「こんばんは、お願いします」
いつもの時間より1本遅い高速バスに乗る。
運転手はちら、とこちらを見て頷いた。この国の人には珍しい、赤い眼が印象的な人だ。
今日もお疲れ様でした、と挨拶を返されて、思わず笑みが零れてしまった。整理券を手に取り、乗車口から1番間近な座席に座る。窓のむこうはすっかり日が沈み、暗闇の中に浮かび上がる街の灯りが広がっていた。
『安全の為、座席に着いたらシートベルトを装着して下さい』
『中央高速経由 山ノ下行きです。次は役場前、役場前に停ります』
ゆっくり動き出すバスの中、乗客は私を含めて十人にも満たない程度。
シートベルトを締めながら、ああ、いい声だなぁと低くて通る声に思わず聞き入り目を細めた。このまま寝入ってしまいそうな、落ち着く声だ。
今日は仕事で失敗しかけて、リカバリするのに慌ただしい一日だった。急遽休みになった同僚の代理でやった仕事は、慣れてないから、と言うのはただの言い訳でしかない。だけど、上司は容赦なかった。頭の中でダミ声がリフレインするのを必死で掻き消そうとする。
『君、納期は明日だぞ分かっているのか!』
わかってますって、昨日同僚から散々聞いていたから。言いたい言葉を抑えて、ひたすら頭を下げていた。こんなことになるなんて思ってもいなかったのに。いや、だからあの人は休んだのだろう。彼女の目の下には濃い色のクマが浮いていた。一体何日寝れていないのやら…。
『これだから若手は!』
これだから懐古主義は。
『疲れた顔しているんじゃない!』
好きでこの顔してるんじゃない。
『おまえにはもう降りて貰おう』
そもそも私のプロジェクトじゃないですし…
「おりろってんならおりてやるわよ…」
「すいません、お客さん。終点です」
「…ふぇ?」
いつの間にか閉じられていた瞼を開けて、声のする方を向いたら赤い眼がこっちを見ていた。視線が合って、驚いて、相手も慌てて帽子を目深に被る。
「あっ、すいませ…ごめんなさい…」
「いえ、あまりにも深く寝ていたもので…」
どうやら本当に寝入っていたようで、全然気が付かなかった。口元が緩みかけていて、急いで拭う。そして先程掛けられた言葉。
「え、あ、終点!?」
「ええ…山ノ下停留所です」
完全に寝過ごしてしまった。
知らない名前のバス停に血の気が引く音がした。自分の自宅近くから、どれくらい離れたのだろう。外は真っ暗で、家々の明かりさえ届かない。
さっきまで耳元でうるさかった上司の声は、いつの間にか消えていた。
「どうしよ…ここ、何処だろ。真っ暗で分からない…」
「…降りる予定の停留所は何処ですか」
「えっと、大学通り東です」
フリーズする運転手さん。どうしたの…?なにか間違えたかな。
「…このバスは大学通り東停留所に停りません…」
「えっ!?」
「同じバス停から出る便でも行先は違いますからね…まぁ、仕方がないからそこまで送りますよ」
笑いを噛み殺したような表情を隠すように帽子を被り直して、運転席に戻っていく。その背中を見送ると、やがてバスのフロント部分に掲げられた行き先表示が「回送」になった。
無線を入れて、車庫に戻るのが遅くなる、みたいなことを言っているのが聞こえる。車内には私と運転手さんしかいないから、痛いほど鮮明に聞こえてしまった。
ああ、ほんとに申し訳ない……。
「…あの、どれくらい掛かりますか?」
「引き返すと回り道になるので1時間くらい、…峠越えすれば40分、ですね」
「そんな、路線全然違う…!!」
「ええ、そうですよ。…っ…」
堪えきれなくなったのか、顔を伏せて声を押し殺して笑っていた。逞しい肩が震えている。恥ずかしいやら申し訳ないやらで頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「ご、ごめんなさい…!」
「…いえ、こちらこそ失礼しました。お急ぎでしたら、峠を越えますが…」
運転手さんがインカムをつけて、キーを回す様子が見える。エンジンの駆動音がして、ハザードランプが点灯した。急いで帰っても迎える人のいない自宅に着くだけだから、迷惑がかからないなら安全そうな回り道にしよう。運転手さんが優しそうで良かったなと、今更ながらに思う。
「あの、迷惑でなければ…回り道で大丈夫です」
「そうですか。分かりました」
「…今の時期、峠から見える夜景が綺麗だそうです。星空も近く見えるのだとか」
