「キミは僕のことを知らないでいてくれるみたいですから」
そう言われて、桃花は最初なにを言われたのか理解できなかった。
王子様とは今出会ったばかりだ。
こんなに綺麗な人、もしも知り合いにいたとしたら、絶対覚えているはずだ。それなのに、桃花は彼のことを知らない。
「……えっと、もしかして、どこかの事務所のモデルさん、とか?」
桃花だってファッションフォトグラファーのはしくれだ。万が一そういう業界の関係者であれば、それなりに気がつくはずなのである。海外モデルやハーフモデルは日本でもそれなりに活躍しているが、それならそれで目立つ。しかし、王子様はそういう感じではない。
「いいえ。不正解です」
王子様は笑顔のまま首を振った。
「だからあなたは合格。それだけの理由ですよ」
「……え、っと」
桃花としても、不正解だから合格というのはなんだか釈然としないものがあるのだが、今ここでこれだけ綺麗な人を写真に撮ることができるというのは、桃花にとってはあまりに魅力的なことだった。
「許可してもらえるなら、ぜひモデルをお願いします」
だからこそ、何を言われているのかよくわからなかったとしても、自然と頭を下げて王子様に頼むしかなかった。
「はい、喜んで」
そんな桃花に王子様はさわやかな笑顔で頷いてくれた。
「じゃあまずは、自然なポーズからいいですか? こう、街中でふとしたときに綺麗なものを目で追いかけるような、そんな感じにしてみたいんです!」
飯田編集長から言われたのは、「癒し」だ。もちろん自ら癒しに行く、ということもあるだろうが、そういう贅沢な癒しではなく、ストリートスナップで欲しいのは、ふとした時の不意打ちのように与えられる癒しである。
だから、彼には自然なままでいてほしい。
自分を意識していない。でも、こちらがこっそりと、疲れた時に綺麗なものを見つけて、つい目で追ってしまうような、そんな写真が桃花の頭の中で思い浮かぶ。
「だったらさっきみたいに本を読んでいたらいいですか?」
「そうですね。その時にほんの少しだけ顔上げてもらってもいいですか? それから本の背表紙も……こう、顔を隠さない程度にあげてもらって!」
考えだすと止まらなくなってしまった。それをそのまま言葉で伝えていくと、彼はにこにこと笑いながらうなずいてくれる。
モデルとしてはとてもやりやすい。
「こんな感じ?」
「はい。それから笑顔までいかなくても、もう少しだけ口元を緩めてもらってもいいですか?」
本を持ち上げて、顔がよくわかるように前を向いてもらう。ほんの少し口元を緩めて、笑顔の一秒前だけを切り取ったようなその顔立ち。
「うん、いいですね」
思わずそのままシャッターを切った。
ファインダーの中の、少しこちらをうかがうような彼はそれだけでとてもきれいな理想の「王子様」を一瞬でも逃したくなかった。
(二次元の王子様がそのままこっちに出てきたような感じがする)
実写映画などとは比べ物にならない。明らかなウィッグや化粧や加工ではなく、ただそこにいるだけで、自然に目が離せなくなってしまう程に魅力的なその顔立ちに、桃花は思わずそんな感想を抱いてしまった。
「綺麗に撮れましたか?」
「そう、ですね。ちょっと逆光がちになっているので……それを修正したら、きっと大丈夫か……と……?」
桃花がカメラの中の王子様を確認していると、急に影ができた。見上げるとそこには、彼が桃花のカメラを覗き込んでいた
(ち、近い!!)
