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【短編読み切り】唇からメロディ
ayahich
BL現代BL
2024年07月28日
公開日
7,970文字
完結
+.結末まで読んだら、きっともう一度読みたくなる物語+.

双眼鏡で他人の部屋を覗くことが趣味の音無は、今日も売れないシンガーソングライターのシンヤの部屋を覗いていた。それが音無にとって唯一外の世界と繋がる方法だった。

【読み切り】唇からメロディ

 彼はいつも六畳間の真ん中にいる。

 住居である安アパートの部屋には物がない。あるのはせんべい布団にアコースティックギター。楽譜に脱ぎ散らかした古着。

 脱皮したように脱ぎ捨てられた服を足でどけると、パンツとTシャツというだらけた格好の彼は布団の上に胡坐をかいていた。茶色いギターを抱えて、チューナーの表示に合わせてペグを回しチューニングをしている。

 チューニングを終えると彼は一度少しだけ尻を浮かせてまた座った。首を回して、さらに指の骨を鳴らした。骨の振動を感じたまま彼は左手をネックに伸ばすと、コードを押さえて、何かの曲を弾きながら歌い始める。

 ギターを弾く彼が住むアパートの、真向かいに建つマンションの一室から、音無という青年が、それをただ見て聴いていた。ギターの青年の唇からメロディが漏れる場面を見ることが、音無は何より好きだった。


 見ている、という表現は正しいが、正しい行動とは言えない。音無は自室の窓にかけたレースカーテンの隙間に双眼鏡を差し込み、彼の部屋を盗み見ていた。それが音無という男の唯一の趣味と言っても過言ではなかった。

 音無はギターの彼の苗字を知らないが下の名前が【シンヤ】であることは知っている。彼の部屋に遊びに来た女の子が彼のことをシンヤと呼んだからだ。

 シンヤ、コンセント使っていい?と女の子が断ってからスマホの充電を始めたので、音無は彼の名前を知ることができた。

 左手でネックを押さえピックで弦を弾くと、シンヤは自然とメロディを口ずさむ。

 音無は彼の唇さえ見ればその曲が「愛の歌」であることがすぐわかった。朗らかでありながら緊張しているような眼差しに、何度も書き直したあとのある譜面。本気の想いであることが双眼鏡のレンズ越しでも切ないほどに伝わってくる。


♩綺麗なものを見た瞬間

 君に会いたいと思った

 隣にいてくれる君こそが愛おしい


 オリジナルソングであるそれは、きっとスマホを充電していた女の子への曲だろう。あの女の子はきっと彼女か、親密な関係にある女友達だ。シンヤは弾き語りしながら気に入らない部分があると譜面にメモしたコードを塗りつぶし、もっとふさわしい音を探す作業をひたすら繰り返した。


 音無が「双眼鏡を構えて窓の外を見る」というのを始めたのは15歳のときだった。母親に頼んでつれていってもらったコンサートをもっと楽しみたくて、オペラグラスでステージを覗き込んだのが始まりだった。

 座席に恵まれなくてもオペラグラスを通せば演者の顔がよく見える。というのは、今までに感じたことがない刺激的な体験だった。最初の2、3度はコンサートで演者を見ることだけに熱中していたが、そのうち観客席の方へ目をやるようになった。観客は演者の歌に熱中している者が大半だったけれど、あくびをして眠そうにしていたり、携帯電話の使用に夢中になっている非常識な客もいた。音無は好きな演者の歌を聞きに来ているはずの客の、考えられない態度にショックを受けたが、同時に、自分の知らない感情と出会えたような気がした。

 見てはいけないものを見たような気がして、ドキドキが止まらないのも事実だった。

 そしてひらめいた、街の中で使えばもっと刺激的な風景が見られるに違いないだろうと。


 かれこれこの趣味を10年は続けている。最初は一般人も出入りできる高層ビルから近所の雑居ビルの中を観察する程度に好奇心は留まっていたけれど、そのうち歩道橋の上から乗用車の運転手の挙動を観察するようになった。