「っ!…峠道、で…」
私のわがままに、運転手さんは左手を上げて返してくれた。運転席横の名札には、【黒神】と書かれている。
「よ、よろしくお願いします!えと、くろがみ、さん?」
「ええ。…承知しました」
マイクを通して聞こえる声に、やっぱり素敵な声だなと実感する。バスは麓の道路から離れ、山道に入ってゆく。大きなタイヤが小枝を踏む音がした。
「高速バスでもこんな道通れるんだ…」
「この先に展望台ができましてね。観光バスが通れるように、道幅が広く整備されたのですよ」
「へぇ…そうなんだ…!運転手さんって何でも知ってるんですね」
「……いえ。仕事、ですから」
間が空いたのは気にしないことにしておこう。思ったことをすぐに言ってしまうのは私の悪い癖だ。職場ではあまり喋らないのに、1度オフィスから出ると別人だねなんて言われることもある。たまに。いや、しばしば。
正直に言うと……かなり。
バスは山道をぐんぐん登り、一気に頂上へと走っていく。
鬱蒼としていた木々がまばらになって、やがて完全に切り開かれた場所に出た。
「………!」
車窓からでも分かる夜景に目を見張る。こんな景色、今まで見たことがなかった。どう言ったら良いのか分からず、言葉にならない。
「綺麗だなぁ……」
窓にぺったり手を着いて見ていると、バスの動きが急に変わった。
「これより、10分間の休憩に入ります」
「え?」
運転手さん…もとい、黒神さんがバスを停めてこちらを振り向いた。
「申し訳ありません、想定外の走行ルートなので車輌メンテナンスに入ります」
「あっ…それなら、仕方ないですね…すいません」
言い終わるとほぼ同時に、こうなる事が分かっていたような仕草でインカムと帽子、手袋を外している。乗降者口がゆっくりと開かれて、冷たい風が車内に入り込んだ。
「…空、見てみろよ」
黒神さんにそう言われ、バスの外に出てみる。私に続いて、彼もバスから降りた。
「…すごい……!」
雲ひとつない空には欠けた月と、沢山の星を散りばめた夜空、そして流れ星が幾つも落ちる
鼻の奥がツンと痛い。息を吐く度白く濁る。
「ここから見る景色、最高だろ?」
黒神さんがにやりと笑う。
帽子を外しただけで印象が全然違って見える。癖のある跳ねた前髪と、短く切りそろえた後ろ髪が月の影になっていた。
「……最高、です…」
「やっと謝らなくなったな」
言われて、ふと彼の顔を見る。
そう言えば…朝から謝ってばかりだった…。
「…あの、ありがとうございます」
「あんたは笑ってる顔の方がいい」
「えっ?」
私、いつの間に笑ってたんだろう?首を傾げていると、肩にふわりと暖かいものが掛けられた。
黒神さんのブレザーだった。
「……では、そろそろ出発します。ご乗車ください」
「っ、はい……!!」
夢を見てたんじゃないかなと思うくらい、心臓がドキドキする。
彼は何事もなかったかのように再び帽子を被り、インカムと手袋を装着して運転席に座った。
長袖のシャツを肘までめくっていて、引き締まった二の腕をぼうっと見つめる。こんな人が彼氏だったらなぁ、なんて叶わない幻想を抱いてしまいそうだ。
「安全の為、シートベルトをお締めください」
「次は終点、」
ユメノナカ
なんてな。
「!!?!」
ゴツンと額に衝撃が走って、慌てて飛び起きた。どうやら窓ガラスにぶつけたみたいだ。
耳元で聞こえた声に、リアルな景色…あれは夢、だったのかな?
「次は大学通り東、大学通り東…」
「転倒防止のため、バスが停車するまで席を立たないでください」
心臓が未だにドキドキしている。
外は薄暗く、それでも見慣れた景色だ。腕時計を見たらバスに飛び乗って、まだ30分しか経っていなかった。でも、あの景色は既に22時は回っていたような…。あれ?
「……あ、降ります!!」
ボタンを押すよりも早く、バスが停留所に滑り込む。ゆっくりと停車して、ハザードランプが点灯した。
「あ、ありがとうございました…!」
「ご乗車ありがとうございます。今日も1日お疲れ様でした」
整理券を投入口に入れ、バスの定期券を見せると運転手さんが帽子を掲げて挨拶してくれる。
見覚えのある優しい笑顔と赤い瞳に見送られ、バスのステップを踏んで歩道に降りた。
「……!!」
荷物を持ち直して、ふと気づいて振り向いた時には既にバスは出発していた。
肩にはブレザーの重みと、ほのかな暖かさが確かに重なり合っていた。