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第16話 とびきり甘く、とびきり苦く

(あれ……?)


 おかしいなと思いながら、もう一度力を入れて立とうとするものの、なかなか足に力が入らない。まるで自分のものではないかのようにいうことを聞いてくれないようだ。さすがにこれはまずいと思って、今度はゆっくりと立ち上がれば、なんとか立つことができた。まだ少しふらつく感じはあるけれど、歩けないほどでもない。これなら大丈夫だろうと安心したところで、目の前に手が伸びてきた。


「無理しないほうがいいですよ」


 それはアルの手だった。差し出された手に戸惑っていると、アルはさらに手を伸ばしてきて、そしてそのまま手をつかまれてしまった。


(っ!?)


 驚いてとっさに引っ込めようとしたのだが、それよりも先に手を引かれた。


「ほら、カフェで休みましょう。ちょっと一生懸命になりすぎちゃいましたね?」

「すみません」


 まさかこんな短時間で、自分でも気づかないうちに疲労困憊してしまうとは思いもしなかった。それだけ夢中になっていたということなのだろうが、やはりプロとしては失格だろう。


(恥ずかしい……)


 そう思いながら、アルに手を引かれるまま、桃花は歩いた。しばらく歩いていると、だんだんと足取りもしっかりしてきた。そうしてたどり着いた先は、すぐ近くのカフェテリアだ。店内に入るとコーヒー豆のいい香りが漂ってきた。

 席に案内されると、アルはすぐにメニュー表を渡してきた。そこには様々な種類の飲み物や軽食が並んでいる。中にはパフェまであった。


「何か食べますか?」

「えっと……」


 正直いうと、甘いものを食べるような気分でもない。どこか緊張していて、それなのに楽しかった。そこから引き離されて、現実感を取り戻そうとしているような感じだ。


「大丈夫です。それよりも、ごめんなさい」

「何がですか?」


 きょとんとした顔で首を傾げているアルに向かって、桃花は頭を下げた。


「私のせいで、こんなに長くいきなり写真を撮るなんて」

「僕はかまいません。そもそもそういう約束でしたし」


 それに、とアルは続ける。


「僕が最初に言い出したことですから、桃花が気に病む必要はありません」


 そう言って優しく微笑んでくれたアルの顔を見ていると、なんだか申し訳なくなってきてしまう。


(……なんか調子狂うかも)


 なんとなく気恥ずかしくて目をそらしていると、店員がやってきた。注文したコーヒーをテーブルの上に置くと、丁寧にお辞儀をして去っていく。そのあとで桃花は再び頭を下げるしかなかった。


「本当にすみませんでした」

「ですから気にしないでくださいって」


 そういいながらカップを持ち上げるアルだったが、なぜかじっとこちらを見つめてくるだけで、飲もうとはしない。どうしたのかと首を傾げる桃花を見ながら、アルは小さくつぶやいた。


「ふむ……僕のこと少し教えてあげましょうか?」

「え?」


 そういわれて軽く顔を近づけてみたものの、コーヒーの香ばしい匂いしか感じない。いったい何を言っているのだろうかと思っていると、彼は続けた。


「僕、実はブラック派なんですよ。とびきり苦いものがいい。これもブラックです、しかもとびきり苦いマンデリンです」


 その言葉にはっとして顔を上げた桃花の視線の先には、いたずらっぽく笑っているアルの姿があった。


「そう、なんですか?」

「はい。紅茶は甘くしたいんですけれどね。でも、あの時はスムージーでわからなかったでしょう?」


 それは遊園地の約束を取り付けた日のことだとすぐにわかった。あの時は二人で白桃のスムージーを注文したから、そんなこと知らなかった。

 もしかしたらアルについて知れるのは、ものすごく貴重なのではないか、そんな感情が桃花の胸によぎる。


「ついでを言えば、紅茶はとびきり甘いのがいいです。だから、紅茶にはイチゴのジャムが欠かせないんですよ」

「は、はあ……」


 そこまで言われてしまうって、桃花はあっけにとられた。


(この人、もしかして緊張を解そうとしてくれている……?)


 そう思った時にはもう遅い。くすくすと笑う彼を見つめながら、顔が熱くなるのを感じたのだった。


「僕はそういう人間です。桃花はコーヒーをどうしたいんですか?」

「普通にミルクと砂糖をいれて飲みますね」


 苦いものは苦手だ。甘いものが好きだし、どちらかといえばジュースとかの方が好きだと思う。そういった意味でいうなら、紅茶だってストレートではなく、はちみつの方が好みだ。そういった意味を込めて答えてから、はっとして付け加えた。


「あ、でも、気合を入れたい時には、ちゃんとブラックを飲みますよ。締め切り間近の時とか!」

「ふうん?」


 アルはとびきり苦いコーヒーにまた口をつける。


「だったら、桃花はそのコーヒーをどうやって飲みますか?」

「え?」


 指をさされるカップ。そこにはアルのように苦いものなどのこだわりもない、ただのオリジナルブレンドのコーヒーと念のためにもらった砂糖とミルクが置かれている。


「僕と今からまた写真を撮るのでしょう? だったら少しでも美味しく飲めるようにした方がいいんじゃないですか? それとも気合を入れるために、そのまま飲みますか?」


 そういって笑ったアルの顔はとても綺麗で眩しかった。一瞬だけ見惚れてしまってから、我に返って桃花は慌てて首を振る。それから目の前のコーヒーを見た後で、再び口を開いた。


「そうですね……だったら、その、ブラックで」

「ほう?」


 アルはそれに首をかしげる。その理由を聞きたがっているのだとわかって、桃花は言葉を続けた。


「私は、今日は素敵な写真を撮らなくちゃいけません。それに、あなたのことも楽しませたいんです。だから、気合をいれるためにも、このまま飲むことにします。まあ、正直に言うと本当は苦手なんですけど……」


 苦笑しながらそう言うと、今度は逆にアルがぽかんと口を開けていた。しかしそれも一瞬のことで、すぐさま笑い出したのだった。


「……あははっ! ああ、なるほど。確かにその通りだ」

「な、なんで笑うんですか!?」


 急に笑われて恥ずかしくなってしまった桃花は思わず大きな声を出してしまい、周りの客の視線が一気にこちらに向いている気がする。


「いえ、僕を楽しませてくれるんだなって思って」

「そ、それは当たり前じゃないですか!」


 桃花のためにここまでアルは協力してくれているのだ。そんなアルの気持ちをそっちのけで、写真を撮るなんて二流もいいところだ。だから、気合いを入れなければならないというのに……。


(ああもう……私のバカ……)


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