初詣に行こう、と言い出したのはどちらからか。
気が付けば予定を組み、着物を着付けして貰う為に美容室まで予約していた。自分で着物が着れるようになりたいとは思っていたけれど、もう着る機会など殆どない。ならば誰かにやってもらえば綺麗だし、形も崩れないだろう。そう思って予約した筈なのに。
「…なんで」
「あれ、いっちゃん?そういや言ってなかったっけ」
予約した時間、その場所に向かって出迎えた美容師は。
誰でもない、初詣に行く相手だった。
× × ×
彼からは美容師をやっている、とだけ聞いていた。
気兼ねなく喋れる友達が欲しくてそのアプリを始めたけれど、誰も彼もが『結婚を前提』とした出逢いを目的にしているか、所謂サクラの会員だった。事前説明と違う中身に辟易し、そのアプリをアンインストールする直前。彼と知り合ったのは一通のメッセージがきっかけだった。
『近所の美味しい店、知ってますか?』
そのたった一言で、この人なんだろうと自分の勘が指先を動かす。深い付き合いだとか結婚を前提にした気配が微塵もなく、「仕事柄誰かと遊ぶ時間が取れなくて、会話相手が欲しかった」とほぼ俺と同じ目的でそのアプリを利用していたという。性別は空欄で、『かおる』と言うHNのその人と初めて近間のカフェで会った時、初めて男性であることを知った俺は正直ホッとしていた。昔で言うところのメル友ってやつだ。響きが既に懐かしい。
それから何度か会って、ランチを一緒に食べたりカフェに行って喋ったりとネットの世界で言うところの『オフ会』的な付き合いを何回か繰り返していた。
「…かおるさん、ここで働いてたんだ」
「そうだよ。まさか朝イチのお客さんがいっちゃんだったなんてなぁ」
美容師と言うだけあって髪型や髪色、服装も変わっているが、とても似合っているのだからずるい。とは思ったけれど、一番意外だったのは喋り方が年齢よりも何処となく幼く感じるところだった。自分のことを『ぼく』と呼び、俺のことを『いっちゃん』と呼ぶ。HNが一縷だからかと思いきや、読み方がわからず数字の『いち』からそう呼ぶことに決めたらしい。確かに「一縷」なんて単語を普段目にする機会なんて滅多にないし…学生時代に使っていたチャットネームを流用するんじゃなかったと、後になって後悔したのは内緒だ。
「髪のセットはいいの?」
「うん。あー、でもかおるさんカッコいいしなぁ…俺こんな癖っ毛だし」
「それじゃ、着物に合わせて軽くセットしようか。ぼくを褒めてくれたお礼に」
思わず笑い出しそうになったけれど、かおるさんは相変わらずクールな所作で俺を更衣室に連れて行く。時々冗談なのか本気なのか、良く分からないところもこの人の面白さだった。
「この着物をレンタルするので間違いない?」
「そうだよ。この柄が気に入って」
「はいよ。それじゃ、私服脱いでこの襦袢に着替えてもらえる?」
「あー、長襦袢だけは自分のがあったから…あらかじめ着替えて来たんだ」
今は着物を持っていないけれど、着物を着る機会は過去それなりにあった。だから長襦袢と足袋、草履に雪駄、袱紗のような小物は私物を持って来ていた。今はもう、着物自体からきし着なくなったけれど。ロングコートの下は厚手のジャケットに長襦袢と言うギリギリの格好だった。着替えのズボンとシャツはリュックに入れて持ってきてある。靴は面倒なので、素足に雪駄で帰るつもりだった。
「……それじゃ、着つけを始めようか」
× × ×
かおるさんは俺がコートを脱いだ姿に驚いていたものの、慣れた手つきで二十分も掛からずに着付けしてくれた。帯を締め、羽織を着させてもらえばほぼ完成と言ってもいい。
「凄いなぁ。流石プロだね」
「へへ。ありがと…まぁ、ぼくもまだ初心者なんだけどね。それにしてもやけに着物を着慣れてるね…?」
「まぁね。前職で沢山着てたから…今はもう、殆ど着ないけれど」
その場で向かい合い、俺よりも背の高いかおるさんが俺の髪に両手で触れる。セットする前に、髪質を触って確かめるのが癖だと言っていたのでそれの為だろう。
手首から爽やかな柑橘系のコロンの匂いがして、妙にドキリとしてしまった。意識していた訳ではないけれど、かおるさんからはいつもいい匂いがする。
「…待ち合わせ、昼だけどどうする?」
「え、あ、えっと…かおるさん、お仕事は…?」
「いっちゃんの着付け予約以外はないよ。…一条累さん、の方が良い?」
耳元で本名を呼ばれ、そう言えば...と我に返る。予約した時の名前は本名だから、知っているのも当然だ。でもなんだか、そう呼ばれるとくすぐったくなる。
「ぼくは九十九薫。まぁ、今まで通りよろしくね…いっちゃん」
ただのネット友達と初詣に行く、そんな予定だったのに。
その関係性は呆気なく、深いところに嵌った気がした。