(こんな卑怯な手段で自分だけが楽になろうとしていることは間違っているのだから)
夜風が吹き抜ける。都会のビルの間を通ってきた、無機質で冷たい夜風が。
「……桃花」
『そんなことは気にしなくていいです。結構それ以上のこと。いろいろやられてきたんであの程度のことだったら気にしません。なんなら、私の推しの王子様に結構似てたから、そういう意味でも参考になりました。ああいう至近距離の画角ってあんまり撮ったことがなかったんですよね』
「王子様……」
『あなたがどんな風に私の前に今度、現れてくるのかわかりません。なんとなく予想はついてるけど、でもそれは多分今言ったら、きっとそうならない気がするので、言うのはやめておきます』
もしかしたら彼女は、アルが思っている以上の何かを抱えているのかもしれない。そして、それを自覚していながら、必死にこうしてアルの前に立ってようとしてくれていたのかもしれない。
「桃花……僕は……っ、これだけは信じて欲しいです」
『はい』
「僕はあなたのことを幸せにしたいんです。それがどういう意味になるのかは、もしかしたら桃花が考えているものとは違うかもしれませんが。それでも僕は僕の為に、あなたを幸せにしたいと心の底から願っています。どうかそれだけは信じてもらえませんか?」
それは、今までの、桃花が、関わる女性がきっとこうしてほしいのだろうとそう思って紡ぐ言葉とは違っていた。自分なりの本音を矛盾しながらも言葉にしてみた。
それ呆れる程に自己満足で独りよがりなものだったけれど。
アルは返事を待った。
数秒の出来事なのに、その時間がいつまでも続くようにさえ思えてしまった。
『信じますよ』
桃花は笑っているようだった。
『だってあなたの写真は、本当に綺麗なんです。どれもこれもこの中から何枚かだけしか選べないのが惜しいくらいに、とても綺麗な『作品』なんです』
マウスを操作して、パソコンの画面をクリックする音が聞こえる。きっとこうやって電話している間にも、彼女は夢中で写真の編集をしているのだろう。それくらい、きっと今もファインダー越しに見えるアルを、「作品」 にしてくれている。
「……あなたを、信じてよかった」
だから、アルも嬉しくなった。
そのために彼女を選んだのだから。
「近日中にまた会いましょう。その時はぜひ僕の本当の名前を知ってくださいね?」
『私も……私の『作品』もどうか気に入ってくれることを信じています』
「ええ、楽しみにしていますよ」
そう返事をすると電話が切れた。
「思っていたよりも、よほど強い人なんですね、桃花は」
アルは街並みを見つめる。
そのまま数歩先に踏み出せば、大事な人と同じ場所へ行けるのだろうか?
それとも、彼女はきっと絶望しながらその道を歩いたのだから、今のように満たされた気分になっているアルでは、同じ居場所に行くことはできないのかもしれない。
「だから、きっと……僕のことを、彼女は……」
星空を見上げて、アルはかつて別の名前でアルのことを呼んでくれていた、忘れることのできない大切な人の名前をもう一度呼んでみることにした。
世界は彼を無視して、永遠に輝き続けている。
「ねえ、カナ。君は僕のことをわかってくれますか?」
夜が更けても、この街は眠らない。けれど、その不眠の輝きが、彼の中で空虚感をさらに深めていく。東京は相変わらず美しい。だが、その美しささえも、今の彼にとってはただ遠く、手が届かないもののように感じられた。
「……多分ものすごいこと言っちゃったよね……」
一晩中編集をしていて、それから休みの日が一日あって、その日も自分の体力の限界が来るまで編集をしていた。そうしていつの間にか思い出せないくらいの時間に横になってようやく目が覚めたらもうすでに出社時間ギリギリだった。
急いで桃花は会社に行って、そしてパソコンの電源を立ち上げて、ようやく後悔が襲ってきた。
あの時、いきなり電話をしてしまった。商用だった酒も飲んでいたので、多分その勢いもあったのだろう。あそこまで深い会話ができるとは思っていなかった。てっきりアルのことだから、適当に流してくれると思っていた本気ではないとそう言ってくれないかと、どこかで期待していたのに。
あんなふうに言われてしまっては、もうどうやっても逃げられないことは桃花だって理解してしまっている。だからこその、ここまでの作業である。
「……どの写真もいいと思うんだけど。……だからテンション上がったからって、そこまで言う必要なかったと自分でも分かってたはずだったのに……」
