何もかもやる気が起きない。
その状態を五月病と言うらしい。窓の外を見ながら、ぼんやりと外の景色を眺める。世間はゴールデンウィークの真っ只中ではあるが、自分は何をしているのだろうとやはりぼんやり考えてしまう。
正月の初詣デートの帰り、彼に誘われるがまま寄った猫のいる宿屋でひと休みして、帰りに「またね」と別れて以来──九十九薫とは暫くふたりで会えていない。そう考えると既に脈はないのではないかと思ってしまうが、彼のアドレスを消してしまおうか悩む度彼から連絡が来る。「元気にしているか」だったり、「たまには店に来て欲しい」と言ったような文面だけれど、「会いたい」とは書かれていないので次に会う約束までは踏み切れずにいた。
累自身、仕事にしているフラワーアレンジメントの講師や園芸誌の執筆依頼が立て続けに入ってきて、忙しい日々を送っていた。
華道で名を馳せる一条家の長男として生まれ、若き華道家・いずれは家元となる輝かしい未来を約束されていた一条累。しかし、デビューして間もなく利き手の右手首が突然震えるようになり、鋏を持てなくなった。神経症、精神病、ありとあらゆる病院を訪ねたが原因は分からず、止む無くその道を閉ざされてしまった。日常生活では支障がなく、華道で使う鋏を持つと震えが止まらなくなってしまう。故に、今は手を酷使しない在宅仕事で細々と生計を立てていた。
累が薫に対して隠していたことの一つで、自分が将来有望視されていた元華道家であることは言っていない。聞かれないので話さない、と言うべきなのだろうが、彼が美容師であることは知っているのに自分の仕事を秘密にしているのは少々申し訳ないと思っていた。
今日まで二回ほど彼の勤めている美容院には行ったが、運悪く彼が休みだったり他の客を担当していたりで、碌に会話をできていない。自分とは違う客に笑い掛け、楽しそうに会話している彼を隣りで感じると妙に胸の辺りが痛むようになり、暫く彼のいる店には行かない事にした。営業スマイルと分かってはいても、寂しさが余計に辛くなってしまうから。
「はぁ」
「まだ引き摺ってんの?」
「男には何もかも嫌になる時があんだよ…」
「まだ諦めるには早いっしょ。別れを言われた訳じゃあるまいし」
連休中、自宅に押し掛けてきた弟がリビングのソファに寝転がりながら鋭い一言を言い放つ。図星を突かれ、兄弟とは不思議なものだと累は小さくため息をついた。誰にも会いたくない時には連絡なく押し掛けて来て、誰かに会いたくなった時には何も言っていないのに心配して駆けつけてくる。今回は前者で、連休中も家に引き籠っていたら前触れなくチャイムを鳴らしてやって来た。大学生活真っ只中で交友関係に忙しいかと思いきや、周りは家族や恋人と過ごす為空いている友人がいないとのことだった。暇そうにテレビゲームを一人でやっている弟の姿を見遣り、兄である累はただの暇つぶしの相手でしかないのだろうと溜息をつく。
「おまえだって恋人いたんじゃないのか?カワイイ子だったろ」
「いーや。ああ見えて三股かけてたんだよ…とっくに別れたさ」
「へぇ。人は見掛けに寄らないって奴かね」
「それそれ。まぁ、なんやかんやこっちからのデートを回避していたから予想はしてたけど…あっ、やられた。兄貴は確か出会い系で美人と知り合ったって聞いたけど」
「あぁ。ま…俺には高嶺の花だったんだよ…恋人がいないのが不思議なくらいでさ」
「でもコクられたんだろ?ちゅーもしたって聞いたけど」
「は?何時の間に…!」
「何言ってんの、
「あれ…そうだっけ?全然憶えてないな。俺がただ、舞い上がってただけなのかも知れない…」
累は自分が薫のことを何も知らないことに、改めて現実を突きつけられるような気がしてならなかった。恋人のようでいたいけれど、明確な証はない。だとしたらただの友人でいるのに、たった一日で二度も三度も味わう事になったキスの感触は未だに忘れることができなかった。
「あー…だったらさ、気分転換に今日の夜飲み会行かねぇ?俺の友達二人が行けなくなったから、代役頼むって言われててさ」
「いや…大学生のガキンチョと飲むのは…」
「何言ってんの。周りは社会人だらけだよ…それに」
言い掛けた弟の声がスマートフォンの音に掻き消され、累の鼓膜を揺らす。電話の着信ではなく、Eメールだった。それも差出人は予想していなかった人物の名前だ。
『今日の夜、合コンに参加します』
久方ぶりに届いた薫からのメッセージには、それだけ書かれていた。