているものは、白地に赤と金の刺繍がなされたローブである。太陽神の象徴たる赤の刺繍が許されているのは、神官長と聖女だけだった。
「よろしいですか、トーリス。これからあなたは、私の護衛として、ここで暮らすことになります。今までの生活とは違う部分も多々あるでしょう。ですが、私はあなたを一人の人間として扱い、もちろんお給料もお支払いいたします」
厳密には、お給料の出所は軍なのだが。それは言わぬが花だ。
彼女の言葉にぱちくり、と赤い瞳がまたたいた。そういえば、彼はまばたきも随分と少ない。
「給与も貰えるのか?」
(これ、今までタダ働きさせられてたパターンだ。こんな美青年になんという仕打ち……というか、本当に綺麗な……ダメダメ、同情して脱線するところだった)
つい見惚れて熱くなった頬をあおぎつつ、白けた顔のギャランを黙殺しつつ、エシュニーはなおも続けた。
「もちろんです。護衛として雇っているのですから。あなたはそれを元に、ここで好きなもの、趣味、嗜好、その他人間らしいものを身に付けるのです。分かりましたか?」
「人間らしい。分かった」
その淡白過ぎる口調が、そもそも人間らしさに欠けるのであるが。
分かってくれたのなら、とりあえずは何よりだ。
好きなものや個人的な趣味が芽生えて行けば、自ずと言葉に感情も載っていくだろう、とエシュニーは考えていた。気長に頑張るしかないのだ。
「分かっていただけて、何よりです。ところで、アリバス司令官は食事にも
彼を人間として扱うべく、その意思表示として食の好み──これぐらいなら、多少はこだわりがあるかもしれない、という推測によるものだ──を尋ねるも。
「特にない。毒が入っていても問題ない」
「そんなもの出すわけないでしょう! 私たちが死んでしまいます!」
やはり、ずれていた。
「そうだった。人は毒で死ぬのか」
あまつさえそんな物騒なことを呟き、何かを納得するようにうなずいている。
やはり、前途多難である。
(魔剣って、郵送できるのかな?)
エシュニーは彼を、着払いで軍へ送り返そうか、と一瞬考えてしまった。