 だんだん行動はエスカレートしていき、そのうち喫茶店の窓から店員の目を盗んでは双眼鏡を覗いた。

 それで終わればよかったのに、揚げ句の果てに近所の住居用マンションに忍び込んで、同じことをした。住人に警察へ通報され、親を呼び出しての厳重注意を受けた。

 その日以来、音無は自室でのみこの行為を行っている。性懲りも無く犯罪行為を続けるのは、外界と音無を繋ぐのは双眼鏡越しの視界のみだからだと彼が強く信じているからだ。


 行動を制限されてから初めて覗き込んだのがシンヤの部屋だった。

 初めてシンヤを知ったのは、シンヤが女の子を連れ込んでその子と寝ようとしていた場面だった。思わぬタイミングに思わず目を逸らしたけれど、カーテンも閉めずに生々しい快楽に身を委ねる2人を目撃してしまってからは、音無はちょくちょくシンヤの部屋を覗くようになった。

 シンヤは自室だとTシャツにパンツしか着ていない。部屋は基本的に汚いし、食べたカップ麺が1日以内に片付けられることなんてことはありえない。かろうじて女の子が来る時だけは使用済みの下着は全て洗濯機へと突っ込まれるが、彼女が世話焼きらしくて掃除機をかけたり机を拭いてあげていた。

 家でギターを弾くことは彼の習慣だった。安アパートの壁が薄いせいで隣の住民からはしょっちゅう注意されているようで「ちょっとくらいええやん。都会の人って心狭ない?」と、遊びに来る彼女に愚痴る事が多かった。

 とはいえ引っ越す金もない彼は安アパートの一室で弾き語りの練習をし、夜中はギターを背負ってアパートを出ていき、1時間ほどで戻ってくる。恐らく近所の公園でギターの練習をしているのだろう。

 だろう、というのは、音無がそう予想したからだ。本当はギターをしょってラーメンを食べているだけかもしれない。本当の彼の行動なんて音無には知る由もない。

 音無は、アパートを出ていったシンヤの後を追いかけて探しに行く。なんてことはしたことがない。あくまでシンヤは、レンズ越しに見るだけの人であるからだ。

 関係を持ちたいだなんて下衆な願いを叶えるつもりは音無にはさらさらなかった。音無は彼の唇から漏れ出るメロディを知るだけでいいし、シンヤに自分という存在を知られたくないと本気で思っていたし、仮に知り合いになりたかったとしてもそれを叶える勇気も度胸も持ち合わせていなかった。

 それでもレンズ越しにシンヤを見ることが音無唯一の楽しみになることにそう日を要さなかった。


 シンヤは誰もが振り返る美形とは呼べないが、色白で切れ長の一重瞼で、所謂流行りのK-POPのアイドルに似ていた。だからなのか、音無は彼には妙な色気があると思った。首筋にあるほくろも、骨ばった体も如何にも女子受けしそうだと思ったし、薄い唇から漏れ出る言葉は穏やかで人を惹きつける。

 実際、本命っぽい女の子以外の女の子が家に遊びに来ていたことがある。あれはいつか刺されるなと、音無は双眼鏡を覗きながら思った。

 シンヤが音楽が好きなのか、それとも女の子が好きなのかということが、音無には判断がつかないことがある。

 というのもシンヤはスマホでよく音楽を聞いていた。そして好きな曲をコードに書き起こしてコピーするということも好んでよくやっていた。シンヤには流行りのJ-POPやK-POPの曲なんかもアレンジしては自分の物にするという強みがあった。

 恋について綴った安っぽすぎる歌詞もシンヤが口ずさめば壮大なラブストーリーのように思えたし、実際女の子はシンヤの歌声にうっとり聞き惚れているみたいだった。さらにシンヤは女の子の瞳を見て甘いほほ笑みを浮かべながら歌うものだから、初心な子はそれだけで心を奪われているようだった。そして実際心を奪われてしまった女の子は自らの大事なものをシンヤに捧げてしまうのだ。

 性欲処理は本命では行わないというシンヤのプライドなのか、孤独に耐えられない寂しがり屋なのかは分からないが、音無は本命の子が可哀想だと思いながら一種のルーティーンを何度か目撃した。

 男友達がシンヤのアパートを訪れることもよくある事だった。小さな折り畳みテーブルの上に買ってきたつまみを広げてビールを飲む。最近抱いた女の話や、バイト先での上下関係についての愚痴などといったどうでもいいしていると思えば、ふとしたことがきっかけで流行りのバンドの新譜について語り始めたりする。