すでに顔がものすごく近くにあった。睫毛の長さも、桃花の倍はあるんじゃないかというくらいに綺麗だった。
しかも真剣な表情でカメラのモニターを見つめてくる。
「ふうん。こんな感じに映るんですね」
「事務所の仕事用のものではないんですけど、でも、ずっと使ってきたカメラなんです」
もしかしたら、王子様もカメラに興味があるのかもしれない。結構大きなカメラだし、ミラーレス一眼なんて、モデルとかカメラマンではなければ、あんまり使ったことがないかもしれない。
桃花は笑って、彼にも見やすいようにカメラを傾けた。
「なら、他にも色々と撮っているんですか?」
「ええ。ほら、こんな感じに、綺麗な写真も一杯撮ってきたんですよ」
そこには幾つかの写真があった。最近、熱海の方まで海を撮りに行った写真を彼に見せた。夏の前だったから、それほど人が多くなかったものの、それでも観光に来ている人たちが何人か海にいて、その人たちを撮らせてもらったものだった。
「海だと太平洋側の方が青が濃くて……今の季節だととても映えるんです。まあ、さすがにちょっとこの時も逆光が強くて、上手く人の顔を撮れなかったんですけれどね……」
「ふうん……」
ちょうど新しいレンズを買った直後で、逆光でもどれだけ綺麗に人の顔が撮れるかどうかを試したかったこともある。
そんな時の写真を見つけられて、なんだか桃花は恥ずかしくなってしまった。
「いいね、これ!」
「え?」
だが、彼はそう思わなかったらしい。
「こういう感じの写真を撮ってもらいたかったんです! そう、こういう感じの、顔が映らない写真」
「えっと、これ、ですか?」
指さしてきた写真は、顔がほとんどうつってない女性の写真だった。長い黒髪とそれから春先にしては少し薄着をしていることは分かるものの、その表情に関しては逆行によって黒くなってしまっていて、ほとんどわからない。かろうじて笑っているのではないかと思える程度だ。
そんな写真が好きなのか、と思わず桃花は王子様の綺麗な顔を見つめてしまった。
「ええ。これなら顔がわからなくても、ポーズはわかりますし。今すぐこういう感じの写真は撮れますか?」
「え、えっと、はい……?」
思わず曖昧な返事した。
すると彼は顔をぱあっと明るくさせて頷いてきた。
「じゃあ、こんな感じでお願いします! 顔だけが分からない様にしてくだされば、あとは自由に撮ってもらってかまわないので」
「わ、わかりました」
なんだか変な気分だったが、桃花はそれから「王子様」の写真を撮り続けた。
奇妙な注文以外は、「王子様」は最高のモデルだった。
(すごい)
桃花はカメラを手に取り、レンズを調整した。ファインダー越しに見るその男は、まるで雑誌の表紙を飾るような輝きを放っている。通り過ぎる人々の視線も、自然と彼に引き寄せられているの
が分かる。桃花は、瞬間を逃さないように息を潜めた。
(こんなに写真でオーラが出せる人、そうそういない)
そう思いながら、シャッターを切る前に、彼は構図を慎重に確認した。建物のガラスに映り込む光の反射が、彼のシルエットを際立たせる。
風が吹き抜けるたびに、暗い金の髪が少しだけ揺れる。その瞬間、桃花はシャッターを押した。
一瞬で切り取られて桃花の作品になった王子様に、桃花は息を吐く。
「……今度は、こちら側から……いいですか?」
「ああ、もちろん」
(癒されるような写真。でも、モデルの希望があるから、顔出しをしないようにちゃんと陰で隠れさせなきゃいけない)
何度も頭の中で繰り返すのは、今回の依頼の条件である。それを達成していなければ、どれだけ美しい写真が撮れたとしても、それは彼女にとっては失敗なのだから。
「このあたりから、こう歩いてきた時の、ふとした感じを撮りたいんです。顔を上げたその一瞬にあなたが現われたような。そんな感じの!」
「うん。だったら、こっちに顔を向けましょうか?」
「はい。そう!! そんな感じです!!」
一枚目の写真を撮り終えた後、桃花は少し角度を変えた。日差しが少しずつ変わり、影が長くなってきた。男の顔に当たる光の加減が微妙に変化した。