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第26話 乙女の階段はゆっくりと(2)


 恐る恐るバスルームから出てみると、テーブルの上には果物とサンドイッチと大きめのティーポットが用意されてあった。


あきらさん、あのさ…」


「お帰り、僕のさくちゃん」


 椅子までエスコートしてくれて、俺が座ったのを確認して、額にキスをしてくれた。一気に、顔の温度が上がったのが分かる。


「あ、明さんてさ、前々から思ってたけど… 以外とキザだよね」


こうには負けるよ」


 明さんはベストも脱いでネクタイを外し、ボタンも二つ程開けて、リラックスした感じだった。


「さっきの合コンで、全然食べてなかったでしょ? 僕もお腹空いてるから、一緒に食べよう」


 取り分けてくれたサンドイッチを目の前に置かれて、盛大に腹の虫が鳴いた。


「お茶?」


「この寒いのに、あれだけ露出していたんだから、確り温めた方がいいよ」


「慣れない格好させられて、寒さなんか微塵も感じる暇なかった」


 次に、紅茶が置かれた。レモングラスのほのかな香りが鼻先をかすめて、ちょっとだけホッとした。


「まだ、怒ってる?」


 どうぞ。て進めてくれるけれど、何となく手を出しにくい。明さんは俺の横に座って、淹れたてのレモングラスを一口すすった。


「合コンに来たことは、怒ってないよ。僕は航大に、さくちゃんは大島さんに計られたわけだしね」


 ああ、そうか、そう言うことか。全部あの二人の仕込みか。いや、少し考えれば、分かることだよな。


「ミオが言っていた黒いカードのスポンサーって、三上さんか。一史かずしは… たまたま、なんだろうな」


「たまたま、だろうね。でも、あんな可愛いさくちゃんを、見せたくなかったな」


 可愛い、可愛いって…


「いつもの俺じゃ、可愛くないみたいじゃん」


 言ってからハッとした。俺、何口走ってんの?


「さくちゃん…」


「あ、なしなし、今の何でもない。食べよう…」


 慌てて否定してサンドイッチに手を伸ばしたら、明さんに確りと握られた。


「僕は、自分が思っていたより、欲張りだったみたいなんだ。さくちゃんを好きになって気がついたよ。いや、さくちゃんだからかな?」


心臓がバクバク煩いし、その上動きが早くて胸痛いし、顔どころか体中が熱い。クラクラしている俺の手に真っ赤なイチゴを乗せて、明さんは自分用のお茶を入れ始めた。


 ホテルのイチゴなのに、味、全然わからん。


「僕が東京に出てきた一番の理由は、彼女に振られたから。高校からの付き合いで、お互いの両親にも介済みで、結婚も視野に入っていたんだけどね。

浮気してたんだ、彼女。僕の職場の同僚と、新人の時からずっと」


「げっ… 最悪」


 レモングラスのほのかな香りに誘われて、ティーカップを手にとって少しずつ飲み始めた。


「熱いから、気をつけてね。

 彼女はおとなしくて控えめで、男性の三歩後ろを歩くような人だった。

すっぴんは見たことないし、いつも爪の先まで手入れされていたよ。

とても控えめにね。アクセサリーも洋服も控えめだけど質の良いものを身につけてた。性格も発言も笑い方も…」


「控えめだったんだ、男以外は」


 あ、厭味いやみったらしいな、今の俺。


そんな俺の言葉に、明さんが控えめに笑った。それが自虐的に見えて、ちょっと、申し訳なかった。


 紅茶が美味しい。シャワーで温まった体が、今度は体の芯が暖かくなってきた。


「僕より、同僚の方がいい男だっただけだよ」


「それなら、ちゃんと別れてから付き合えばいいんじゃね? それが、普通だろ?」


「そうだね。さくちゃんみたいに、浮気は遊びだって割り切れていたら、故郷から逃げ出さなかったんだけれどね」


 違うよ、明さん。割り切っていたんじゃなくて、それだけの気持ちしかなかったんだ。


「それだけ、元彼女さんのこと好きだったんだろ… ヤケるなぁ」


「だけどね、今回はどうしても逃げ出したくはなかったんだよ」


 … なんか、雰囲気が怪しくなってきた?


「で、でもさ、明さんは田舎でもタクシーの運転手さん?」


 この雰囲気を壊すべく、せっかくのサンドイッチが固くなっちゃったら勿体ないから、ありがたく口に運び始めた。さっきのイチゴと打って変わって、すんごく美味しい。最後にもう一回、イチゴ食べよう。


「違うよ、保育園の先生」


 ちょっとだけため息をついて、明さんもサンドイッチを口にした。


「あ、似合う! 明さん体大きいから、子ども達の山だね。

登って来たでしょ?」


 想像出来る。


「仕事は、楽しかったよ」


 凄く良い顔してる。やり甲斐のある仕事だったんだろうな。


「もう、やらないの? 思い出してそんな良い顔してんのに、やらないのは勿体なくない?」


「そうだね。… 東京に出て暫くは、新しい仕事のことしか考えられなかったんだけれど、さくちゃんの仕事する姿や仕事に対する姿勢を見て… もう一度頑張りたくなったんだ、保育士」




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