「飯田編集長は……アルのことを知っていたんですか?」
すっかり冷めてしまった紅茶を見つめながら、桃花がたずねる。
「そうだね、知っていたというのは確かに正しい。でも、もともとは『櫻木昴』ではなく、アルフレッドくんとして知っていたんだよ」
二人でソファにかけながら、飯田編集長は息を吐いた。
「美人のその息子さんでね。知人も芸能関係の仕事をしていたから、その影響だろう小さい頃から目立つ事が大好きだった。それこそお忍びのデートなんてもってのほかで、自分の顔を隠さず。気づいてくれたファンには躊躇いなくサインをあげるようなそんな気さくな子だったんだよ」
アルの子供時代を想像してみる。
今でさえ驚くほどにきれいな顔をしている彼らのだから、きっと子供時代はもっと可愛らしい顔立ちをしていただろう。もしかしたら女の子に間違われたかもしれない。そんな彼だから、周囲からもかわいがられてたにに違いない。
「……今のように、顔を隠していたりはしましたか?」
「そうだね。芸能界に入ってからは、さすがにちゃんと顔を隠すようになっていてよ。特に日本のファンに知られるようになってからは、自由に買い物ができなくなったと文句を言っていてね」
「どこで誰にみられてるかわかりませんからね」
「ああ。……だからこそ、大事な人を失ってしまったとき、彼はもう復帰できないだろうとおもっていたんだよ。それを無理強いすることも出来ないと判っていてね」
「……だったらどうして私に写真なんて撮らせたんですか?」
「アルフレッドくんの才能はずば抜けているから。彼も言った通り。今は彼の容姿の最盛期だ。もちろん加齢を重ねて、その魅力が増す部分もあるだろうが。それでも今の輝き今にしかない、それはわかってるんだ」
「……」
飯田編集長はどこか悲しそうだった。
アルのことを心の底から心配しているような気がした。
「だからこそ、彼の写真集を取って欲しいと思っていた。できることならば、『櫻木昴』ではなく、ただのコンセプトの写真集にしようと思っていたんだ。名前ならばいくらでもごまかしがきく。それに、ここでリンクや顔立ちが変わってしまっているのならば、ある程度はそっくりさんで通すことだって出来るだろう。ネットにもそういう人はいくらでもいる」
飯田編集長はアルの写真を拾いあげてくれる。
「どでも本当によくとれている。こういう写真集できたらよかったんだろうけれど。それでもやはり彼は『櫻木昴』として写真集を出したがっているんだね」
「……それは、どうしてなんですか?」
桃花にはわからない。
櫻木昴としてではなく、アルが匿名で写真集を出してしまえばいい。
一時的に雇ったモデルだから、その後のことは分からないといってしまえば、きっと彼に粘着していたというストーカーたちも、そこまで追ってくる事ができない筈だ。そもそも髪の色や目の色、それから顎の輪郭なんかも変わってしまっているせいで同じ人物か、と言われてしまうと、さすがに疑問が残るのだ。
「きっとそれが自分への罰だと思っているんだよ。彼は、自分が安穏として生きて行ってはいけないと言っていた。そして、その時にカナのように、もっと苦しんで終わらなくちゃいけないとね」
「……そのために誰かを幸せにして?」
「そう。自分が苦しんで、過去の傷を得られたとしても、誰かが心から幸せになってくれるのならば、もしかしたらカナは許してくれるかもしれない。彼はね、以前そういっていたんだよ」
「……そんな、ことを」
そのために桃花に協力しているふりをしていた。
自分が出していることを知っていながらも一緒に遊園地に行って写真を撮ってそれを最高の形へと昇華させた。
こんな写真、きっとほかのモデルを使ったとしても、ここまでのものを撮ることは難しいだろう。
「……私は……そう思っていたとしても、あんなふうに自己犠牲になる必要はないと思ったんです。その選択は間違っているでしょうか?」
「私も同意見さ。だけど、そのための方法か。あんな時間稼ぎをしたところできっと彼は自分を壊したいと願ってやまないはずだよ。それをどうにかできるのかな?」
飯田編集長は桃花の顔を覗き込んだ。
