「僕ではきっとすべてを助けることはできないかもしれないけど。でも……それでも、泣きそうなあなたの涙を拭くぐらいはできますよ」
こんなふうに心を揺らしてきて、こっちを無責任にドキドキさせて、そういうやりとりは画面の向こうだけで充分だと思っていたのに、それだけじゃ物足りないなんて、そんな事思わせてくれるほどにとんでもない感情を揺さぶってくる。そんな王子様、桃花の趣味ではないと思っていたはずなのに。自分でもこんなに簡単に触れさせてしまっている。
「あなたは一体どこまでを知ってるんですか?」
多分、アルは桃花のことを知っている。
それは薄々わかっていた。そうでなくては、こんな距離の詰め方をしたりはしないはずだ。
桃花が嫌がることを的確に避けて、そして楽しいことだけを提供しようとしてくれている。
それはきっと桃花のことを知っているからだ。どこまで知っているのかわからないが、少し調べたらどこかの掲示板にはそれらしき情報くらいは書いているのかもしれない。
あるいは、あの頃の事を知っている知り合いに当たれば、もしかしたら断片的な情報くらいはもらえるかもしれない。
桃花のことを調べようと思うならば、そのくらいたやすい。
「どこまででしょうかね? でも多分、僕はあなたが想像しているよりも、よっぽど不器用だと思いますよ」
アルの言葉は、嘘をついているようには見えなかった。
「……アル、お願いがあります」
アルが本性を覗かせている。
それがわかっていて、桃花は卑怯なお願いをするのだ。
ずっと隠していたことをそのまま曝け出す。
それは、いつも勇気がいることで、大抵は拒絶されてきたことだった。
「はい。なんでも言ってください」
「完璧な写真集を作ってみたいんです。私の『作品』として。そのためにあなたが不可欠なんです」
唇が震えてしまっているのを感じる。これ以上、最後まで言ってしまえば、きっと後戻りができないことは自分でも分かっているのだ。
「それなのに、アル、私はあなたのことをもっと知りたいなんて、思っているんです」
そう口にしてしまった瞬間、彼がとてもいい笑顔で笑ったのを桃花は見逃さなかった。
まるでその言葉をずっと待ちわびていたかのような。そんな吸い込まれるような笑顔だった。
先ほどまで写真に撮っていた時も綺麗な笑顔だった。しかし、今まではただ綺麗というだけで完璧に計算しつくされた笑顔だったにもかかわらず、今回はそうではない気がした。
もっと生々しい。人間が見てはいけないモノから無意識に目を逸らしていた時のような、そんな人間めいたものが前面に押し出されたような穏やかなのに、その底にある何かがくすぶっているような笑顔だった。
「……ありがとうございます、桃花」
「……」
それはどういう感情を表しているのだろうか。
喜怒哀楽なんて言葉があるけど。そんな単純なものでは無い気がした。
「やっとそうやって興味を持ってくれましたね」
「……私が興味を持つのを待っていたんですか?」
「ええ。でも誰でもいいわけじゃなかったんです。いろいろと条件が厳しくて。その中で合致するのが、桃花でした」
「私を何のために? どういう理由で利用したんですか?」
その言葉に、アルは回答しなかった。
その代わりに、にっこりと笑った。
「それは今度話しましょう。今度あなたに会った時に、あなたはちゃんと決めればいい。桃花、君に何もかもを話しましょう」
「今度会えるってわかるんですか?」
携帯の電話番号しか繋がりはない。
だから、今アルの目の前で携帯電話を壊してしまえば、それだけで簡単に繋がりは切れてしまう。その程度の細いつながりしかないのに、それでもちゃんと会えると確信している。それがまるで答えのような気がした。
「はい。お待たせする時間は長くないです。だからその時にちゃんと話をしたいと僕は思っています」
アルはまるで何かを確信しているかのようだった。
そしてにこやかに、流れるような手つきで桃華の肩を抱き寄せてそっと抱きしめてくれる。誰かをこうやって以前にも抱きしめたことがあるかのような手慣れた手つきだった。
(それは当然だって思っていたけれど)
そんなにきれいな人が誰かを愛したことがないなんて、それこそさすがに嘘だ。だからそこに対しての失望はなかった。
されるがままになっている桃花に対してアルは言った。
「だから、あなたの夢を叶える決断をしてくださいね。きっとそれが、僕を救うことにもなるかもしれませんから」
そう言いながら、彼の指がそっと頬に触れると、桃花は一瞬息を止めた。真昼の静寂の中、風がゆるやかに吹き抜け、二人を包む。陽光が二人の間に流れるように降り注ぎ、その淡い光が彼女の瞳に映り込む。彼の手は、桃花の頬を撫でるように、温かく優しく滑らかだった。
(この人、キスまで優しいんだな)
多分逃げようと思えば逃げられた。拒絶しようとすれば、それを止めたりはしなかっただろう。それがわかるような手つきだった。
唇が近づくにつれ、世界がふわりと静まっていくような感覚が広がる。音も、時間も、すべてが遠ざかり、ただ二人だけがその瞬間に存在している。桃花の心臓が微かに高鳴り、アルの鼓動が静かに響いているのが感じられる。
(それなのに、唇まで冷たい)
その瞬間、唇が触れ合った。まるで柔らかな羽が頬に触れるかのように、繊細で優しい感触。だが、それでも桃花の心は冷めきっていた。
どこかで頭の中が冷静になっている。
先ほどまでの興奮が、まるでどこかに消えていってしまったかのような、そんな自分の感覚がいやになった。
「約束ですよ?」
「……はい」
たぶん恋なんてしたくなかった。
でも、アルのことを好きになりかけていた。
だからこそ、桃花にはわかってしまうのだ。
(この人にはこの人なりの企みがある。それに巻き込もうとしている。そしてそれは……多分、最初から計画されていた。こうして、私にいろいろなことを隠しているのもきっと……)
そう思いながら、桃花はまっすぐにアルを見つめていた。
「さて、じゃあ遊びましょうか」
「え?」
あまりにお互い感傷的な気分になっていると思ったら、いきなりそう言われて桃花は拍子抜けした。そこまでの切り替えの良さをさすがに桃花だって持ちあわせていない。
「だって、まだ遊園地は続いていますし。閉園まではまだまだ時間がありますよ?」
「それはそうですけれど……!」
「だから、もう少しだけお願いします」
それはまるで本気で頼んでいるかのような言葉だった。こんな時間がもうすぐ終わってしまうことを予想していて、だからこそこうしてその時間を惜しんでいるかのような、そんな口調だった。
「……わかりました」
だからこそ、きっと桃花もそれに了承してしまったのだと思う。
(企みがあったとしても、今はきっとそれを出したりはしてこない、これ以上は今は探れない)
そう思ってしまえばなんだかすっきりとしてしまう。
「あの、夕焼けの写真もお願いしてもいいですか? ジェットコースターくらいは付き合いますから」
「はい! もちろん、桃花の気のすむまで」
お互いにお互いを利用しようとしているのだから、これぐらいは当然だ。それにもうすぐ夕焼けの空も出てくる。きっとこれから、西に照らされて王子様はきっととても綺麗だろうから、それをぜひとも写したいと、そっちの欲望の方に桃花は傾いてしまったのだ。