ゆらり、ふわり。温かいお湯の中を揺蕩うような、そんな心地良い浮遊感の中に私はいた。私の周りでは勢いよくソメイヨシノの花びらが舞っているので、私のいる空間だけ時の流れから切り取られているかのよう。めまぐるしく変わる周りの景色を眺めながら、ゆったりとした心地で身を任せていた。
いつまでそうしていたのだろう。ふいに、桜吹雪がぱたりと止んだ。そして、霧雨のように降り注ぐ花びらの中に、人影が浮かび上がる。
その人影は、青年のようだった。少し外に跳ねた茶色がかった黒髪を持ち、夜空のような深い色の瞳でこちらを見つめている、私よりも年上に見える青年。
その青年と目が合った。その瞬間、彼から柔らかな微笑みを向けられる。そんな眼差しに鼓動が跳ねて、きゅんと胸がときめいた。そして、青年から一切眼が離せなくなってしまう。
衝動のままに駆け出した。早く早く彼の元に行かないと。無慈悲な花びら達に、かき消されてしまう前に。
「雪人さん!」
花びら達はざわつき始めていたが、舞い上がる前に彼の元へとたどり着けた。そしてその勢いのまま、彼と離れないように服の裾を掴んで引き寄せる。
『はるひ』
聞き慣れて、馴染んだ声が鼓膜を震わせた。ふっと体が宙に浮いたので、抱き上げられたのだと気づく。
『やっと会えた』
そう言った彼の、夜空色が柔らかく細められる。心からのものであろうその笑みが、私の心の奥深くに消えない煌めきを残していった。
***
「どうしたの? そんな眉間に皺寄せて」
「雪人さん」
にらめっこしていた書類から顔を上げて、恋人の方へと視線を向ける。はい、と渡されたマグカップを受け取りながら、書類の方を手渡した。
「……全国統一高校生模試」
「受けた事あります?」
「あるよ。センター試験を模したやつだっけ」
「センター試験……ああ、今は名前が変わって共通テストになってます」
「……そうなんだ」
今度は雪人さんの眉間に皺が寄って、神妙な面持ちになった。おもむろに手を伸ばし彼の皺を伸ばすように撫でていると、その手を取られて握られる。
「第一志望の大学が国立だから受けてみようと思って受けてみたんですけど、結果があんまり振るわなくて。どうしたものかと」
「……でも三科目とも七割あるじゃない。十分良い結果だと思うよ?」
「私が狙ってるの薬学部だから、可能なら八割……最低でも七割五分は欲しいところなんですよ。そう考えると、もうちょっと頑張らないとなっていう結果です」
「そう? 国公立の薬学部でも、県外の大学なら七割で十分いけるんじゃない?」
「家から一時間以内で通える範囲の大学のみって言われているので……」
文理や国公立私立の選択は好きにしていいと言われているが、そこだけは厳命されているのだ。一人暮らしも禁止なので、自然と選択肢は狭められる。
「私立でも良いって言われてるなら、そっちにするのもありじゃない? 私立の方が国家試験対策は手厚いとも聞くし」
「それはそうなんですけど、私は創薬関連の方に進むつもりなんです」
「あぁ……それなら、県内って縛りを考えれば国公立になるか」
「はい。そっちの方が就職とかにも有利かなって思いますし」
薬剤師として調剤方面に進むというのも魅力的な話ではあるのだけど、育った環境が環境なのでやはり研究の方が興味深いのだ。だから、現時点では六年制の方ではなくて四年制の創薬系学科の方へ進むつもりで考えている。
「……そうだ、妙案があるよ」
考え込む素振りを見せていた雪人さんが、顔を上げてそんな事を言い出した。得意そうな表情をしているが、何を思いついたと言うのだろう。
「何ですか?」
「春妃が俺と結婚して、県外の大学の近くに引っ越して一緒に住めば良い」
そしたら自宅から一時間以内で通えるし、一人暮らし禁止も回避出来る。春妃ともっと一緒にいられる事になるから、俺にとってもメリットしかない。にやりと笑いながら告げてくるその顔を、まじまじと眺めつつこちらの回答を口にした。
「それはだめです」
「……え」
「だめです。それだけは」
「……何で?」
うっすら上気しているくらいだった顔が、一瞬で真っ青になった。ちょっと可哀そうなくらいに血の気が引いているので、貴方と結婚したくない訳ではないというのも付け加える。
「それなら何で? 春妃が大学生の時には俺社会人だし、何なら学費だって俺が出すし良い案だと思ったのに」
「……だって」
「だって?」
「きっと、私……浮かれて勉強どころじゃなくなっちゃうから」
結婚して一緒に住むとなれば、今までと比べて圧倒的に彼と一緒にいられる事になる。そんなのは私にだってメリットばかりなのだが、だからこそ、それが理由で浮足立って、本業である勉学に身が入らなくなる可能性だって考えられるだろう。
理由は無事伝えられたので、そっと彼の方を伺い見る。目の前の雪人さんは、先程みたいにもう一度顔を真っ赤にした後で、両手で顔を覆い突っ伏してしまっていた。
「だから、あの」
「……ハイ」
「雪人さんと、け……結婚、する、なら」
「……うん」
「早くても大学卒業後が良いです。可能なら、私が社会人になった後で二年か三年かしてからだと……タイミング的には一番ありがたいです」
結婚して雪人さんの奥さんになりたいという想いと同じくらい、私も薬の研究に関わっていきたいという夢があるのだ。自分の足で地に立って、並んで歩いていけるだけの人間になりたいと、ならないといけないと思っている。
これからは、彼にばかり負担を強いるなんて絶対にしたくないから。
「……わかった」
そんな言葉と共に、彼の両腕が伸びてきた。逆らわずに囲われて、彼の方へと引き寄せられる。
「タイミングとかはきちんと図るから、ゆくゆくは必ず俺のお嫁さんになってね」
「はい。勿論です」
彼の体温を感じながら、肯定の意を示す。再び合った視線の先では、これからを共にと願う愛する人が、これ以上ないくらいの嬉しそうな笑顔を浮かべていた。