「少し甘めに仕上げましょうか。桃花が好きな味かどうか、教えてくれますか?」
「ええ、それをください」
透き通るような声で彼は囁き、ふんわりとした微笑みを浮かべる。彼の深い青の瞳が、ただ彼女だけに注がれているように感じられ、胸が高鳴った。
(こんなときでなければ、きっと夢中になっていた)
「どうぞ、桃花」
「……ありがとうございます」
カップをそっと手に取ると、甘い香りが鼻をくすぐる。彼の気遣いがこもったその紅茶を口に含むと、優しく溶けるような甘さが広がった。ふと、彼が静かに唇を開く。
「実は、僕には大好きな人がいました」
彼の声は少し低く、どこか儚げな響きを帯びている。いつも強くて完璧な王子様のように見える彼の、ほんの一瞬の揺らぎが見えた気がした。真摯な眼差しで彼女を見つめるその姿は、紅茶の甘さを忘れそうなほどの愁いを秘めていた。
「……それは、かつての恋人なんですか?」
「そう、ですね。恋人、といっていいかわかりませんが」
「わからない?」
なんでそんな曖昧なことがあるのだろうか。おもわず桃花が尋ねると、アルはうなずいてくる。
「そう、ですね。少なくとも、キスすらせず、メールもしていませんでしたから。一応アドレスの交換だけはしていましたが」
「……どうして? アルが『櫻木昴』だから、ですか?」
「それもありますが、もう一つが彼女がアイドルだったからです」
「アイドル……」
芸能界でアイドル同士の交際などはよく聞く話ではあるが、そんなものが表沙汰になることはほとんどない。あっても結婚したなどのちゃんと筋を通した後に報告することはあっても、その前にスキャンダルとして抜かれてしまえば、お互いの人気にも影響が出てしまう。
桃花はファッションフォトグラファーだから、なんで芸能人のスキャンダルについては詳しいわけでは無いが、それでも確かに業界の中で、漏れ聞こえてくる声の中には、そういう話がいくつかあったりもした。
「といっても小さなグループの地下アイドルでした。だからそれほど大きな影響力を持っているわけでもありませんでした。それでも、櫻木昴ではなく、僕のことを『アル』と呼んでくれたんです。よくコスプレもしていましたね」
「……」
昔を懐かしむようなその表情は、初めて見る顔だった。
なにかとても大事なものを慈しむかのような表情。それがとても美しいのになんだか好きにはなれない。
「その方が近寄ってきたんですか?」
「いいえ。僕がちょうど研究のために地下アイドルを見に行ったら、彼女がいたんです。それから握手会をして顔を隠していて、そのまま仲良くなりましたね」
「そう、なんですね」
桃花はカップをぎゅっと握り締めた。
甘い紅茶がカップの中で揺れている。
「でも彼女と文通をしていましたが、それだけでした。お互いのライブに行ったり、もしくは事務所に送ったり、こっそり内緒のシールで挨拶をしていたんですよ。そのシールが貼られた封筒だけは必ず僕に手渡しをしてほしいって彼女も同じようなことを言っていたんでしょうね。そうやって話をしていました。ただ手紙のやり取りでリアルタイムでなくても、話をするだけで充分だったんです」
それはまるでスマホの普及する前の恋物語のようだった。お互いを思い合う2人が誰にもバレないようにこっそりと文通し合う。そんな物語を桃花だって、遠い昔に読んだことがある気がした。
「だったら、それが世間にばれることなんてないんじゃないんですか?」
昨今の芸能界のスクープは、お互いに密会をしていたり、もしくはメールなどが流出してしまうからこそおこることである。
しかし、手紙ならば、それをそのまま処分してしまえば、それで済む話だ。
そもそもお互いに会いに行くことがほとんどないのだから、そんなことも起こりえないだろう。
万が一手紙が流出してしまったとしても、熱心なファンが送ってきたのだ、と言ってしまえばそれで事足りる。文字の似ているかどうかなんて、プロが見なくてはそうそうわからないものである。
メールなどよりもいくらでもごまかしがきく。そういう意味では今の時代、逆に便利なツールかもしれない。
「そうですね。僕も、そう思いました。ですが、僕のことを大好きな人達の中には、そういう物を調べるのが得意な人もいるんですよ。それもとても詳細に僕がきっと知らないだろうと思っていたことまですべて調べ尽くすような、そんな人がいるんです」
「それって、ストーカーとか」
「ええ、そう呼ばれることもありますね。ですが、実際はもっとすごいものですよ。何しろ彼女たちは僕に姿を見られることもなく、僕の本名、住所、国籍、そしてどんな仕事のスケジュールをしていたのかまで正確に調べ上げてきましたから」
それをアルが知っている。
すなわち、アルはそれを知るような状況に置かれたことを意味している。その時、彼は何を思ったのか。考えたくもなかった。
それなのに、当事者であったはずのアルは震え一つ起こしていない。
桃花でさえ、自分の人生を変えてしまった男を思い出すだけで動揺を隠せなくなってしまうというのに、彼は全くと言っていいほど表情を変えないのだ。
「……その人たちに、アルとカナ、さんの情報がバレてしまったっていうことですか?」
「そういうことですね。ですが、彼女たちはもっと狡猾でしたよ」
「狡猾……」
その言葉をアルが使う、というのに違和感があった。
遊園地でもその前でもそんな風に強い言葉を使うような男には、到底彼は見えなかったからだ。
しかし、アルは続けた。