アルが何者だったとしても、例えどれほど闇の深い人物であったとしても、この写真の中でだけは「王子様」だと思っていた。だが、散らばった写真のどれもが、「櫻木昴」であったのだとしたら。
「そうですよ。僕はまた、こちらに呼び戻されることになりました。だから、その時にわがままを言ってみたんです。たったひとりで構わない。誰か一人だけであっても、僕の写真集を発売することで、幸せになれる人がいるのだとしたら、その時はその話を受けましょう、と」
「それが……私、なんですか……?」
桃花は自分の声が震えるのを感じていた。指が震えて何も考えられなくなりそうな、そんな嫌な予感がした。
「ええ。桃花、あなたは僕のことを復活させる最高の栄誉をもらえることになるんです。きっと写真集も売れますし、その知名度で。あなたの名前もきっと業界に知れわたるでしょう。いい話だと思いませんか?」
アルはとても嬉しそうに笑っていた。
まるでそれがとても良いことであるかのように。
「そういうことなんだよ。少し驚かせてしまって申し訳ないね。君のことを利用したかったわけではないのだけれど、それでもそう思われてしまっても仕方無いことをしたと、こちらも思っているよ」
飯田編集長もそういってうなずいてくる。
既に二人の間では、どうするかなんてとっくに決まっているようだった。
それに対してただ一人、今この場で残されているのが桃花だけなのだ。
「少しどころじゃ……ないです」
桃花は次の言葉を考えている。
たぶん、ここで言葉を間違ってはいけない。
「だって、私はまだ、あなたのことを何も知らない!」
人気絶頂アイドルがいきなり表舞台から消えた。それが何らかの良くない事に巻き込まれたっていうことは簡単に想像がついた。そして顔の印象を変えて、そうまでして彼は世間から完全に消えたのだ。どこにいるかなんて熱心なファンでもわからない位かんぜんに自分の姿を消したのに、またこうやって現れようとしている。その理由が、ただ「誰かを幸せにしたかった」なんて、そんな単純なもののはずがない。
「……桃花」
「だって、あごの骨を折られたって、そんなの普通じゃないです。それになんでそこまでしたんですか?! それにどうしてここに戻ってきたんですか?!」
「僕は、ただ、僕自身が誰かを幸せにできれば、それでいいと思っていたんです」
「……カナ」
「……っ!!」
その名前を読んだだけで、簡単に彼は目を見開いた。
先ほどまで完璧な笑みを浮かべていたのに、それがたった一言で容易く崩れてしまう。
「あなたには、何があったんですか……っ、それを教えてもらえないと、私は前に進めません」
「……それ、は……」
そこまでして、彼の心の中にまだ救っているものがあるというのに、それなのに。アイドルとして復帰していいなんて決して思えない。ずっと感じていた違和感が今、形になろうとしている。それを桃花は睨んでいる。
「アルフレッドくん、やはりここは話さないときっと彼女は納得しないと思うよ。望月くんは、少なくとも私の目から見てもそういう人だからね」
二人の話し合いではそのまま決着はつかないだろうという事を感じ取ったのか、飯田編集長が助け船を出してくれる。
アルは飯田編集長と桃花を交互に見比べてから、大きく息を吸って吐いた。
「……そのようですね。ですが、もう一度だけ確認させてください。桃花、何も知らないまま僕の写真集を出すつもりはありませんか? そうすれば君はいくらでも栄誉を受け取ることができる。ファッションフォトグラファーとしての道は保障されたも同然です。そうやって君が幸せになるのなら、僕はそれでも構わないと思っています」
それはとてもずるい言葉だった。
その言葉をそのまま受け取ってしまえば、二度と彼は何も話してくれなくなるだろう。その代わりに、桃花には、最高の「栄誉」が手に入る。それが分かっていて、アルはあえて尋ねているのだ。
「それはいやです」
だから、桃花は即答する。
迷いも容赦もなく、その言葉を断った。
そうしなくては、彼のことを何も知ることができない。知らないままそのままで終わってしまうのは嫌だ。
アルは少し目を見開いたが、小さく溜息を落としてうなずいた。
「どうやら、あなたの言う通りのようですね、飯田」
「そうだろう? だからこそ、彼女を推薦したんだから」
飯田編集長はうれしそうに頷いてくれた。
「わかりました。桃花、僕の負けです。だったら話を聞いてくれますか。それほど面白くない話にはなると思いますが」
「いくらでも、聞きます」
その言葉に、アルもうなずいて、彼女に席を進めてきた。
「だったら座ってください。長い話になりますから」
ゆっくりと桃花が席をついた先には、優雅に濃い琥珀色に輝く紅茶が静かに揺れていた。優雅な手つきでポットを傾ける彼は、まるで一幅の絵画のように穏やかな表情をしている。彼の動きひとつひとつが完璧で、無駄のない所作に目を奪われずにはいられなかった。