そこに映し出されている何十枚もの写真は、桃花がアルを撮った写真ばかりである。
遊園地の中でお互いに遊びながら撮っていた写真。そのすべてがそこに詰まっている。もちろんその写真すべてを採用することはできなかったから、結局は何とか一割くらいまで絞った。
それでも、自分でも呆れるほど多く写真を撮ってしまっている。
きちんとしたモデルの撮影ですら、ここまでの写真を撮ったりはしないだろうと思うぐらいには、アルを撮り続けていたのだ。
「おはよう、望月くん」
「あ、おはようございます、飯田編集長」
「それで写真は撮れたのかな?」
飯田編集長が優しく話しかけてきてくれる。
「はい。もう少しだけ編集に時間はかかりますけど、悪くはないんじゃないかって、自分でも思っています」
「おや、君がそんなに自信を持っているなんて。それはとてもいいことだね」
「……モデルがとても良かったんです。どの角度からとっても絵になるというか、光の当たり方ひとつでさえ、とてもきれいで」
「それはよかった……うん、確かにそうだね」
飯田編集長はアルでいっぱいに埋め尽くされたパソコンの画面をのぞきこんでくる。
そのどれもが桃花の選んだ写真で、そしてこれが「王子様」だ、と紹介されても遜色ないほどのクオリティのものばかりである。
「このまま写真集を作れそうな勢いだ」
「こちらに話を下さっているモデルの方も……その、『王子様』のような人、なんですよね?」
ここまで桃花に写真を撮らせていて、本当は王子様というのが難しいような人だったら、またアプローチの仕方を変える必要がある。
桃花が最終確認をすると、飯田編集長は笑った。
「ははは、確かにそうだと思うよ。僕の目からしても。この写真に負けないくらい、とてもきれいなモデルだ。だから、写真が上手く撮れたから、引け目を感じるなんてことがないようにね」
「そう、ですか……」
正直なことを言えば、そういう人が来てくれないかと、ちょっとだけ期待していた。そうしたら、今も桃花の中で思い描いているこのシナリオが全部崩れてきてくれるのに。
「それで、この写真と共に今回写真を撮ってもらうモデルに会いに行こうと思うんだけど、いつ頃に完成できるかな?」
それが近日中であることはよくわかる。なんなら今すぐもしできていたと言えば、そのままモデルを呼び出そうとしているかのようにさえ見える。
「……あの、飯田編集長がチェックしたりはしないんですか?」
「もちろん、望月くんがそれを望むのならば、少しくらいアドバイスはできるだろうけれど、きっとそれをあちらが望まないんだよ。望月くんの、表現をきっと彼は見たがっている」
「……わかりました」
飯田編集長の言葉に桃花は目を伏せた。
少しだけ指先が震えているのはきっと緊張のためだろう。
こんなふうに依頼をしてくる人なんていなかった。だからこそ緊張しているのだ。
そう思ってないとやってられない。
「だったらあと三日だけ時間をください」
「……三日か、構わないけれど……もっと時間をもらうことだってできるんだよ」
「いえ……三日でやりたいんです」
きっとそれ以上になれば、あの思い出が色あせてしまう。
アルといっしょに遊園地に行った。最後に別れてから、遊園地なんて行こうとも思わなかったのに。
それがあんなに楽しかった。
その感情を表現するのならば、きっとそれ以上の時間を取ることはできない。
「わかったよ。だったら、その間は他の仕事はしなくていい」
「え、それは……」
さすがにほかの仕事はするつもりだった。いくら撮影がないとは言え、その間のモデルのスケジュール調整やほかのスタジオに抑えることなどやることは多岐に渡る。特に今は人手不足だから、事務作業についてもできることはやっているような状態だ。だから、その時間を入れての三日と言う条件だったのだが、いきなりそこまで言われてしまって桃花は言いよどむ。
「集中してそれをやって欲しいんだ。モデルの人も大事な人だから、その人を納得させることができなければ、こちらとしても大変困るんだよ。だからこそ、君には集中して臨んで欲しいと心の底から望んでいるんだよ」
「……わかりました」
それが桃花のことを逆にしようと思っているわけではなく、逆にプレッシャーをかけていることもわかっている。
だが、それくらいの方が今は都合がいい。
飯田編集長の言葉に対して桃花は力強くうなずいた。