「さて、それでは準備はできたかな?」
「はい、大丈夫です」
帰ってようやく疲れが出た。
そのまま桃花は、玄関口に倒れ込んでいた。多分集中力を使いすぎたのだろうということは、自分でもわかる。その程度には集中していた。あれぐらい集中したのは、きっと後にも先にも数えるほどしかないだろうことも知っていた。
そしてそのままいつも起きる時間よりも、少しだけ早い時間になるまでそのまま眠ってしまっていた。本当は綾乃にも、完成した時にはその話をすると約束していたのに。そんな約束を果たすことができるほどの元気が桃花にはもう残っていなかった。
かろうじてシャワーを浴びて、出社の準備をして、約二十時間ぶりくらいの、夜と朝兼用の食事をして、オフィスまでやってきた。
皮肉なことにそうやった方が、桃花の体調は良くなっていたし、アルの顔をまぶたを閉じてさえ見える程までに披露していた脳も休めていたらしい。だから、逆に冷静になっていた。
「それはよかったよ。だったら、こちらへ」
客間に案内される。相手はどうやら桃花が出社する前から、待っていたのかもしれない。
それほどまでに時間にきっちりしている。
そんなところも彼らしい。
とはいっても、待ち合わせして会ったことなんて、後にも先にもあの一回きりなのだけれど。
「失礼します」
そして桃花は軽く礼をして、客間へと足を踏み入れた。
「久しぶりですね、桃花」
そこにいた王子様が笑顔で桃花に笑いかける。
ファインダー越しに編集していた写真よりも、さらに美しい顔立ちをしている。
綺麗な、王子様。
「お久しぶりです。……そして、初めまして」
桃花は驚くことなく、その少し暗い色をした金色の髪の彼を見つめた。
「アル……いえ、あなたの名前を教えてもらってもいいですか?」
「はい。約束でしたからね。僕のアメリカと日本のハーフです。そして、日本人名は櫻木昴、今はそちらの名前ではなく、アルフレッド・アーチボルトという名前で通っています」
櫻木昴。
その名前を言われた瞬間に、もう驚くことはないと思っていたはずが、桃花は目を見開いて息をのんでしまった。
そんな名前はありえないはずだ。
だって、綾乃も言ってた。もう櫻木昴はどこにもいないと。ならば目の前にいるこの男はいったい誰なんだろうか。
「待って、ください……その名前って……その、アイドルと同姓同名ってことですか?」
櫻木昴という名前ならば、どこにでもあるような普通の名前というわけではないが、だからといって全くあり得ない名前ではない。もしかしたら同姓同名の人もいるかもしれない。
その可能性がギリギリ残されているような名前ではある。
「いいえ。そういうわけではありません。僕がその櫻木昴、本人ですから」
「……でも、顔が……輪郭も違って、それに髪の色や……目も……!」
綾乃に何度もブロマイドを見せられていたから、櫻木昴、といわれてその顔立ちや目の色、それから髪の色くらいは思い出せる。
言われてみれば確かにアルと顔の系統は同じような綺麗な顔立ちをしていたが、しかし決定的に輪郭が違う。もう少し子供っぽい、よく言ってしまえば日本人めいた顔をしていた。
だが、今目の前にいる彼は、明らかにハーフといっていいような顔立ちをしている。
何よりもその顔の輪郭が、写真の中の「櫻木昴」とは一致しない。
「髪の色と目は事務所に言われていて、髪を染めてカラーコンタクトでごまかしていました。事務所の方針でして、あまり父親とのつながりを世間に広め無い方がいいだろうと言われていましたからね」
「だったら、輪郭は…… ?」
「ちょっとした事件に巻き込まれてしまったんです。その結果、顎の骨折られて、まあ、ついでに奥歯のほうも何本かなくしてしまいました。親知らず、っていうんですよね? あれのおかげで少し輪郭がスリムになったんですよ」
「そんな、こと……あり得るんですか?」
「僕がこの話をもしも聞かされたとしたら、きっと最初はあり得ないと言って拒絶するでしょうね」
アルは驚いている桃花に、うなずいた。
「ですが、僕は実際に僕自身がそうなったことを分かっている。だからこそ、桃花にもこのにわかには信じがたい話を信じてもらうほかないと思っています」
「……そんな、の……」
「最近の流行り廃りは早いですからね。それに七年も行方をくらませていたような人物が、いきなり自分たちの目の前に現れるとは思わないでしょう。どんなにあってもそっくりな別人、そう思うのが普通ではないですか?」
桃花は自分でも話の流れについて行くことができなかった。
確かに時折思い詰めている顔をしていると思っていた。そして、アルが「王子様」なのではないか、とも。
だからこそ、あの時電話したのだ。お酒の力を借りてでもちゃんと自分の考えを彼に伝えたいとそう願ったから。
だが、それ以上のものをアルは桃花に見せてきた。
「隠していて、すまなかったね」
絶句する桃花を労わるように飯田編集長は言った。
「望月くんを驚かせようと思っていたわけじゃないんだ。でも、こうした方がいいとかんがえたんだよ」
「……それは、なんでですか?」
「簡単に言えばね、私の上にいる人たち……そうだね。芸能界、という場所はそう簡単に最高の存在を手放せない」
「……」
桃花は飯田編集長の次の言葉を必死に待っていた。アルも、にこやかに待っている。その笑みにはどこにも感情がない。
「だから、櫻木昴の写真集をもう一度出したいと思ってるんだよ。シークレットにして、その話題性をSNSなどであげて。そうして、七年前にいなくなったモデルを、今度はアイドルとして売り出そうとね」
「だったら私が作ってきたものってそのための……写真だったんですか?」
そう言った時、桃花の手から、写真が滑り落ちた。