またあの店に行くことになるなんて。
前回と違い、そこまで緊張はしていない。その店があるのは歓楽街のど真ん中で、今夜は日曜の夜と言うこともあり人通りはまばらだ。それでも様々ないかがわしい店へと誘導するネオンの案内は、一瞬目が眩んでしまうくらい瞬いている。
やっぱり異世界に紛れ込んだかのような異質さを感じ、自分が知らないものへ踏み込んでしまうには少しだけ尻込みしてしまう。今まで縁も興味もなかった風俗店やホストクラブ、キャバクラ、立ち飲み屋などの客引きを交わし、かおるさんが俺の手を握り前に出て、ただ一ヶ所しかない行先へ向かっているのだと示す様に悠然と歩いていく。
「堂々としていればいいよ。そうすれば向こうも無理に声かけて来ないから」
「そんなものなの…?」
「…いっちゃんはこの辺りを一人で歩かない方がいいね」
まるで子供を相手にしているかのようなかおるさんの言葉がグサリと刺さった。世間知らずなのは分かっている。生きていくのに必死で、周りをよく見る余裕がないことも。今はただ、ひたすらかおるさんに縋りついているだけで精一杯だった。
目的の場所となっている、猫のいる宿「ちぐら」に着いた瞬間かおるさんが繋いだ手を強く握る。
「いくよ」
「…うん」
この時間に男二人連れ立ってホテルに入るなんて、”そう”としか思えないのは分かっていた。あの時はかなり戸惑ったけれど、今は周りの目がちっとも気にならないでいる。一歩足を踏み入れた途端、あのフロントが目に入って多くの部屋が暗くなっていることに気が付いた。
「…どの部屋がいい?って言っても、空いているのは猫が来れないようになっている部屋とパーティールームくらいだけど…」
「うーん…パーティールームは広すぎて落ち着かないから、違う方で」
猫ちゃんに会えないのは残念だけど、今度また来た時に思う存分モフモフしよう。それに今夜の目的は、猫カフェとは別にある。
『いらっしゃいませ!ごゆっくりどうぞ』
機械音声に見送られ、ふたりで開くゲートの向こうに向かった。点滅する部屋番号表示は一番奥の、突き当りにある部屋だ。
「…ここ、初めて来るなぁ」
「そうなんだ」
何度も来店している常連なのかと、出掛かった声を押し留めて開かれた扉の隙間に滑り込む。必要な時以外、かおるさんは殆ど無言だった。しかし部屋に入って扉が閉められた瞬間、急に俺の身体を強く抱きしめてきた。華奢なのに力強い腕が、僅かに震えている。
「かおるさん…?どうしたの?」
「……ごめんね。あの慣れない場所…ずっと怖かったから」
「え?」
今は何も聞かない方がいいのではないかと、本能で判断しかおるさんの肩を擦る。背中に手を回し、トントンと規則正しく優しめに叩くと、次第にかおるさんの震えが治まってきた。
「大丈夫、ここには俺たちしか居ないから」
「うん。…ありがとう」
かおるさんの弱みを覗いてしまったような気がして、少しだけ申し訳なくなった。気を取り直すように彼の手を握り、玄関で靴を脱いで部屋の中に向かう。
「かおるさん、ここ畳敷きなんだ!だから猫ちゃんが入れないようになってたのか」
「ほんとだ…。爪とぎしてバリバリになっちゃうからね」
猫が無我夢中に畳で爪とぎしている様子を想像し、思わず笑ってしまう。かおるさんも緊張が解れたのか、部屋の中央に置かれた座卓に対面で敷かれている座布団の上へ、へたり込むように座った。彼の向かいに座ろうとしたけれど、座布団をずらし彼の隣に座る。
「…いっちゃん、何も聞かないの?」
「まだ、その時じゃないかなって…かおるさんが喋りたくなったら言ってよ」
「ふふ…やっぱり、君はいい人だね」
座卓の隅に備え付けられている電動ポットと急須が目に入り、ロックを解除してポットの中身を急須に注ぐ。ほんわりと漂うのはほうじ茶の香りで、二人分用意するとかおるさんが「ありがと」と短く言葉を返した。
「…どこから話せばいいのか、自分でも分からなくて…」
「ゆっくりでいいからさ。俺だって、好きな人をいじめたくないし」
心からの本心を言うと、かおるさんはうれしそうに笑ってくれた。あの張り付いたような笑顔じゃなくて、素直に嬉しそうな表情だ。
「…ぼくは…女の人に対して恐怖心しかなくて…あの場所に居るのはとても辛かった。君が居てくれて本当に良かったよ」
「そうなんだ…」
「今日の合コンのことを知ったのは、たまたま親しいお客さんから…百目鬼さんって人と、君の弟さんから聞いたのがきっかけ。まさか、自分が行くとは思わなかったけど…」
そう言って、かおるさんは何処か懐かしむように遠くを見つめた。