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第93話 黒いマント

 そんなやり取りをしてからのスタジオの空気は、少しだけ生暖かい。


「桃花! だいじょうぶ? 落ち着いた?」


 綾乃はすぐさま駆け寄ってきてくれて、桃花にそう尋ねてくれる。彼女の表情からも相当心配しているのがわかる。


「もう大丈夫」


 桃花はゆっくりと頷いた。たぶん、ぎこちなかったのだとは思う。しかし、先ほどのような自分でもコントロールできないほどの熱は冷めている。その仕草に、綾乃はふっと安堵の息を漏らした。


「よかった……なんだかすごいことになってたから、ちょっと心配だったんだからね?!」


 綾乃はそういいながら、桃花の手をぎゅっと握りしめた。桃花はわずかに微笑んだ。


「うん、ごめんね。でも、本当にもう大丈夫」


 言いながら、手のひらをぎゅっと握りしめる。その手にはまだわずかに余韻が残っているような気もするけれど、それを振り払うように軽く息を吐いた。綾乃はそんな桃花をじっと見つめ、少しだけ目を細める。


「……うん、そうだね。桃花なら、きっと大丈夫」


 信じるように、安心させるように。そっと肩を叩いてくれる。


「本当にすごかったんだから。アルさんの演技も、桃花の集中力も。そりゃあちょっとは無茶しすぎで心配したけれど」

「……そう、だね」


 思い出せば、あの瞬間の熱がまだ指先に残っている気がする。けれど、それがまた今すぐに暴走するような雰囲気はない。


「でも、まだ終わってない。ここからが本番だから」

「……ふふっ、その意気だって」


 綾乃は満足そうに笑い、ポンと軽く桃花の背を押した。


「それじゃ、続き、できる?」

「うん」


 そうして、桃花はもう一度、カメラを握り直していく。先ほどまで負荷をかけ続けていたせいで熱を持っていたカメラも、今はその熱が冷めていっている。

(大丈夫。今はただ、シャッターを切ることに集中すればいい)

 そう言い聞かせながら、桃花はアルに向き直った。


「落ち着いたようでよかったですね」


 アルに声をかけられる。

 すでにセットの準備が進められていた。アルがすぐさま準備をしてくれていたのだろう。右京と左京に指示を出していた手を止めた。


「はい。もう大丈夫です……それよりも、次は衣装の優雅さをアピールする構図、ですよね?」


 桃花はカメラを構えながら、次のカットのイメージを確認する。

 大きく黒いマントをはためかせるための撮影。静止した美しさだけでなく、動きのある一瞬を切り取ることで、より幻想的な雰囲気を作り出す。海外のファッション誌などでもかなり見られる構図だが、この一瞬を美しく切り取ることは難しい。それに重たいマントを動かすとなると、それなりに用意も必要になってくるのである。


「じゃあ、マントの動きを出すために、アシスタントの二人に……」


 そう言いかけた時だった。


「俺がやるわ」


 低く響いた声に、桃花は驚いて振り向く。そこには、邪魔になる着物のような上着を脱いで、すでに黒いシャツだけになった腕をまくりながら立つ京志郎の姿があった。


「え?」

「え、じゃなくて、こういうのは力加減がいるやろ。ただ布をばさばさ動かすんやなくて、ちゃんと綺麗に広がるようにせなアカンねん」

「でも……」

「アシスタントにやらせてもええけど、撮影のタイミングとマントの動き、ちゃんと噛み合わんと意味ないやろ? やるなら、ちゃんとやったる。だから、合図してくれればええで」


 そう言って、京志郎はすでにマントを手に取っていた。その表情は真剣で、冗談ではないことが一目でわかる。アシスタントの右京と左京たちも少し戸惑いながらも、「じゃあ、京志郎さんにお任せします……?」と顔を見合わせる。


「どうしました? なんだか自分も参加したくなったようですが」


 アルがくすりと笑いながら京志郎を見やるが、京志郎は軽く肩をすくめるだけだった。


「まあな。メイクだけやなく、撮影もどう見せるか考えるのはセットやろ。メイクがよくても撮り方が悪けりゃ台無しやしな。それに……お前の厄介な熱に充てられへんようにするのは、俺の方がええ」

「あ……」


 その言葉に、桃花は思わず納得する。

 自分でさえ、アルの熱に充てられていた。

 あの時、アルのその美しさと魅力に我を忘れて写真を撮っていた。その自覚はあるのだ。だから右京と左京がそうならないとも限らない。そうなって写真撮影に支障があってはいけないのだ。だから、京志郎は自らがやると言い出したのだろう。


「……じ、じゃあ、お願いします」


 京志郎が持つマントを意識しながら、桃花は再びファインダーを覗き込んだ。


「アルはマントの動きに合わせて振り向く感じで。目線はカメラの少し上に……そう、今の感じで」

「了解です」


 アルは余裕のある笑みを浮かべながら、軽く頷く。


「京志郎さん、合図したら、一気にマントを動かしてください」

「わかっとる。任せろ」


 その瞬間、桃花のカメラが静かに構えられ、空気が張り詰めた。京志郎が指先に力を込める。次の一瞬、シャッター音と共に、黒いマントが大きく舞い上がった。


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