「そんな意見を持つ父さんでも、その薬を飲ませた方が良いと判断したくらいに私の状態は酷かった?」
「……寝てもすぐに起きて泣いてしまう、食事をまともに食べない、少しでも秋姫を連想させるものを見たらお母さんお母さんと言って疲れて眠るまで泣き続ける……世話をする周りの大人の疲労度もすごかったし、当の春妃がどんどんやつれていった」
「……」
「唯でさえ秋姫を失って絶望していたのに、このまま春妃まで死んでしまうのではないかと思うと、本当に恐ろしくて堪らなかった。だから、これが最良の選択だと、これ以上春妃を苦しめてはいけないと、この苦しみから春妃を解放するのが親である俺の役目だと……自分を正当化して、薬を飲ませた」
「……そう」
「そう考えると、俺もあいつらと変わらなかったのかもな。苦しむ娘を見たくなかったという理由で服薬させたんだから。そのせいで、本来何の責も負うべきでなかった雪人くんを十年間苦しめた」
理屈としてはそうなるのかもしれないし、その決定が彼を傷つけてその後の人生に影響を及ぼしたのは事実だろう。けれど、そもそも娘への愛情がなければ、苦しんでいるのを見るのが辛いとは思わないものではないだろうか。
だから、父さんが服薬という選択肢を取ったからと言って、それが百パーセント父さんのエゴとは思わない。その選択には、確かに、私という娘に対する愛情があったと思う。
「……とはいえ。雪人さんは、きっと、辛かったと思うから」
「春妃?」
「彼にだけは謝ってほしい。雪人さんが昨日私にやった事だって褒められる事じゃないし何らかの形で謝ってもらおうとは思うけれど、それでも、そこまで思い詰めさせてしまったのは私たちのせいだわ」
「私たち……? いや、春妃は悪くないだろう」
「無関係ではないもの」
私がもっと見知らぬ大人を警戒していたら。声なんてかけずに室内に逃げていたら。解放された時にすぐ母さんの傍に駆け寄っていたら。そうしていたならば、もしかしたら……母さんは今も生きていたかもしれないのだ。そうすれば、私が薬を飲む必要はなかったし、雪人さんを苦しめる事もなかった。全て忘れて一人だけのうのうと生きていた私が、一番の罪人なのかもしれない。
「……そうだな。それじゃあ、彼が起きたら一緒に謝ろう」
「うん」
「ああ、そうだ……先に渡しておきたいものがあるから、ちょっとついて来てくれ」
「何?」
「見てからのお楽しみだ。今の春妃になら……もう渡しても大丈夫だろうから」
そう言った父さんが歩き始めたので、大人しく後をついていく。ついたのは、父さんの寝室だった。
***
ちょっと待ってろと言われたので待っていると、机の上の母さんと目が合った。前に見た写真とは別のやつだ。時折、明らかに視線がカメラを向いていない写真を見かける事があるが、今回の写真はにっこりと微笑んでこちらを向いている。
「あった、これだ」
「何それ。缶の入れ物?」
「中身を取ったら入れ物は返してくれ。入れ物の方は、秋姫が初めて俺にくれたお土産のクッキーが入っていた缶なんだ」
「……物持ち良いのね」
そう言うに留めて、かぱっと蓋を外す。中に入っていたのは、大量の封筒だった。
「手紙?」
「ああ。宛先と送り主を確認してみろ」
「宛先はうちの住所よね。一之宮春妃さまへって書いてあるから、これ全部私宛て……え!?」
封筒の裏に書いてある差出人を確認して、驚きで声を上げた。相沢雪人……間違いない、雪人さんだ。
「まさか、これ、全部雪人さんから?」
「そうだ。この十年毎月届いていたから、ざっと見積もっても百は超えるな」
「毎月欠かさず?」
「大体月末だったな……そら、一番上に乗っているのが先月届いたばかりの最新版だ」
「この住所、雪人さんが今住んでる場所ね。だから父さんはあの場に来られたの?」
「その通りだ。その手紙の住所を頼りに、あの場所へ行った。春妃に例の薬を飲ませたのは丁度六歳の誕生日だったから……雪人くんが何か行動を起こすならば、追加の薬を飲ませる必要のあるあの日だろうと予測していたんだ」
「以前雪人さんに近づくなと言っていたのも、それで?」
「ああ。彼に会って会話したり、一緒にいたりする事で……春妃が過去を思い出すかもしれないという危惧があったから。追加服用も邪魔されるだろうと思ったし」
「そういう事だったのね」
確かに、こんなにまめに手紙を送ってくれていたくらいなら、父さんが個別に警戒していてもおかしくない。いっそ執着と言えるくらいの強い想いを、彼は、忘れる事なく持ち続けてくれていたのだ。
(……それが嬉しいなんて思うんだから、もう私も同類なのね)
小さい頃に出会って、初めての恋をした。その全てを忘れてもなお、もう一度彼に惹かれて二回目の恋をした。この想いを運命と言わずして、何を運命と言えようか。
「ありがとう、父さん」
「礼には及ばない。その言葉は、ずっと忘れずに手紙を春妃へ送り続けてくれた雪人くんに言ってやれ」
「それはもちろんだけど。父さんだって、この手紙を捨てずにずっと取っておいてくれたんだもの。その事にはきちんとお礼を言いたいわ」
「……見せたら思い出すきっかけになるかもしれないと思ったら、とても渡すなんて事は出来なかったけどな。でも、この手紙は……間違いなく、春妃への愛から生まれたものだ。こんなにも自分の娘を愛してくれていると分かるこの手紙を、捨てる事なんて出来なかった」
はは、と力なく笑う父さんへ、もう一度向き直る。父さんと母さんの思い出の缶を返しながら、じっとその瞳を見つめた。
「この手紙を捨てないでいてくれた。それだけで、父さんは自分勝手なんかじゃない娘想いの父親だって証明になると思うわよ」
「……春妃」
「間違いなく、ずっと愛してくれてありがとう。父さんと母さんから貰った愛に恥じないような人間になるから、これからも宜しくね」
普段だったら、照れくさ過ぎて絶対に言えないけれど。でも、今言わなければ絶対に後悔すると思ったから。愛をくれた貴方へ、ありったけの感謝を込めて。
「そ、それじゃ。もしかしたら雪人さん起きてるかもしれないし、ちょっと様子見てくる」
「ああ、分かった……一つ言っておくが」
「何?」
「春妃と雪人くんの交際を反対する気はないが、春妃が大学を卒業するまでは節度ある行為しか認めないからな」
「……は!? それ今言う!?」
「気持ちが盛り上がっている時が一番危ないからな。その辺はきちんと弁えるように」
「分かったわよ、もう!」
せっかくの余韻が盛大にぶち壊しだ。がっかりというかがっくりというか、そんな気分になってしまったけれど……まぁ確かに一理はある。
「節度は弁えますから、邪魔しないでよ!」
そんな憎まれ口だけを叩いて、手紙を抱き締めたまま部屋を出る。父さんの口元が何かを呟くように動いていたが、聞こえる事はなかった。