「その代わりにこれあげるわ」
京志郎がさし出した名刺は、一目で彼の個性を感じさせるものだった。名刺の質感は、手に持つとすぐにわかるほどの高級感があり、マットな黒い紙がしっとりと指に馴染む。光を吸い込むような黒地の背景には、狐の面が彫り込まれているらしく、控えめな光沢が微かに光を反射していた。
「中百舌鳥、京志郎」
銀の箔押しでその男の名前が書かれている。行書体で書かれたその字を思わず読み上げる。
それから電話番号とどうやら事務所らしきビルの名前が書かれていた。
「かっこええやろ。これでもなかなかの自信作なんやで。やから、こっちの名刺は気に入った子にしかあげへんって決めてるんよ」
「こんなの、もらってもいいんですか?」
いくらなんでもこれは個人情報が含まれすぎている。こんなものを本当にもらってしまってもいいのだろうか。
桃花はそう思って京志郎に尋ねるが、京志郎は「ええねん、ええねん」と手を振るばかりだった。
「うん、俺も桃花ちゃんのこと気に入ったし。あ、そっちも名刺ある?」
「は、はい。普通のですけれど」
名刺をもらってしまった上に、名刺が欲しいと言われてしまうとクセでついつい桃花も名刺を差し出した。
黒背景でもなければ、銀の箔押しもない。ただただ普通の、オスカー出版の望月桃花であることが書かれただけの何の特徴もない名刺である。
「わあ、ありがとうなあ」
そんな名刺を、京志郎は意外にもちゃんと両手で受け取ってくれた。とんでもなく、破天荒な恰好とは裏腹に、そういうところの行儀作法をきちんとしているのが伝わってくるような所作だった。
(そういうギャップも、洗練されているというか)
ギャップの部分も確かに「作品」としては綺麗なのかもしれない。それを京志郎の言うように「セクシー」さにしてみれば、退廃的な感じを好む相手からはきっと、絶賛されるような「作品」ができるのではないだろうか。
(ちょっと待って、それはまずい……よね)
一瞬、京志郎さえ作品にすることを考えて、慌てて首を振った。
「これ大事にするわ。桃花ちゃんも、なんやこのイヤな顔をした男に嫌なことをされたんやったら、いつでも相談してきてな」
そんな桃花の様子に気がついてないのか、京志郎はニコニコ笑いながら名刺入れに桃花の名刺をいれて、立ち上がりながらアルをまた睨んだ。
桃花に微笑みかけていた時とは全く違う。本気で怒っているかのような、二面性のある笑顔だった。
「あんたの名刺はいらんからな」
「……ええ、そういうものを持ち歩かない主義なので。残念ですが、催促されても渡すことはできません」
アルは顔を崩さずに笑顔のまま頷いた。
それに京志郎は「イヤな男や」と呟いた。
「はあ、でもちょっとは気分転換できたかな。お礼言うわ、桃花ちゃん。俺ちょっと仕事行かなあかんから行ってくるな」
そして大きくその身体を伸ばすと、店員に「おおきに」とあいさつをして、そのまま立ち去って行ってしまった。
カランと、店の扉の鐘が鳴って出ていくまで、思わず桃花もアルもその後ろ姿を見守ってしまっていた。
「……すごい人ですね」
「は、はい……嵐のような人でしたね」
「もしかしてなんですが、桃花の知り合いですか? 例えばどこかしらの撮影であったとか」
「い、いえ、そんなはずはないかと! ていうか、あそこまで個性の強い人だったら、私もさすがに忘れませんよ」
確かに雑誌の撮影の中で、個性の強い人というのは確かにいるものだ。しかし、あそこまで見た目からして個性が爆発しているような人はなかなかいない。
それに名刺の名前を携帯電話の名前で確認してみても、やはりあんな名前をした人は一人として桃華の知り合いにはいなかった。
「それよりも、あの、大丈夫ですか? なんか結構なこと言われてましたけど」
それよりも桃花はハッとしてアルのことを確かめた。
さすがに初対面の相手に、「死人だの」「ろくでもないことを企んでいる」などと言われてしまえば、完璧なアルでもさすがに少しは落ち込むのではないだろうかと危惧したのである。
「いえ、大丈夫ですよ」
しかし、アルは平然と笑ってみせた。
「こういうことは言われ慣れているんです。だからあの程度で何も思ったりはしませんよ。安心してください」
(……この人は一体何を隠してるんだろう)
そう平然と笑うアルの顔は、どこかいつにも増して輝いているようにさえ見えた。とても綺麗で触れ難い。触れてしまえば壊れてしまうような、そんな笑顔を浮かべている。
そんな笑顔をされてしまうだけで、普通の人はそれ以上何も問いつめることなんてできなくなるだろう。この笑顔が曇ってしまう。それがひどく、恐ろしいことに思えるからだ。
(それをきっとアルはわかっていて、こうして笑っているんだ)
それ以上問い詰められないように、内容に自ら壁を作るようにして笑顔を作っている。
それを慣れた調子でしてしまうアルの、その先の顔に、桃花は何か不穏なものを感じてしまった。