考えてみれば、入社以来、ここまでの話をしたのは初めてな気がする。こんな風に誰かに意見を言って、何とか自分の意見がまとまらなくても時間稼ぎをしようだなんて。そんな嘘をついてまで必死になることが、今まであったのだろうか。
「彼はまるで『幸せの王子様』だ」
「……幸せの王子様?」
聞き慣れない単語を言われて、何のことなのかわからずに桃花は聞き返す。
「童話にあるんだよ。綺麗な黄金の王子様の像が、自らの黄金を燕に千切らせて、めぐまれない人達のところに持って行く話。最後には結局、黄金の王子様は煌びやかな黄金をすべて剥がされて、無残な姿でゴミとなり溶かされてしまう」
そういわれて、昔々、そんな話があったような気がしてくる。悲しい話だった、という印象しかないのだけれど。
「……アルも、そうなろうとしてるんでしょうか?」
色々な人に慕われて、いつか商品価値がなくなってしまうまで「櫻木昴」でいたい。
そう願っている。
そんなことをしてしまえばまた。ストーカー達に追われる可能性が出てくるというのに。それさえも無視して彼はまた、脚光の中に返り咲こうとしている。
「……そうだね。でも、もしも恋人のことなんて忘れられるのだとしたら、一度は芸能界をやめたりはしなかっただろうね。あんなふうに引退会見もなく、突然いなくなったりもしなかっただろう」
「……」
アルは完ぺきな王子様だった。
だから桃花は「作品」として、アルを欲していた。
きっと出会ったばかりの自分だったら、そう言っていただろう。そのことは理解している彼を「作品」として、もっと見て見たい。そう思ったからこそ、あの時ファインダーに彼を写したのだ。
「あの、飯田編集長」
「なんだい?」
ソーサーにカップを乗せる。静まり返った部屋の中で。陶器と陶器がぶつかり合う硬い音が響き渡る。
自分でも指先に力が入っているのはわかる。こんなことをされてだまし討ちのような形で、このまま彼の言うとおりになんてなりたくない。
だって、桃花が撮りたかったものは、こんなものではないのだ。
「櫻木昴」なんて、知らない。
「この写真集は、あくまでも癒される『王子様』の写真集であって、『櫻木昴』の復活のための写真集なんかじゃないですよね?」
「そうだね」
「……こんなこと編集長に言うのはおかしいことはわかってます。櫻木昴なら、売れることがわかっているんです。だけどやっぱり……このままじゃ納得がいきません」
こんな言葉がとても甘いことだとわかっている。
ファッションフォトグラファーとして、美術性を大事にしなければいけないけれど。それでもお金を稼ぐことができなければ、こうして写真を撮って仕事にすることはできない。
そんなこと知っているのに。
「少しだけ時間をください。今までみたいに私だけに仕事を振らないとか、そんな特別扱いはいりません。ちゃんと写真集に向き合って仕事にも向き会いたいんです」
「それは何のためにかな?」
飯田編集長は静かに尋ねる。桃花は写真を一枚手に取った。
あの時の遊園地で一番綺麗に撮れたと思う写真。夕焼け空の中に少しだけ愁いを含んだ表情で、こちらを見つめてくるアル。
その顔は笑っているはずなのに、どこが泣きそうにさえ見える。そんな意味を浮かべている彼のことをみて、きっとこの写真を見た人が想像力をふくらませられると思った写真だ。
どこか意味深なその笑顔は、きっと彼が何者かなんて関係ない。彼を見た読者が、アルを「理想の王子様」だと思ってくれるような。
そんな写真。
「……ちゃんと、アルと向き合いたいんです。だから、そのためにも」
「……そうだね。そのほうがいいと思うよ。それに救えるならば、その人数が多い方がいい」
「……そこに『王子様』も含まれていますか?」
「ああ。もちろん」
桃花は立ち上がる。
もちろん今から使える手段は、多くないことはわかっていた。
「それに考えてしまえばいいことなんだ。童話と同じように。その王子を救うためにはどうすればよかったか、きっと望月くんなら考えられるよ」
「わかりました」
それでも、自分がどれほど荒唐無稽なことを言ったとしても。それでも前を向いている飯田編集長が、桃花には眩しく感じてしまったのだ。