その変化を捉えるために、桃花は何度もシャッターを押した。男は自然体で立ち続け、その姿勢が彼の魅力を一層引き立てていた。
「じゃあもう少しお願いしますね!」
人々の喧騒が少しずつ戻り始める中で、桃花は撮影を続けた。通り過ぎる車や、歩行者の動きも計算に入れながら、背景のバランスを取った。男の存在感が際立つように、少しずつ角度を変えて、そうして何枚も。
「随分な枚数を取りましたね」
結局、優に一時間くらいは王子様に撮影に付き合ってもらってしまった。
さすがに彼の方も集中力を持続させるにはかなりの気力を使ったらしい。その白い額には、薄っすらと汗が滲んでいた。
「えっと……なんだか、すみません」
桃花は思わず謝った。
モデルのことを考えるのも、フォトグラファーとして必要なスキルである。
それがわかっていたにもかかわらず、思わず夢中で撮り続けてしまった。多分、飯田編集長に「それは初歩的なことだよね」と釘を刺されるくらいはありそうだ。
「いえいえ。かなり夢中だったのがわかりましたから。けっこう面白かったですよ。そういう姿を見るのも久しぶりですし」
「そう、ですか?」
(こういう撮影に、やっぱり慣れてる人なんじゃないだろうか?)
それに、モデルである彼がそれにずっと付き合ってくれていたという事も大きい。
モデル撮影はただ立っているように見えても、かなり体力のいる仕事である。
特に複雑なポーズであれば、それだけでも体幹を鍛えなければいけないだろうしそうではなくてただ立っているだけでもつま先から頭のてっぺんまですべてに気を配って、美しく見せなければいけない。
そんなポージングを何時間も続けられるモデルは、相当な精神力が必要な仕事なのである。
「一番きれいに撮れた写真はどれですか? もちろんキミが思っているもので構いません」
「綺麗に、か。それなら、これ、ですかね?」
それは、桃花がふとした時に顔をあげた瞬間をイメージした写真だった。
昼下がりの柔らかな光が、完璧な角度で男を照らし出している。陰ではっきりとわからない彼の顔には穏やかな表情が浮かんでいるかのようで、唇の形だけがわずかにわかるそのシルエットは、まるで何か深い思いを秘めているかのようで、見る者を引き込む力を持っていた。背景には、東京のビル群が広がり、そのモダンな建物のラインが男の洗練されたシルエットを引き立てていた。風に揺れる木々の緑が、ビルの灰色と対照的に鮮やかで、それが誰であるのかわからないのに、どこか、足を止めたくなるようなそんな写真だった。
「修正とかにもかけていないのに、ここまで綺麗に撮れるなんて思ってもみなくて……」
「確かに、いい感じだ。でも、まだ足りないかな」
「え?」
「僕を知らないまま撮ってほしいというのは本当だけど。でも、それじゃあまだ足りません」
「足りないって……どういう……?」
そう聞き返そうとしたのに、その瞬間に言葉が止まってしまった。それぐらい彼の顔にはなんだかとても悲しそうな笑みが浮かんでいた。
何か、ひどく悲しいことがあったかのような、そんな笑い顔だった。
「ナイショ」
そうやって唇にそっと人差し指を当ててくる。とてもキザに見えるのに、その指から目を離せなくなる。そして、そのたった一言でどうしてか聞きたいと思う気持ちさえそぎ落としてしまうのだ。
(やっぱり、この人、年上……だよね? なんていうか、そういう表情されるとこっちも聞きづらいってわかってやってる……?)
