部室棟に、こんな部屋があったことを知らなかった。
僕とアトカ先輩が入ったら、もう一人入れるか怪しいくらいの小部屋。真ん中に小さなテーブルがあって、椅子が二脚。ぎゅうぎゅうの部屋を、本や小物が詰め込まれた本棚が、雑然と囲んでいる。
「トール君は奥をどうぞ」
「いや……」
いざというとき逃げれないじゃないですか、なんて言うわけにもいかず、僕は大人しく従うことにした。椅子に座ると、名前の良く知らない、花みたいな香りがする。
先輩は備え付けてあったケトルでお湯を沸かして、お茶と茶菓子をテーブルに置いた。何か混ざってないだろうな……と警戒していたが、先に先輩がお茶を飲みだしたので、少しだけ口に含むことにした。味の善し悪しは良くわからない。
「まさかこの部屋に私以外が入る日が来るとは思いませんでした」
「え、椅子は二脚ありましたけど」
「私、友達がいないんです。あなたと一緒ですね」
「いや、僕は友達いますけど」
僕は嘘をついた。いざというときは「貴金属商」のヒゲオヤジを架空の友達としよう……とまで決意を固めたところで、先輩は続ける。
「そっちの椅子、いつも私が座ってるんです。クッションを敷いてるから、こっちより座り心地が良いでしょう」
まて、じゃあまさかさっきのフローラルな香りは先輩の香り? 僕とて健全な青少年なので、それに気づいたら意識せざるを得ない。僕は首を横に降って、邪念を振り払う。そんな僕の内心など露知らず、先輩は話し始めた。
「落ち着いて。私は別に、一方的に何かを要求したいわけじゃありません」
「本当ですか? 言っちゃあなんですけど、僕に比べれば先輩のほうが社会的な地位は圧倒的に上です」
「警戒する気持ちもわかります。だからいったん、私から胸を開いて話させてください」
胸を開くと聞いて、僕の目が先輩のそれなりに主張する
「一体何が言いたいんですか?」
「私があなたのことを知ってた理由がわかりますか」
「……たまたま?」
「いいえ。あなたの行方不明になったお姉さんを、私が知っているからです」
「……え?」
姉。確かに僕には姉がいた。僕は幼い頃、姉といっしょにダンジョンに潜っていた。彼女が行方不明になる、その日まで。
「トール君。あなたの姉、ヒグレ・ニノマエは私の友人でした。私は治安局に無許可で、個人的に彼女を捜索しています」
「待って、話が急すぎます」
「私はあなたに妹がいることも知っています。あなたが無許可でダンジョンに潜航しているのも、生活のためであると想像できます。私はヒグレのためにも、あなたの違法行為を治安局に伝えるつもりはありません」
僕の静止も効かず、アトカ先輩は畳み掛ける。
「トール君。『ダンジョンシーカー』になりませんか」
先輩は、透き通った琥珀みたいな瞳で、僕をまっすぐに見つめていた。
「いや」
僕の口から最初に出たのは、否定の言葉だ。
「いやいや。そんなこと急に言われても、信用できません」
そうだ。彼女は『ダンジョンシーカー』だ。ダンジョンシーカーは治安局傘下で、僕らトウキョウ市民のことなんか簡単に調べられる。彼女が僕を懐柔するために、その権限を使わなかったと言えるだろうか。
「第一に、アトカ先輩。僕の姉が行方不明になったの、何年前だと思ってるんですか」
「いいえ。ダンジョンの奥。「
「……
マナ耐性のない人間がダンジョンに居続けると、徐々にマナが体を蝕み、ダンジョンの一部に変化してしまう。つまるところ、空間のつなぎ目が滅茶苦茶になってしまう「ダンジョン化」が人体で発生し、生存機能を維持できなくなってしまうのだ。
「マナ耐性の高いヒグレに限って、
「だから、姉さんはまだ生きていると?」
「ええ。ありえない話じゃないでしょう」
「でも、どれだけ耐性が高くても、奥に進み続ければ、いずれ限界を超えます」
僕の語調に、アトカ先輩は平行線だと感じたのだろう。前のめりだった体を正して、唇を舐めた。
「ですが、治安局……『ダンジョンシーカー』への勧誘は本気です。私は何ヶ月もかけて『パンくず』を調整して、昨日、ようやく到達しました。でも、あなたは違いますよね?」
「違うって……」
「明らかに慣れた足取りと探索でした。あなたは毎日のように百層近くまで潜航し、軽々と帰っている。少なくとも探索力に関して、治安局の『ダンジョンシーカー』で、あなたほどのレベルの人間はいないと断言できます」
それは、僕の
「治安局は正式な給料も出ます。妹さんを養うという目的のためなら、今の非合法活動よりもよっぽど良い」
その提案は、今までの提案の中では最も魅力的だった。自分のマナ耐性が並外れている自覚はあったけれど、『ダンジョンシーカー』の門を叩かなかった理由は、今までの非合法なダンジョン潜航があるからだ。でも、アトカ先輩はそれを不問にした上で、僕を『ダンジョンシーカー』にしてくれる、と言っている。
だが、これが罠でないという保証は?
