「ああ、よかった。やっと理解してくれたんですね。あなたならきっと理解ができると思っていました、桃花」
どうやったところでその先を話すことができない。何をしても、八方塞がりのままだ。
「アルフレッドくん、あまり望月くんをそこまで追い詰めないでくれるかな? 彼女が断れば、こちらとしてはそれ以上無理はしないと言っているはずだ」
「ですが、そうなればほかの出版社で、僕は自分のことを売り込むと言っているはずです。僕がどんな状態であったとしても、僕の写真を撮りたいという出版社はいくらでもいいでしょうから」
その瞬間、また自分でも呼吸を詰まらせるような音を立ててしまったことがわかった。
「だって僕は個人的な恩から、最初に交渉権を持ちかけたにすぎません。それを断るというのであれば、それ以外の場所に行くことは当然でしょう」
それはどうやったところで、アルは「櫻木昴」になるということだ。
今度こそ、ストーカーに殺されるかもしれない。 それ以上に、自分を追い詰めた場所にまた戻ろうとしている。その輝く舞台の上に立ったことが忘れられない。その才能も容姿も持ち合わせてしまっている。
凡庸でなかったがゆえに、その夢を捨てられない。
そんな人なのだとしたら。
「……あ……あの……」
「どうしましたか、桃花?」
アルが笑う。
桃花は恐る恐る言葉を紡いでいく。
「あなたにとって一番は舞台なんですか?」
「ステージという言い方には違いがあります。正確に言うのであれば、僕、という存在を認識されたい。注目される場所にいたいそして、その姿を見た人が幸せだと感じてくださるならば、これ以上にうれしいことはありません。僕も年を取りますからね。あまりに時間をかければこの体や容姿にもいつか価値がなくなります。その前に、もう一度というのは当たり前でしょう?」
アルの言葉は一般的に言えばそのとおりなのだと思う。恵まれた容姿をしたモデルの人であったとしても、その価値が数年で亡くなってしまう子だって珍しい話ではないのだ。だが、そんな普通の話ではないと思う。
少なくとも、桃花が接してきた中で、アルがそんなことを気にしている様子はなかった。
「……だったら、それが『櫻木昴』としてじゃなくても構わない、んですか?」
自分でもここまで言葉を選びながら話をしたのは、初めてかもしれないとさえ思った。
少しでも言葉選びを間違ってしまったら、永久に何かを失ってしまう気がしたのだ。それがまだ言語化できない何かだったとしても、だ。
「……そう、ですね。この名前はただの、こちらの国で分かりやすいように付けた僕の名前です。そしてその名前を一度僕は捨て去って、アルフレッドになりました。だから、もしも、『櫻木昴』を使わずにいられる方があるとするならば、それでも構わないとは伝えておきましょう」
そこでアルは敢えて言葉を聞いて、そしてまた優雅に笑いかけてくる。こんな時でなければ、本当にこの人は綺麗な人なのだと、もう何度目かも分からない、桃花が見惚れるような笑顔だった。
「ですが、その名前を使わない手段が本当にあると思いますか?」
そしてそのままの顔で残酷な言葉を投げかけてくる。
「……大丈夫ですよ、僕は桃花を恨んだりはしません。その名声だけが手に入るように全力を尽くすと約束しましょう」
「アルフレッドくん……」
何かを言いたげに飯田編集長がアルの名前を呼んだ。
本当の名前。
桃花はほんの十数分前に知ったばかりの名前だった。それ以外のことだって何も知らない。女性の扱いがとてもスマートなことと、それから過去に一人だけ恋人がいたということ。それ以上のことは何も知らない。
そんな人になるように、アルは桃花に仕組んだというのならば。
「それは、嫌です」
「……そうですか」
アルは少しだけ残念そうな顔をした。正確にいえば残念そうに見える顔の表情を作ったと言うべきだろうか。
アルの心の中など桃花にはもうわからない。だが、たった一つだけ、桃花には言えることがある。
「でも、私は写真集を作りたいんです」
「……それはどういう意味ですか?」
「だから、少しだけ時間をください。私とあなたのために。今のまま中途半端な状態で、アル、あなたの言葉をそのまま鵜呑みにしてしまっては、きっといい『作品』は作れません」
「それは条件をもう少し緩和すれば、あなたは『櫻木昴』の写真集を作って下さるとでも言うのですか?」
「……その、条件を私が決めさせてください」
桃花は目をそらそうとしなかった。きっと目をそらして、ここで少しでも萎縮してしまえば、きっと彼は自分に有利な条件を提示してくるに違いないから。
ぎゅっと拳を握って、じっとその綺麗な瞳を見つめた。
いっそ、宝石に冴えを変えてしまってもいいかもしれないぐらい作り物めいた瞳。ニセモノのようなその表情が、小さくうなずいた。
「いいですよ。それで桃花が納得できるのならば。ですが、僕の願いは変わりません。また同じ舞台に立ちたい。僕の姿を見て幸せだと言ってくれる人々に幸福を届けたい。それを曲げることはできませんから」
そこまで言うと、アルは席を立った。
「アルフレッドくん、どこに行くんだい?」
飯田編集長が尋ねてくると、アルは軽く笑顔で手を振った。
「桃花はきっと、このままではプレッシャーに感じてしまうでしょう。だから今日のところはこれで話はおしまい。次にお会いする時にお返事を聞かせてもらえます」
アルはそういいながら、そのまま出て行った。
帽子を手に取っていたのは、きちんとそれを身につけておかなければ、櫻木昴だと誰かにばれてしまう事を危惧してのことだろうか?メガネをかけて髪の色を変えて顔の輪郭を変えてそうやってしなくては。まだ彼は外を歩けないというのに。
「……驚かせてしまったね」
「……いえ……はい、そうですね」
その言葉を否定しようとして否定しきれなかった。
アルと飯田編集長が繋がっていた事は明白だったからだ。それなのに桃花には何一つとして情報を与えられなかった。
二人で桃花が焦っているところをみられていたのかと思うと、さすがにあまりいい気分はしない。