 そのときは全員が饒舌になり、空気を奪い合うかのように音楽の話で盛り上がる。しかし全員が一斉に壁の方へと目をやり、気まずそうに「怒られた~」とへらへら頭を掻いたなら、シンヤはギターと余った酒を持って、みんなと出ていく。多分、公園へ行って宴会の続きをするのだ。


 シンヤの部屋の明かりが消えて真っ暗になると、音無は双眼鏡を下ろしてベッドに横たわる。そして喉の渇きを思い出すと、毛玉だらけのスウェットを着ている音無は伸びた髪を邪魔そうにかき上げた。すでに寝ているはずの家族に気付かれないように気配を消しながら移動して、台所にあるお茶を飲んだ。少しお茶が唇から漏れたので毛玉だらけのスウェットで拭いとる。また、耳が痒いので小指を耳の穴へと突っ込んでガシガシと掻きむしる。耳垢が少し爪の隙間に入り込んだ。それをまた毛玉だらけのスウェットで拭った。家族の誰も、音無の存在に気付かなかったことにほっとしたまま、音無は自室へと静かに帰っていった。

 シンヤはオリジナルソングの制作も積極的に行っている。動画系のSNSにも投稿しているため、たまに再生数をチェックする姿も音無は目撃する。

 もちろん音無もシンヤの動画はチェック済みだ。平均して10万再生はされているので固定の客はそこそこ付いているらしい。加工のせいで実物よりも美形なシンヤが映る事だけ少々気にはなるけれど、双眼鏡を覗かなくてもシンヤの歌を堂々と聴くことができることが音無は嬉しかった。動画だと歌詞が表示されることも気に入っている。

 音無はスマホを取り出してシンヤの動画を再生した。夕日に照らされながらオリジナルソングを弾き語るシンヤは素直にかっこいいと思えた。陰鬱な空気がノスタルジックな印象を与えつつも、決して古臭いだけではないシンヤの独特な魅力を伝えていた。

 あぁ色っぽい。そりゃ女にもてるよなと音無は勝手に納得する。

 いくつかの動画を連続で見つつ、音無はシンヤとの時間を楽しんでいたが、急にドアが叩かれて、返事もしないうちに開かれた。

 ビックリして目を向けると、「おにい、うるさい!」と言って怒り顔の妹がこっちを見下ろしていた。音無は妹に注意されるまで、自分が最大音量で動画を再生している事に気付いていなかったのだ。

 慌ててごめん、と小さく呟いたら、さらに慌ただしく動画用のアプリをスワイプして閉じる。久々の妹との会話がこれかと思うと音無は恥ずかしさでいっぱいになったが、妹はすぐ部屋を出ていったので、布団を頭から被り、音量を一番小さくして、動画の再生を続けた。


 翌朝、音無は親に呼び出され「音楽に興味があるんなら何かやってみる?」と提案を受けた。音無は前夜の出来事を妹に告げ口されたのだが、音無の親はそれを前向きにとらえたのだ。一度警察沙汰を起こし、引きこもりのような生活を続けている息子が何かに強い興味を惹かれているということは、親にとって非常に喜ばしいことだからだ。

「音楽教室にでも通ってみる?」と、音無の機嫌を伺うように親は続けたので、音無はどうするか少し迷った。そして何も言わずに部屋に戻った。親の残念そうな顔を思い出すと胸が痛むけれど、音楽を始めて少しでもシンヤに近付いた気になる自分を想像するだけで、自分自身の欲求に気味悪さを覚えたからだった。


 午前10時。シンヤはこの時間帯には大体寝ている事が多い。いつも通りの汚い寝相を見ると少し安心した。

 そして3時間後の午後1時にシンヤは目覚めて、朝一のトイレから戻るとすぐトーストしていない食パンをかじった。寝癖がライオンのように逆立っているし、髭も生えている。

シンヤは味のついていないパンを頬張りながら連絡用アプリを開いた。そして数秒後、盛大にパンを噴き出して咳き込んだ。音無も、急に慌てだしたシンヤの身に何が起こっているのか分からないまま双眼鏡を覗き続けたけれど、言葉にならない声だけを出したシンヤは急いでジーンズとTシャツを着て、ギターも持たずに外出していった。この日は結局、家には戻ってこなかった。


