『それでそのまま王子様とご飯行って帰ってきたの?』
「そういうことになる……かな」
パソコンのモニターで画像編集をしながら、作業通話をしていた桃花は綾乃に「王子様」の話をしていた。
あちらも仕事がかなり忙しくなったらしく、「緊急の仕事を夜中に持ってくるとかありえないと思わない?」と電話口で明らかに不機嫌な様子で話をしていた。布を切る音が定期的に聞こえてくるから、それほど余裕はないらしい。今も、ミシンと布を切る音と、それから何か金属のぶつかるような音が響いている。
「名前も新しく教えてもらってないし、連絡先も……多分、サブスマホとかの電話番号みたいなのしか教えてもらえなかったし」
桃花がそう思ったのは、何も確証がないわけではない。
アルから教えてもらった番号は、スマホから直接ではなくあえてメモ書きで書いてあった。
今どき、どんなメッセージアプリを使っても、直接コードを表示すればいい。ということはそのひと手間を加える必要があったということだ。
『ふうん。でも、その後、コンセプトカフェ、だっけ? そこに行ってから、別になにもなかったんでしょう?』
「何もないどころか、そのまま平和に駅まで送ってもらった。しかもご飯までおごってもらって、また画像の編集が終わったら見せてほしいって」
そのコンセプトカフェでも写真を撮りたかったがさすがにやめた。どれだけ綺麗であっても、アルはモデルではない。だから、あれだけ外でたくさんの写真を撮らせてもらったのだ。これ以上欲張ってしまって彼は疲れ切ってしまうのは嫌だと思った。それにこれはアルへのお礼だ。だから、彼に素直に楽しんでもらいたいと思っていたのだ。
『それだけ?』
「それだけ。手の一つも握られなかった。もちろん相手の好みじゃ無いってのもあるかもしれなかったけど」
あまりにあっさりとした「お礼」である。
というか、この場合、ごはん奢らなくてはいけないのは、どちらかといえばモデルをしてもらった桃花の方だ。
それをアルは「そんなことはしなくていいから、キミの作品を楽しみにしているよ、桃花」と笑ってきただけだった。
『うわあ、それはすごいね。なんていうか、それってさ、桃花の理想に近いんじゃない』
「やめてよそういうの現実で期待しないって心に決めてるんだから」
桃花は無理やり笑顔を作った。あの時から、そういうなんてものは期待しないことに決めたのだ。そうすれば絶対に自分は傷つかないし、相手に期待することもない。だからしんどくない。そういう生き方をしようと、そうしないときっと、あの時の自分は立ち直れなかった。
「でも、ああいう感じってやっぱりいいと思うんだよね。ゲームの王子様も、絶対に結ばれるまでは手を出したりしないでしょう? それがどんな遊び相手であっても」
ただ、それが二次元キャラであれば話は別である。
もちろん年齢制限などもあるから、生々しい描写を避けているということもあるが、基本的にああいう世界の王子様はヒロインに対してはとてつもなく一途である。
恋敵に取られそうになってしまっても、健気にヒロインのことを守ろうとして、傷つく。そんな時にヒロインが自分に与えられた本当の能力に目覚めて王子様を助ける。そういうゲームのシナリオは桃花も好みだった。アニメや映画でも、そういうストーリーだったら、文句なく見に行っていた。
『それは……夢見すぎだって。それに入れ込みすぎたら傷つくのは、桃花の方だからね?』
電話口の向こう側から、それこそ絹を裂くような、そんな高い音が響いた。
綾乃が今手がけている服は、緊急で作らなくてはいけないわりには、素材やデザインにもこだわっているものであるらしい。そこまでわがままを言える相手はどんな相手なんだろうか、と桃花は少し想像してみる。
そういえば、アルは女性の服でも着こなしてしまいそうな圧倒的なオーラがあったなと思い出す。決して彼が、女性に間違われそう、というわけではないのだが、ユニセックスの服なら簡単に着こなすだろう。パソコンの中の編集上の彼は、そんな雰囲気を漂わせていたのである。
「当たり前でしょ? こっちはまだ名前もまともに知らないんだから。まあ、名前も出身地もなにもかも知っていたとしても、それでもろくでなしはろくでなしだし」
桃花はそういって軽く笑った。
若かったころは、付き合ってキスをして、そうやって段階を進めていけば、相手の事は全てわかると思っていた。親に挨拶をして、そして結婚できる。
だから、同棲だってその前の準備段階。
彼氏が一晩中帰ってきてくれないとしても、そういう性格なんだから仕方ない。
知らない女物の香水も、桃花のものではない、長い明るい色の髪の毛も、見て見ぬふり。
なんでもかんでも、そうやって自分の中で納得させてきた。
『桃花が言うと説得力が違うわ』
「当たり前でしょう? それくらい私だってちゃんと学んだんだから」
その結果がひどく傷つくかもしれないと、途中で分かっていたとしても、坂を転がり始めた石は、簡単に止まることができないのだ。
「だから……まあ、楽しかったって素敵な思い出にしておきたいだけなんだよね、これも」
桃花は一人で苦笑しながら、写真の明るさを変える。
カメラの背面スクリーンの中では、顔が見えなかった彼のその表情が、指先でマウスを操作するとはっきりと映る。
綺麗な青い瞳がこちらを見ている。
唇を優しく歪ませて、整った顔立ちをしている彼は本当に絵になりそうなほど美しい。
桃花が作品にしてきた人の中でも、ここまで綺麗に写真にできた人もなかなかいなかったと思う。
「あれ……?」
それなのに、その手が止まる。
『どうしたの、桃花?』
電話の向こう側で綾乃も、桃花に聞き返した。桃花に何か起こったのかもしれないと心配してくれたようだ。
「う、ううん、なんでもない」
それを無理やり桃花は誤魔化す。それから、マイクから顔を離してぽつりと言葉を零す。
「なんで……こんなに……?」
思わず画面をなぞった。
画面に映る「王子様」。
明度あげてその顔が見えるようにしたその綺麗な顔は、どこか悲しげな気がした。