夜の闇が広がっていた。
ホテルの屋上から見える、日本の東京の風景はいつも変わらない。
まるで無数の星が地上に散らばったかのように光り輝いていた。だが、その光はどこか冷たく、距離を感じさせる。ネオンの色とりどりの光が、街全体を彩る一方で、アルの心には不思議な虚無感が漂っていた。遠くに広がる高層ビル群は、無機質に並び立ち、どれも同じように見える。どんなに高く建っていても、その光の下にいる人々の姿は、ここからでは全く見えない。
「……あれで決断してくれるといいんですけれど」
ここまでのことをしたのは、桃花のためではない。
アルのためだ。
こうして「彼女」と同じ場所に立ってみると、それがよくわかった。
「何を考えていたんでしょうね……この場所で」
立ち入り禁止のフェンスを乗り越えてここまでやってきて、彼女は最後に電話をした。そしてその後この風景を見ながら、すべてに幕を下ろしたのだ。
そうやってアルが軽く笑った時だった。
携帯電話が震えた。
「……桃花?」
そこで、今の「遊び相手」からの連絡に気がついた。今はすでに夜が遅い。もしもここで眠っていたから電話ができなかったと言い訳をしても、きっと彼女は不快な気持ちにならないだろう。そう判断できる時間である。
しかし、桃花には約束をしてしまっている。だから彼女に対して今邪険な扱いをして、そのまま最後に決断してくれなければ困るのだ 。
だから、アルは通話ボタンを押して彼女と話をする。
「もしもし、どうかしましたか?」
『アル、ですよね?』
「はい、そうですよ」
『そっか。良かったです。ちゃんと電話が通じて』
「桃花だから、電話に出たんですよ」
アルは女の子が喜ぶような言葉を言ってみる?そしたらきっと彼女も喜んでくれるかもしれない。そういう打算的な感情がまだ自分の中には残っていた。
『私だから電話に出てくれないって言われたらどうしようかなって思いました』
「……それは……そんなことはありえませんよ。遊園地もとても楽しかったです。一緒に、たくさん楽しむことができて」
『結局、夜になる前に帰っちゃいましたけどね』
「女の子より遅くまで歩かせるわけにはいきませんよ。そんなことをして危ない目に遭ったら、僕が悲しいです」
これは本心だった。
小さくて柔らかくて可愛らしい彼女たちが傷つくのは見たくない。だから暗い場所を歩かせないようにするし、お金だって多めに出す。
それが「勘違い」させる行為だったとしても、アルは自分のその信念だけは曲げたくないと思っていた。
『そう……ですか』
「桃花?」
電話口ではっきりと彼女の声色が変わるのを感じた。どこか吹っ切れたような、そんな感じの言葉遣いだった。
『私のことをそうやって思ってくれるのはとても嬉しいです。でも……そんな風に思わなくてもいいですよ?』
「どうして……?」
『結構ひどい扱いされてるに、慣れてるんですよね。浮気とかそういう裏切りも結構されたし。だから……そうだな。優しくされるのは嬉しいけど、優しくされすぎると困っちゃうんですよね』
「……」
アルは自分の指先に力が入るのを感じていた。
その言葉だけで何が言いたいのが罰してしまうような気がして、それがひどく嫌だった。彼女のそんな言葉を聞きたいがために、ここまで彼女と付き合ってきたわけではないはずなのに。
「僕といて楽しくなかったですか?」
むしろ、飯田編集長から桃花の話を聞いて、きっと彼女はアルの「望み」を叶えてくれると思っていた。だからこそ、桃花の「望み」を叶えようとしていたのだ。きっと桃花はアルのことを気に入ってくれたと思っていた。
『……むしろ逆です。楽しすぎるというか……思い出しちゃうんですよね。どうしても。それでやっぱりいろいろ友達とかに話聞いてもらって。だから、覚悟ができました』
「覚悟、ですか?」
『はい。私はとてもいい『作品』を作れましたから。今もカメラを片手に。一緒に撮った写真たくさん見返してたんです。どんなあなたも王子様みたいにキラキラしてとても素敵だなって思う。だから、そのお礼が言いたかったんです』
「……お礼なんて……」
綺麗に写真を撮ってくれたそのお礼を言うべきなのは、アルの方だとわかっている。それなのに、逆に彼女はお礼が言いたいと言ってくれた。
『だからあなたが何に私を巻き込もうとしてるのか分からなくても。でも、それをちゃんと付き合いたいって思うんです』
「……桃花は優しいですね」
彼女もきっと、覚悟をしてくれている。
それが伝わってきてしまう。だからこそ優しすぎると思うのだ。それこそ、アルにはもったいないくらいに。
『優しくなんて』
「とても優しいですよ。普通だったらこんな得体の知れない男の話なんて聞いたりはしませんから」
『それなら、私にたくさん『作品』を作らせてくれたことを感謝してますし……』
そういわれて、アルは初めてそこで後悔してしまった。彼女を巻き込む必要なんて本来はなかったはずだ。だが、都合のいい所で彼女が現れたから、思わずそこで巻き込むことを決めてしまった。彼女になってした方がきっと喜ばれるだろうと思った。
自分がいれば、桃花はきっと、望むものを手に入れられるだろうから。
だからこそ協力した方がいい、とそんな風に思っていた。
「謝ってもいいのでしょうか?」
『え? 何か謝られるありましたか?』
本気で不思議そうに聞いてくる。それがまたドキドキとして胸が痛む。
「いきなりキスしてしまったことです。あなたの同意もなく、そんなことをしてはいけなかった」
『あれは……でも、きっといろんな人が喜ぶと思いますよ?』
「桃花が不愉快な思いをしていたら、何も意味はないんですよ」
『……』
また、考えるような沈黙が訪れた。
もうすでに始まってしまっている。だが、かろうじて留まることができる程度の範囲に収まっているのは事実だ。
もしもここで彼女がそれを嫌がったとしたら、その時はきっぱりと断った方が良いのだろうとそれぐらいは分かっている。