 シンヤは翌日の夕方に戻ってきた。顔が少し疲れていて、青ざめている様にも見えた。「あぁー」「やばい」「まじやばい」「どないしょー」と、心ここにあらずと言ったような独り言だけ繰り返して布団に寝転がる。そして何度もスマホの連絡用アプリを見ては、誰かに連絡をするかどうかをずっと迷っているようだった。

 頭を掻きむしってフケをを飛ばすと、あぁー!とまた声にならない声で叫んだ。隣から注意を受けたようですぐにシンヤはバッ!と隣の部屋の壁を見たが「しゃーないやん!」と一喝した。

 しばらく叫び散らかしたあとにシンヤは財布の中身を確認すると、またギターを置いて外へと出ていった。

 2時間後に戻ってきた彼は丸坊主になっていて、スーツ屋の紙袋を持っていた。そしてスマホから電話をかけて「おかん、俺、」と話し始めるとシンヤは窓に背中を向けてしまったため、音無にはそれ以上何が起こったのかが把握できなかった。


 数時間後にコンセントを借りていた本命っぽい女の子がシンヤの家を訪れた。最初は折り畳みのテーブルの前に座って「どうして丸坊主にしてるの?」と、にこにこほほ笑んでいたが、シンヤが口を開くとピンク色のほっぺたからは血の気が失せ、つぶらな瞳からは大粒の涙が流れ始めた。

「なんで?なんでなの?おかしいじゃん」とシンヤを責め立てたあとに、そのまま女の子はシンヤを押し倒してキスを求めた。けれどシンヤは「ごめんなさい」と謝りながら拒否して、さらに土下座までした。女の子はその後も泣いて叫びながら関係の改善を要求していたけれど、シンヤは謝る事しかできなかった。

 結局、真夜中近い時間に女の子はシンヤをビンタして出ていった。音無がその子を見ることは二度となかったし、シンヤはその晩、体が干からびそうな程泣いていた。

 幸せな時間を共有していたはずの二人の関係が1日やそこらで壊れてしまったのを、音無は双眼鏡越しに見届けた。


 翌日、シンヤの家には違う女の子がいた。ゆったりしたワンピースにヒールの低いパンプスを履いていた。そして、昨晩本命っぽい女の子が泣いていた場所に座って、にこにことほほ笑んでいた。緩く巻いたボブヘアーが印象的な子だったけれど、音無からすると、顔や仕草は本命っぽい女の子の方が可愛かったな、と思った。シンヤは女の子のお腹を撫でながら「そっちの家に挨拶に行きたいんだけど」と穏やかに笑いながら相談を始める。

 ただ、坊主になった上にやつれているシンヤの姿を見ると、それ以上は見ていられなくて双眼鏡を下げてしまった。

 その日の夜にシンヤのSNSが更新された。新着情報の題名に「大切なお知らせ」と書かれており、凄く嫌な予感がした。

 開くと「急なお知らせではございますが、本日を持ちまして音楽活動を引退します。今までありがとうございました」と書かれていた。それ以上は辛くて読めなかった。

 シンヤはもう何日もギターを弾いていない。代わりにテーブルで履歴書を書く日が増えた。

 愛のメロディを口ずさんでいた唇は、「私が御社を志望する理由は……」という温度のない台詞を吐くようになった。坊主になった髪は少しだけ伸びて、細かった眉毛も大衆に受けのいい太眉になった。鏡に向かって面接の練習をするシンヤを、音無はただ無言で見守った。

 そして1か月もしないうちにシンヤには内定が出たようで、ボブヘアーの女の子がケーキを持ってきて祝賀会を開いていた。シンヤはありがとうと笑ったあとに女の子にキスをして、「愛してるよ」と囁いていた。狭い部屋には引っ越し用の段ボールが積み重なっていた。


 その晩はシンヤの家では男友達が宴会を開いてくれていた。内定おめでと、これからがんばれよと励まされているシンヤはへらへらと笑っていた。そして酒が回ってきたころ、シンヤは久しぶりにギターを取り出して曲を弾いた。それは本命の女の子に向けて作っていたラブソングで、歌えば歌うほど目が涙で滲んでいった。