なんとなくうまくごまかされた気がする。
「それよりも、ここまでのモデルをしたんだから、少し付き合ってもらえますか?」
「は?!」
しかし、そんな気持ちさえも、次の言葉によって完全に吹き飛ばされた。
「え、っと……それって?」
「ああ、色々と見ておきたいものがあったんだけど、それに付き合ってほしくて。それと、そうだね。やっぱり盛り上がるのに、一人は寂しいので」
そういいながら、彼はサングラスを取り出した。黒縁のかなり大き目のサングラスである。それをかける。目元を隠してしまうと、さすがに「王子様」であっても、どこか怪しい雰囲気がある。先ほどまでの視線がチラチラと向く様子はなくなっている。
「……え、ええ……?」
その瞬間、桃花が逃げ出せなかったのは、さすがに一時間もこんな風に付き合ってしまった、という負い目があったからなのだろう。
「……それで、ここに来たかった、と?」
「ああ! やっぱり素晴らしいな!! ほら、どこもかしこもアリス、アリス、アリスですよ?! やっぱりこういうコンセプトカフェは日本に限りますね! キミもそう思いませんか?」
サングラスをかけたまま、彼は興奮を隠せないようだった。
そうやって引っ張って来られたのは、日本有数の、オタク街のある駅だった。
事前に調べていたらしく、楽しそうにコンセプトカフェに入っていかれた。
そうしたらなぜかそのままコンセプトカフェまで連れて来られたのだ。
しかも、アリスモチーフの。
壁には不思議の国のアリスをモチーフとしたウサギやアリスのイラストが所狭しと並べられており、さらにハートの女王の兵士たちの甲冑も置かれている。床のタイルはモノトーンだが、壁からはこうするキノコが生えていて、天井にはシャンデリア。なんだかとてもちぐはぐな世界観である。
店内ではアリスやチェシャ猫に扮した店員がいるが、男性女性どちらもいて、メイド喫茶などとはまた違っているらしい。
「え、えっと、そうですね。あと、私はこういう者です。今更、ですけど」
先ほどまでの何も知らなかった時と比べて、テンションが不思議なことになっているというか、これが素なのだろうかと若干考えてしまう。だが、それ以上は聞けない。
代わりに桃花はとりあえず、名刺を差し出してみた。
(自分でも遅すぎるとは思っているんだけど……)
まったくもって自己紹介をする暇がなかった。電車に乗っていた時は、とんでもない場所に連れ込まれそうになったら、どうやって逃げるかだけを考えていた。だが、それでもついていくしかなかったのは、どうしてもこの写真たちを「作品」にしたかったからだ。そのためにも、モデルにもちゃんと許可をとって、正規の「作品」としたかった、ということが大きかった。
「どうもご丁寧に」
アリスに囲まれてはしゃいでいるはずの彼は、わりと予想以上に素直に名刺を受け取ってくれた。
(あ、そこはちゃんとコミュニケーション取ってくれるんだ……)
名刺を受け取ってくれるかどきどきしたが、そのあたりはちゃんとしてくれるらしい。
「ふむ……オスカー出版の……モチヅキ、モモカ?」
ついでに日本語もある程度読めるらしい。日本人離れした顔立ちはしているが、話している日本語になんら違和感はない。漢字もちゃんと読めている。
「はい。望月桃花、オスカー出版でファッションフォトグラファーをしています。一応、こちらは盗撮とかではないので……それで納得してもらいましたか?」
桃花は頷いて、彼に真剣なまなざしを向けた。
「ええ、では僕のことはアル、と呼んでください」
そしてみたらあっさりと名前を言われた。たぶん本名ではない。愛称だろうが。
「……ずいぶんあっさりしてますね」
アルからは名刺はもらえないことはなんとなく察していた。
そもそも最初からそこまで友好的なのであれば、自分のことを知らないでいてくれる人などとは言わないはずだ。
「呼び名がないとお互い不便でしょう? 教えてくれたのなら、それに礼を尽くすのがマナーだ」
自称アル、はにこ、と笑いながら、首を傾げた。
また、それが腹立たしいことに映えたのだ。先ほどならばいきなり出てきた街中の王子様という感じなのだが、このコンセプトカフェの中では、異世界の中で本当に出会った王子様のような顔に見えてしまう。
「まあ、そうですね。その、じゃあ、私は望月でも、桃花でも……どちらでも大丈夫です」
(これは本気で二次元キャラにもなりそうなんだけどなあ。こういう背景だと、アル……さんが余計に現実離れしている気がするし、それも似合っちゃうってすごいよなあ)
口で無難なことを言いながら、桃花は心の中で思わずそんなことを考えていた。
「では桃花、で」
アルもそれに頷いた。
男の人から下の名前で呼ばれることはなかなか久々だった。あの時は、食べるだけでも特別感があったのに、これだけ顔のきれいな男の人に生まれて、何ら特別感を見出せないのは、きっと彼が何も思ってないからかもしれない。
「それで桃花は何を食べますか?」
「えっと、じゃあサラダ、とか?」
「では、それにコースを頼みましょうか。安心してください。お代についてはこちらで全額払いますから」
そうやって、優しく笑ったアルは食事の仕方まで王子様のようだった。