「トールくん、どうですか?」
先輩の目が、まっすぐ僕を捉えている。顔が近い。息遣いまで感じるくらいだった。僕が口を開こうとした時、部屋のドアが大きな音を立てて開けられた。
「お兄ちゃんから離れろ! クソ女!」
幼さの残る顔立ちの、僕の妹。長く伸ばした髪を、校則に従って結んだ少女、コカゲ・ニノマエがそこにいた。
「な、な、何してるのお兄ちゃん! こらクソ女、お兄ちゃんに近すぎ! キスでもするつもりか!」
「えいや、わっ私はそんなつもりでは……」
「お兄ちゃんも危機感なさすぎるよ! この女怪しいと思ってたんだけど、ついにお兄ちゃんに手を出したね!」
「いや、待ってくれよコカゲ。別に僕は危害を加えられたわけじゃなくて……」
「でも今キスしようとしてたよこの女!」
「してません!」
甘やかしすぎたつもりはないが、妹は兄離れができていない。僕に女の影があればここぞとばかりに妨害を重ねる悪癖がある。
「コカゲ、待ってほしい。アトカ先輩は別に、そんなつもりはないはずだよ。僕らは今、いたって真面目な話をしていたんだ」
「そ、そうです! キッ……。キキキ……キスだなんてそんなことはありえません!」
先輩は慌てふためいている。本当にそんなつもりはなかっただろうに、急に指摘されて、挙動不審になってしまったのだろう。むしろ怪しい。だが、先輩は誤解している。僕のような健全な男子は、先輩くらいの美人にキスされるなら吝かではない。ここまでちゃんと否定されると分かっていても少し凹むと気付いてほしい。
「ふ~ん、まあ口ではなんとでも言えるもんね。ほらお兄ちゃん、早く帰ろう」
「いえ、待ってくださいコカゲさん。私とお兄さんはまだ真面目な話の途中で……」
「真面目な話をするのにキスする必要ないでしょ!」
「だからキスじゃないですって!」
二人が言い争っている声はことのほか響いたようで、周りからざわざわと見物人たちが集まる声が聞こえだす。まずい。このままでは僕まで目立ってしまう。
「先輩、どちらにせよすぐに答えを出せる問題ではありませんし、この話は一度持ち帰らせてもらってもいいですか」
「……それもたしかにそうですね」
先輩も、部屋の外の野次馬に気付いたようだった。
「トール君。マカロニを持ってますよね。連絡先を交換しておきましょう」
その言葉に、妹が臨戦態勢をとったことに気付く。僕はそれを手で制した。この先どうなるにせよ、美少女の連絡先は絶対にほしい。……という下心を隠し、僕は建前をきれいに建築する。
「そうですね、先輩としても僕の動向は気になるところでしょうし」
威嚇する妹をたしなめながら、僕は狭い空間を無理に通って、部屋を出た。
「先輩、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。色よい返事が聞けることを待っています」
僕は曖昧に頷いて、その場を後にする。すると、ついてきた妹が「あ」と声を上げた。
「まさか、告白の返事ってこと!?」
「違います!」
背中からアトカ先輩の大声が聞こえてきたので、僕はそそくさと撤退した。