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第7話・初めて触れた熱(明)

4・初めて触れたあきら


 東京に出てきた一番の理由は、彼女に振られたからだった。高校・大学・社会人と付き合って、お互いの両親にも紹介済みで、結婚も視野に入っていた。

 彼女は腰まで伸ばしたつややかな黒髪を気に入っていて、肌はその髪が良く映えるからと、色白を頑張ってキープしていた。全体的にポッチャリとしていた彼女は、お世辞にも美人とは言えなかったけれど、身につけるアクセサリーは全て小ぶりで、いつでも薄化粧をしていて、爪の手入れも欠かさず、身嗜みだしなみは完璧。そして、おとなしくて控えめで、笑う時は口に手を当てて「ふふふ」と上品に笑う人だった。


「女って、ほんと魔物だね。職場と今とじゃ、全然違う。違うなんてもんじゃない」


 航大こうたが呆れた声で、ヘロヘロになっている僕の背をさすってくれた。


 酒の席。創作和食のちょっとだけお洒落な居酒屋で、目の前に並び呑み食いする数人の女性たちを見て、昔の彼女を思い出して気分が悪くなった。

 そっと中座して、店の洗面台で顔を幾度となく洗い、同時にうがいもする。それは条件反射のように、今日みたいに合コンに出席すると必ずすることで、今回の主催者の航大もよく知っていた。


「お前の口から出る言葉かい?」


 が、もとはと言えば航大の誘いなので、僕の口からは嫌味しか出なかった。どうも、こういう席は苦手だな。


「俺だからでしょ」


 そう言って、航大はよく冷えた水の入ったグラスをくれた。


「完全に、トラウマだな」


「航大さ、歯医者やめて、精神科医に鞍替えしない? で、僕を診てよ」 


 グラスの水を一気に飲み干すと、幾分落ち着いた。酒なんて、それほど飲んでいない。


「他人様の心の中は、覗いたりするもんじゃないんだよ。ミイラ取りがミイラになる。俺には無理。それより、どうする? 今日は帰るか?」


 もともと、来る気はなかった合コンだ。しかも、さっきまで仕事で、精神的にも肉体的にも疲労困憊していた。


「航大の許しが出るなら」


「ハイハイ、俺が悪かったよ。帰って休め」


 そう言われて、安堵した。空になったグラスに、洗面台の蛇口から水をくんで一気に飲み干してからトイレを出ると…


「うああああああ…!」


 狭い通路を挟んだ目の前、レジの前でスーツ姿の大男が右腕をひねり上げられて、床に額を付けて唸っているのが見えた。


「あ?! この汚ねぇ手、使えねぇように潰してやろうか? そうすりゃぁ、二度と誰にも迷惑かけねぇだろう?」


 大男を床に転がしているのは、ちょっと癖のあるショートボブで、黒のパーカーにグレーのボディバックを引っ掛けた小さな背中だった。殺気がみなぎる低音には、聞き覚えがあった。


「ひいぃぃぃ~… 御免なさい。御免なさい、もう、しませんから」


「女のケツ触りたかったら、そういう店に行けよな。ここは、そんな店じゃねぇよ。いい年してみっとも無いだろうが、オッサン。

 オイ、あんた達、連れて帰るか? それとも、俺が警察に連れて行くか?」


 仲間なのだろう。男が解放されると、近くにいたスーツ姿の男二人が、慌ててかけよった。


「この、チビ!」


が、男は立ち上がりながら、左の拳を振りかざした。


「呼ぶか? 救急車」


 黒パーカーの人物は華麗にその左を受け流し、自分と同じ高さに来ていた男の両目に指を二本、寸止めした。


「か… 帰ります」


 戦意喪失したようで、腰を抜かして床にへたり込んだ。そんな男を、他の二人が文字通り引きずって店から出て行った。すると、狭いレジ周りに集まっていたお客さんを、それまで一緒になって見ているだけだった店員さん達が散らし始めた。


「ありがとうございました」


 レジ横で半べそをかいていたのが、被害にあった女性店員さんのようで、黒パーカーの人物にペコペコと頭を下げていた。


「嫌な思いしたね。大丈夫?」


 慣れたように気遣う声には、すっかり殺気は消えていて、ますます聞き覚えがあった。


「あ、はい。おかげさまで… あの…」


 もじもじとお礼を言う店員さんの前に、その人は慣れた手つきでボディバックから財布を出し、そこから免許を提示した。


「御免な。もう少し穏便に立ち回れたら良かったんだけれど。…はい、免許。ちゃんと二十歳超えてるから、飲ませてね。待ち合わせなんだ」


「あ、免許証、拝見させていただきますね。あ~ああ… 女性… はい… ご協力、ありがとうございました。ご案内します」


 小声だったけれど、残念そうな一言が聞こえてしまった。まぁ、酔っ払いに動じずあそこまで立ち回れるなら、女性とは思わないだろうな。戻された免許証を財布に戻し、席に案内されるその人の肩を、僕はついつい掴んでしまった。

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