 鼻水を手で拭い、たまにしゃくりあげながらもシンヤは思い出の曲を歌い切って、「あかん。ちくしょー俺の馬鹿」と自分自身を罵倒した。

 そんな情けないシンヤの姿を見た友達の誰かが「もう今日は一晩中歌おう」と提案した。それがいいな、と同意した友人らは、酒とつまみ、そしてギターを抱えると、泣いているシンヤを無理やり連れ出してしまった。

 レンズ越しにそれを見ていた音無は、双眼鏡を下げて、しばらく考えたあと、スウェットを脱いだ。数か月前に洗ったきりのチノパンとシャツに着替えると、親にも妹にも何も告げずにマンションを飛び出ていった。数か月ぶりの外の空気は音無を歓迎するかのように温かくて、爽やかな夜風が彼の髪を揺らした。


 予想した通り、家の近くにある大きな公園の真ん中あたりまで行けば、数人の男達が騒いでいるのが見えた。もちろん真ん中にはシンヤがいて、ギターを弾きつつビールを一気飲みしながら友達と談笑している。

 音無はシンヤたちに見つからないよう陰に隠れる。レンズ越しでもスマホの画面越しでもないシンヤを見るのはこれが初めてのことだったが、声をかけるなんてことは考えていなかった。


 あくまで音無は「シンヤが元気そうだな」と思いたいだけだった。外に飛び出たのも、音無はシンヤにはきっともう二度と会えないのだから、「一度くらい許されるだろう」と思っての行動だった。

 だから音無には、ギターで弾き語りするシンヤを盛り上げていたうちの一人が「客いるじゃん!」とこっちを見て指を指して、なぜか手を引かれてシンヤの前に連れていかれるまでは、本人と関わるつもりなんて本当になかったのだ。


「こんばんは」とシンヤは酒で真っ赤になった顔で音無に挨拶をする。音無は口をパクパクさせながら、『あ、あ』と声にならない返事をした。心臓が張り裂けそうなほど動くせいで胸が痛いし、喉もカラカラに乾いていた。


「お兄さん聞いてくれてたん?どーやった?俺の曲ええ感じやろ?」


 シンヤは地元の方言全開で音無に訊ねる。生のシンヤは街灯に照らされているせいで、産毛の1本1本まで見ることができたし、薄い唇が少し乾いているのも分かった。

 音無はまた


『あ、あ、』


 と真っ赤になりながらどもり、


『い、い、いい曲、ですね』


 となけなしの声で返事をする。直後に「あぁ、何も言わなくてよかったのに!」と思ったときには遅くて、


「ひょっとしてシンヤのファンちゃう?」


 と誰かが気付いた瞬間、シンヤは、笑顔と、どん底に突き落とされたような悲しみの入り混じった顔をした。


「ほんまに俺のフォロワーさんなん?」


 とシンヤが気まずそうに問いかけてきたので、音無はこくりと一度だけ頷く。

 そして音無は言葉を探した。

 なるべく印象に残らなくて、シンヤに「キモい」と思われない差し障りのない言葉を見つけようと必死になった。

 そして、


『あ、あ、』


 と何回かどもった後に、


『再開、ず、ずっと待ってます。が、がんばって』


 という本音が、ぽろっと口から出ていった。

 意図しない本心に恥ずかしくなった音無は、返事も待たず走ってその場から逃げた。数年ぶりのダッシュのせいで一度転びかけたけど、それでも走って逃げていった。

 音無の突然の逃亡に、


「え、待って!?」

 とシンヤは全力で叫んだけれど、「叫んでも聞こえてないと思うよ」と友人のうちの一人が引き留めた。

 シンヤは友人のドライすぎる台詞を聞いて「俺めっちゃでかい声で叫んだのに?」と不思議そうな反応を見せる。

 友人はふう、とため息をついた後、さらに続けてシンヤに言った。


「だってあのお兄さん補聴器つけてたもん」


        ♩


 音無は公園の出口まで走り切った。

 ぜえぜえと肩を揺らし、胸の痛みを抑えながら、


『どうせなら「君のメロディが好き」と伝えればよかった』


 と、後悔した。

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