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第94話 痺れる熱を

 それはまるで何もない空間から、 いきなり闇を纏った男が浮かび上がってきたような衝撃だった。高く舞い上がったマントは、 その空間を表しているかのようにふわりと重力を感じさせず舞い上がり、それと同時にアルは地面に片手をついて、跪く一瞬手前のような姿を腰を落とす。そしてこちらを見つめる異形の表情。

 魅入られてしまっては、動けなくなる。きっと連写設定をしていなければ、桃花もまともな撮影なんかできなかっただろう。

 それを認識してはいけないと分かっているはずなのに、認識することしかできない。目を離すことができない、圧倒的な存在感。

 一瞬で、 先ほどまでの 生暖かい空気がどこかへ霧散してしまう。それほど簡単に、アルはスタジオの空気を変えてみせたのである。


「……どう、ですか?」


 アルが桃花に尋ねる。


「……あと数回、お願いします」


 こういう撮影は、何度も同じアングルややり方でとる必要がある。

 それをアルも心得ているのか、嫌な顔一つせずに頷いてくれる。


「ええ、わかりました」


 再びセットが整えられる。京志郎が黒いマントの裾を確認し、軽く指を弾くように揺らしている。微細な動きでどのような軌道を描くかを見極めているのだろう。

 桃花はファインダーを覗きながら、次のイメージを思い描く。先ほどのカットはそのまま「作品」になる。

しかし、それだけでは終われない。

もっと異なる角度、異なる動きならば、それはどんな「作品」になるのか、まだ桃花は知らないのだから。


「京志郎さん、今度は少し斜め後ろから、マントを巻き込むように動かせますか?」

「ああ、了解」


 京志郎はマントの端を持ち、手首をわずかにひねる。ほんの小さな動作で、布がしなやかに動く。まるで生き物のようにたゆたう黒い影。それがどの瞬間、最も美しく映えるのか、それはシャッターを切る桃花にかかっていた。


「アル、次は動き出しの瞬間を狙うので、足元の力の入れ方を意識してもらえますか? 少しだけ体重を残しつつ、振り向く感じで」

「はい」


 アルが微笑む。すでに彼はこのセットの一部と化していた。衣装とメイク、それに動きの演出が、完璧に絡み合う。京志郎がマントを大きく振り上げると同時に、アルがゆったりと体を傾ける。

 シャッターが切られる。

 一瞬の静寂。

 マントが舞い、影が生まれる。その黒い布の向こうに、顔の半分が人ではない、異形の男が佇む。半分だけ影に沈んだ顔。薄く開いた唇。息をのむほど完璧な動き。


「……そう……そうやって、綺麗に振り向く感じで……」


 桃花はつぶやくように言った。カメラのプレビュー画面には、まるで映画のワンシーンのようなカットが映し出されている。しかし、まだ足りないのだと求めている。

もっと奥行きを出したい。もっと、ダイナミックにしないと、紙に印刷された時にこの熱は伝わらない。


「次は、マントをもう少し低い位置から振り上げてもらえますか? 風を孕むように、斜めに」

「……そんなら、ちょっと膝使って跳ね上げる感じにしてみよか」


 京志郎が膝を曲げ、弾みをつけるようにしてマントを持ち上げる。アルもそれに合わせて、ゆっくりと体を捻る。

 シャッター音。

 マントが風を抱き、渦を巻くように広がる。

 まるで空間が裂けるような、そんな錯覚を起こす一瞬が、確かにそこにあった。


「今の! その瞬間を、お願いします!」


 桃花は息を弾ませながら声を上げた。手元のカメラが熱を帯びている。夢中になってシャッターを切っていたのだ。


「もう一回、お願いします!」

「おう、付き合ったる」


 京志郎の声に、アルも余裕の笑みを浮かべる。


「では、より大きな動きを試しましょうか?」


 そう言うと、アルはほんのわずかに足を開く。桃花は彼の意図を察して、ファインダーを覗く手に力を込める。


「はい! 京志郎さん、今度はさっきより勢いよく、床すれすれからマントを振り上げてください!」

「ああ、こんな感じ、か!」


 京志郎の動きがわずかに変わる。今度は重心をより深く落とし、すくい上げるような動きをつける。アルもそれに合わせて、腕を上げながら流れるように振り向く。

 シャッター音。

 マントが闇の波のようにうねる。その向こうに、微笑むアルの姿。それはまるで、異世界の王子様が降臨するかのような圧倒的なビジュアルだった。


「……っ、すごい……」


 桃花は息をのむ。

 まるで、異形の王子がその場に顕現したかのような圧倒的な存在感。アルの視線がカメラの奥を見据えている。ファインダー越しに見ても、心臓を掴まれるような感覚に襲われる。


「……あと一回、お願いできますか?」


 だからこそ、求めてしまう。完璧のさらに上。自分でも想像できないその領域を、求めている。そんなあるかどうかもわからないものを、どうしようもなく求めていることを桃花だって気がついていた。


「ええ、もちろん」


 アルが余裕の笑みを見せる。その表情すら、まるで演出されたような美しさ。


「京志郎さん、今度はもう少しゆるやかに、でも、長く持続する動きで」

「了解。タイミング、しっかり合わせぇや!」

「わかってます!」


 京志郎がゆっくりとマントを持ち上げる。

 アルが息を整える。

 桃花がカメラを構える。

 シャッターが切られる。黒いマントが風を抱きながら、ゆっくりと舞い上がる。

 その中に佇むアルは、静かに、微笑みながらこちらを見つめていた。まるで、この世界に自分以外の者が存在しないかのように。

 この瞬間、完全に、アルは、人ではなかった。人を超越した、「何か」だった。

 悠然と笑う、人ではない、魔力を持ったような美しさ。


「……撮れた……!」


 ファインダー越しの世界が、桃花の中で完璧に完成する。

 人ではない王子様。そんな彼を象徴するのに、ふさわしい一瞬。

 それを確かに、写真として捉えたのだ。


「お疲れ様です!」


 京志郎がマントを軽く振って、動きを止める。


「ふぅ……なんや、ええ感じに仕上がったんちゃう?」

「……ええ、とても」


 桃花はカメラをそっと抱きしめる。

 撮りたかったものが、撮れた。

 アルの妖艶な笑みが、それを見て、さらに深くなる。

 アルの問いかけに、桃花は迷いなく答えた。


「ええ。でも、まだ足りませんから」

 彼女の瞳は、まだ熱を帯びたままだった。夢中になってシャッターを切っていた指先に、じんわりとした痺れが残っている。それだけの熱量を持って、彼女はこの撮影に没頭していたのだ。


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