桃花だってどうしたらいいかわからなかった。
こんなの、桃花にとっても予想外だった。
気がつけば、そのまま人気のない場所まで走っていた。
「はあ……はあ……あ、あ……ああ……」
気がつけば指先が震えてしまっている。困ったのだからそう呟けば少しぐらい楽になれるかもしれないのにそんな言葉を紡ごうとするために唇が無意味に揺れるだけだった。
(こんな風になったのは久しぶりかもしれない。ここまで自分が壊れるなんて思ってもみなかった。こんなにおかしいとわかってるのに、それなのに止められない)
とっくに克服していたと思っていたのに、こんなところで顔を出すとは思っていなかった。
(そういえば、アル以外の男の人とあれからまともにこういうふうに遊園地に行ったこともなかった……)
「楽しすぎて忘れていたなんて、思ってもみなかったけど」
錯乱した唇から紡がれた言葉は、自分でもおおよそコントロールできないものだった。
忘れられると思っていた。そもそも忘れていたと思っていた。そんな記憶ばかりがよみがえってきて、そして自分の中を壊して行く気がして、桃花は空を見上げた。
「こんなの、ちゃんと忘れることができたらよかったのにな」
このまま逃げてしまおうか。
「作品」はたくさん出来上がっているこの中のものを調整してみれば、きっと依頼主が望むような「王子様」の写真を撮れているに違いない。
夕方の写真はまだ取れていないが、育って色調補正をすればある程度ごまかしはきく。きっとそうしてしまえば、もう二度と彼に会うこともない。
そこまでの卑怯な考えが桃花を覆いつくした時だった。
「桃花!」
「……え?」
アルが追いかけてきてくれていた。きっと全力で走ってくれたのだろう。その下にはうっすらと汗がにじんでいる。
「探しました。いきなりいなくなるから、どこにいるのかと思って」
「……すいません」
このまま帰ってしまって、もう二度と会わないでおこうと思っていましたとは言わなかった。
ただ、謝ってみた。
きっとアルからしてみたら、不快にさせてしまったことだろう。これだけきれいな男の人なんだ。きっといろんな女の人に優しくして来ただろうし、その女の人達も尽くしてくれたに違いない。
だから、こんな風にわがままを言って困らせているのが自分だけなのだと自覚させられてしまう気がした。
「謝らないでください。僕が悪いんです」
「……アル? あの、あなたが悪いんじゃないですよ。ちょっと嫌なことを思い出してしまって、それで……すみません。私、仕事中なのにそういうのは失格ですね」
ファッションフォトグラファーとして、モデルに嫌味を言われることくらい慣れておかなければならない。もちろんいい人たちはたくさんいるし、こだわりが強すぎて、その結果、言葉が強くなってしまいすぎる人がいることもわかっている。それでも傷つかないというのは不可能だ。飯田編集長からも、「望月くんは自分の作品に没頭できるところがいいと思っているよ」と褒められている。
実際にファッションフォトグラファーとして入ってきても、自分が思っていたことができないということを理由に、悩んでやめてしまう人も多い。だからこそ、そうならないためにも、心を守っていかなければいけないことはよくわかっている。
(しかも今回は嫌味でもなんでもない。ただのアルの本心を聞かせてだけなんだから)
「違います。僕が……あなたを悩ませてしまったからこそ、こうなったのだと思います」
「アル?」
アルが言いたいことがよくわからなくて、桃花は彼の顔を見つめた。
なやませてしまった。
ということは、もしかして、アルは桃花が、彼のことを好きになってしまったからこそこんな風な態度をしていると思っているのだろうか。
「それは、違います。だって……私は……」
「桃花」
静止するような言葉が聞こえた。
しかし、それでも止め切れなかった。
「私はもう誰も好きにならないんです。誰とも恋なんてしたくないんです。だからあなたが私に対して、自分のことを知らないで言ってそう思ってくれるのが嬉しいと言われた時、私の方こそ嬉しかったんです」
「君は……」
「だから、あなたに優しくしてもらえて嬉しかったです。でも、それだけなんですから」
わかっている。
どれだけかっこよくて素敵な人だとしても、ただの一回の初デートで、しかも、会ったとだって数回しかない、本名さえ知らないような男の人を好きになることが異常だってことぐらいわかっている。
だからちゃんと適切な距離を取らなくちゃいけない。
お互いが不愉快な気分にならないように、お互いのため思って。ちゃんと距離を取って彼に対しても勘違いさせないようにしなければならない。それはよくわかっている。
「……それでもちゃんと謝らせてください」
アルはいう。
「僕はあなたにひどいことをしています。それに対して、口では何と言ったところで、あなたを傷つけている」
「……アル?」
「その証拠に、桃花に嫌なこと思い出させてしまったんですよね」
手を伸ばされる。
そっと頬に触れる感触は思っていたよりも冷たかった。
それでもその大きな手は、桃花を殴ってきたりはしなかった。
まるで本当の王子様だ。