初恋の時はキラキラしたものだって考えていた。
それくらいの夢。誰だって持っているものだったから。
同じようなものを私も抱いて、持っていただけの話。
それが簡単に打ち砕かれる事なんて知らないで、無邪気に信じているばかりの。
そんなつまらないものが、「初恋」。
「王子様……ですか?」
「そう。やってくれないかな? 望月くんならできると思うんだ」
飯田編集長ににこやかに言われて、望月桃花は驚きを隠せなかった。
「えっと、私は女性モデルの担当ですよね? そのほうが安心するからって」
御年五十五歳の飯田編集長は、むしろ年齢を経たからこそわかる、皺の深い優しい笑みで、桃花に笑いかけた。
「うん、そうだね。その方が女優さんも安心して仕事をしてくれるね。でも、それだけじゃあ、キミのカメラの腕がもったいないと思うんだ」
女優さんたちの色気なんかを引き出すためには、きわどいポーズをしてもらうことだってある。そういう時にやはり女性の方が安心するというのは、女優さんたちからよく出る意見だ。特に、桃花のような同年代の女性だと意見や要望も言いやすいという女優も多い。特に顔が十人並みで髪も目立たないように染めていないセミロングスタイルでライバル心を抱かれにくい、という自覚は桃花にもあるので、そのあたりではこの容姿は有効に働いている。
今まではそれで撮影アシスタントを経て、やっと一人前のファッションフォトグラファーとして認められたと思ったのに。
「やっぱり時代は王子様だと思うんだよね。綺麗でキラキラしていて、それでいて包容力があって安心させてくれるそんな存在を世の女性たちは求めていると思うんだ。だから、それを今度の写真集のコンセプトにしたくて」
飯田編集長が渡してきたのは、分厚い企画書だった。
桃花はそれを手に取って、パラパラと中身を見た。
いくつかのコンセプトが書かれている中に、「キラキラの王子様」、「カッコいいだけじゃダメ、癒しを与えてくれる人」などというキャッチコピーが次々に書かれている。
中にはキャッチコピーとともに、ソーシャルゲームの王子様の姿まであって、桃花はドキリとした。正直な事を言えば、その乙女ゲームのソーシャルゲームをやったことがあったからだ。
しかも、ちゃんと最後まで課金して。
「でも、現実でそういう男の人を撮るっていうのは、ちょっと……かなり背も高くないといけませんし、顔だって、王子様みたいな人って言うからには、現実離れした人ですよね?」
乙女ゲームに課金しているからこそ分かる。
現実の男なんてそんな王子様はそうそういないのだ。
いたとしても見た目ばかりで軽薄な男できっと浮気をするに違いない女を何人も泣かせてきて、それなのに自分はキラキラキラキラした容姿だけで、世の中のすべてを手に入れた。そんな気になってるに違いないのだ。
そんな鼻持ちならない相手を探すなんて、桃花は絶対にごめんだった。
「ああ、それはだいじょうぶ。ちゃんとかっこいいモデルさんのあてがあるからさ。その人とストリートスナップ、いくつか撮ってほしくて」
「え?!」
かっこいいモデル、しかも王子様みたいな人。
それだけで桃花は飯田編集長にバレてしまいそうなほど、頬を大きくひきつらせていたに違いない。
「だから、そのつもりでいてね。よろしく頼んだよ」
それなのに、編集長は桃花の気持ちなんてまるで無視して、軽くにこやかに笑って手を振った。
「……ってことなんだけどさ、困ったよね」
「いやいや、それ結構羨ましいんだけど。なにそれ、王子様みたいな人って!」
仕事終わり、桃花は同じく最近ようやく締め切りが終わったという、須田綾乃に声をかけた。
いつもの半個室の居酒屋。日本の漁船をイメージしたという、大衆居酒屋だったが、ここの魚はとにかく美味い。
大将が毎朝釣りに行っているというので、それを刺身にした盛り合わせが特に絶品で、綾乃の締め切り明けに二人で行くのが定番となっていた。
表のテーブル席ではサラリーマンたちが大きな声で話をしているが、予約しておけばちゃんと半個室に案内してくれるし、タバコもちゃんと喫煙室があるところが桃花も気に入っていた。
「どういう人なんだろうね。うちの編集長ってさ、温和で優しいんだけど、なんて言うかそこがしないっていうか変な人脈があるみたいなんだよねえ。それも海外とかにも結構知り合いがいるとかで」
ビールを一杯飲んでみたものの、なんだか飯田編集長の言葉がずっとぐるぐるしていて、なんだか何を食べても味気ないのだ。
桃花が大きく溜息をつくと、綾乃が刺身のイカに醤油を浸しながら言った。
「そういうコネってことは、結構な大物が来るのかもよ。それこそ海外の本気の王子様だったどうすんの?」
「まっさかぁ、そんなの来ないでしょ」
桃花はアルコールのせいで少し赤らんだ顔で笑った。
「そりゃあ、場数を踏ませてもらえるっていうことは有難いことだと思うよ。だって、現にここまでやってこられたのは飯田編集長の助けあってこそだし」
桃花のような男に不信感丸出しで、扱いにくい部下を飯田編集長だけは目をかけてくれていた。
アシスタントの時から、小さな商品紹介のページの写真を任せてくれて、桃花が撮った写真を見たインフルエンサーが宣伝し、SNSでも話題になって、だんだんと桃花が認められるようになったのだ。そういう素敵な物や人間を素敵に撮ることができるのは素晴らしい、と。
「でも……王子様みたいな人って、絶対現実にいないと思うんだよ」
「もう、桃花ってば、まだ引きずってるの?」
綾乃が訳知り顔でグラスを傾けてくる。しまったと思ったが、もう遅い。そんなことを言いたいがために、こんなことを言ったわけじゃなかったのに。
「……そういうわけじゃないけどさ」
王子様みたいな人。
そんな言葉がグルグルと桃花の中で湧き上がる。
『へえ、そんなに俺のことが好きだったわけ?』
『そりゃあチョロかったけど、さすがにずっとそばにいたいって言っただけで付き合ってるなんて思わないじゃん』
『王子様、だっけ。そういうの、重いわ』
染めただけの根元に黒が目立つような金髪。化粧しないとニキビ跡がどうしてもくれないような顔。でも、ちゃんと努力しているところは好きだと思った。
バンドマンとして、化粧をしてステージに上がってラブソングを歌う。
そんな彼のことは、本当の王子様に思えたはずだったのに。
「でも、やっぱり王子様っていうのは、二次元で十分かな」
「もう。そんなこと言って、また給料日前になって課金しすぎてお金がないなんて言わないでよ?」
「あ、あれは……ほら、ちゃんと貯金切崩さなかっただけえらいっていうか!! ちゃんと節制して、ガチャ石とか貯めているし!!」
綾乃がカラっとした笑いに変えてくれる。そういうところも桃花は好きだった。
お互いの事情がわかっているからこそ、踏み込んでいい場所を把握している。そういう心地のいい関係。
だからこうして女二人で飲んでいても、きっと楽しいのだろう。
「あ、それよりもさあ、聞いてよ。クライアントったら、ひどいんだから。なんか、やっぱり衣装のスーツ、高級路線でいきたいとかいきなり言われてさあ!! スーツの生地から全部変更なんて言われたの!!」
「え、なにそれ。ほとんどやり直しじゃないの?!」
「そうそう。だって生地が変わったら型も変わってくるでしょ。だからね……」
そうやって、桃花のまだ見ぬ王子様に関しての話は、すぐに次の話題へと乗り換えられて行ってしまっていた。