「では、始めましょう」
それは驚くほどに見事な采配だった。
「京志郎さん、次のメイクでは、鱗の質感を肌に浮かび上がらせたいんです。だけど、奇抜にするのではなく、光の加減で浮き沈みするような……虹色の光沢で、見る角度によって色味が変わるようにしたい」
「それ、まるでパール塗料の車やな……やれるけど、なかなか骨折れるで。ほんまにやるんか?」
「やります。鱗は額と頬の下、喉元と、右手の甲だけに。あとは首筋から鎖骨のラインにかけて、ほんのり光るように。あくまで人に近い存在として見えるように」
アルが、静かに指示を出す。声は穏やかでありながら、一切の迷いがなかった。現場の空気がすっと変わる。演者ではなく、創り手としての顔。
自分が「何を見せるべきか」を、確かに知っている人間の言葉だった。
「ほんまにめんどくさい奴やなあ……でも、面白いんは認めたる。ええんやな、桃花お姉さん?」
「……やってください。お願いします」
桃花の声に、京志郎は「よっしゃ」と笑って頷いた。アルは続けて、綾乃に目を向ける。
「須田さん、衣装は先ほどのものの対となるデザインに。マントは外して、インナーを変えたいです。肌の一部が見えてもいい構成で、でも露骨じゃなく、上品な解放を感じさせるものをお願いします」
「露出少なめで、でも解放感って……」
綾乃はそれがどういう意味かわからなかったらしい。
「もしかして、呪いが解けた王子、様?」
それに桃花が付けたした。それはこの写真撮影に最初から最後まで参加している桃花だからこそ、わかってしまった。
「ええ。その通りです。黒から白へではなく、真珠のような光沢のある淡い色のジャケットを仕込んでおいてほしかったのですが、まだ残っていますか?」
「あるよ。でもあれって、もっと後半で使うって話じゃ……」
「前倒しします。……今がそのときですから」
綾乃はわずかに目を見開いた。桃花も、その言葉の意味を直感的に理解する。
(今の彼が、最も表現したいものになろうとしている)
だからこそ、機を逃してはいけないのだ。
アルが静かに着替えのために控え室へと向かう。その背に、マントがふわりと揺れる。先ほどまでの異形の王子様としての気配を引きずるように。
「……」
それを桃花は静かに見守っていた。
「どうですか?」
だが、戻ってきた時、彼の姿は全く違っていた。その存在は、ただの「変身」ではなかった。
まるで、闇の底から浮かび上がった光そのものだった。
ジャケットは、淡い銀色に近いミルクホワイト。その生地にはうっすらと虹色の光が差し込んでいて、光の加減でパールのように滑らかに色味を変える。襟元には細やかな刺繍が施されていて、竜の鱗を思わせる文様が首筋から肩にかけて連なる。
インナーはごく薄い青みを帯びたシースルー素材。けれど決して透けすぎることはなく、肌のラインを品良く際立たせている。袖元は腕の動きに合わせてやわらかく揺れ、そのたびにその下に光る「鱗」がちらりと覗く。
「その鱗って」
「俺が作ったんや。こいつ、できるやろ、って煽ってくるからな」
「……煽ったつもりはないんですけれどね」
しかも、京志郎が作り上げた「鱗」のメイクが、それを引き立てていた。
頬の下からうっすらと浮かび上がる虹色の光。触れれば消えてしまいそうなほど繊細なのに、確かにそこにある存在感。目尻の下にはほんのりと薄紫の影があり、それが彼の瞳をより深く、静かに見せていた。
「……これが、見せたかった」
そう呟いたアルは、歩く。重たさのない、風をまとったような足取り。彼の姿はもう「異形の王子様」ではない。しかし「人間」でもない。強いて言うならば、そのどちらでもあるような存在。
桃花は思わず、カメラを構えていた。
レンズ越しに、彼の姿を捉えた瞬間。自分の呼吸が浅くなったのがわかる。
(……美しい)
その一言では、語りきれなかった。美しさのなかに、哀しみがある。何を考えて、彼はここに居るのか。それを想像させてくる。
ファインダーの中で、アルが振り向く。
光の中で、彼の鱗がほんの一瞬だけ輝いた。それはまるで、彼がかつて「呪われた存在」であったという証。
けれど、その目は確かに澄み切った存在の目だった。闇の存在が光に変わる。そんな存在だった。
「……シャッター、切っても?」
「どうぞ。君の好きなだけ」
その一言を合図に、桃花はシャッターを切った。
シャッター音が響くたびに、彼の表情が変わる。
少し寂しげに、けれど誰かを包み込むように微笑む顔。
目を伏せて、何かを許したような影を浮かべる横顔。
カメラの奥をまっすぐ見据えて、問いかけてくるような視線。
そのどれもが、美しく、儚く、けれど確かにそこにある。
まるで、呪いを受け入れたまま、なお光を選んだ王子様。
「……桃花は、ずっと僕を見てくれています」
ふと、アルが言った。
「僕は……ずっと、君に見てほしかったのかもしれない」
桃花は、その言葉に言葉を返すことができなかった。
シャッターを切り続ける。それが、彼に応える唯一の術だったから。
その瞬間、彼は微笑んだ。鱗が、光の中でふっと揺れ、夢のように輝く。
そして、桃花の手が、そっと震えた。
シャッターを切るたびに、何かが確かに焼き付いていく。