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第2話

 彼女は自身を否定され続けた。だから、【肯定難聴】を発症したのだろう。

 寒そうに背を丸めて歩く美凪の隣を歩きながら、そんなことを思った。制服のスカートには、ポケットが無いらしい。そのこともあり、先ほどコンビニで購入した、ホットレモンの小さなペットボトルで手を温めている。高校からの帰り道。夏はだいぶ前に終わったが、俺は、安いソーダ味のアイスを頬張る。

 「うー」

 「そんなに寒い?」

 「瀧上は寒くないの?」

 「あんまり感じないなー」

 「神経ある?」

 おいこら。俺は小さく笑う。

 「頑丈なんだよ」

 「……うらやましい」

 美凪は繊細すぎるんだよ。と、言葉にしそうになったが、それを飲み込んだ。ごまかすように話題を変える。

 「もうそろそろしたら文化祭だな」

 「そうだね」

 「ああいうのは準備している期間の方が案外、楽しいって説があるよなー」

 「説って。まあ、そうかもね」

 お気楽そうな声を出したつもりだった。美凪が少し笑ってくれた。それだけで嬉しくなる。けれど、美凪はどこか悲しそうで、痛々しい。孤立していた時期を思い出させたのだろうか。俺がいなかった頃の文化祭は、良い思い出ではなかったのか。やってしまった。そんな考えがぐるぐると頭を駆け巡る。

 「瀧上はステージで歌うんでしょう?」

 明るい表情で尋ねる美凪。先ほどの考えは杞憂だったかもしれない。俺は胸を手でどんと叩き、わざとらしく自慢してみせる。

 「まあな。伊達に曲作りや歌唱で小遣い稼ぎしてねえよ」

 「すごいよね。投稿した曲がプロの目に止まって。何万回も再生されているんでしょう? まだ高校二年生だよ?」

 「はっはっは。もっと褒めるがよい」

 「あはは。調子に乗ってる」

 「はははっ」

 二人で笑い合う、この時間が好きだ。ずっと続いてほしい。

 「本当に、瀧上はすごいよ」

 陰る美凪の表情。それにくらべてわたしは、と内心で思っていそうだ。自虐こそあまり口にはしないが、美凪はそういう思考回路をしているのだろう。つぶやくように俺は言う。

 「美凪の方が」

 「え?」

 人を救った。少なくとも俺はそう思っている。

 小学生低学年の頃。俺に、歌が上手だと言ってくれた。それがどれだけ嬉しかったか美凪は知らない。美凪に再会して【発症】のことを聞いて、力が抜けていくような、体温が下がっていくような感覚を今でも覚えている。

 救われたんだ、俺は。だからこそ、現在の状況をどうにかしたい。俺にできることなんて、たかがしれているけれど。

黙っていると、俺たちの前方を歩く小学生の男子が、ポケットから何かを落とした。距離は三十メートルくらいだろうか。美凪はすぐさま駆け出した。やれやれ、と思いつつも、やっぱり美凪は良いやつなんだと改めて実感した。美凪が落とし物を拾う。どうやらキャラクターが描かれたカードのようだ。

 「おーい、そこの君!」

 小学生男子が振り返る。背丈からして低学年に見える。あの頃の俺みたいだ。不思議そうに美凪を見つめていると、美凪がカードを手渡した。

 「落としたよ」

 「あ……。ありがとうございます」

 「ううん。気をつけてね」

 こくりと頷く小学生男子。すると、歩いてくる俺の姿を見つけて、小学生男子はニヤニヤし始めた。

 「お姉さん、付き合っているんだ~」

 「へっ? あはは。違うよー」

 きっぱり否定されるのも、なんだか複雑だ。

 「そうなの?」

 「うん」

 「でも、お姉さん【優しい】し、【美人】だから、大丈夫だよ!」

 満面の笑みで話す男子。まるでヒマワリでも咲いたかのような印象を持った。しかし、当の本人である美凪は困った様子で苦笑する。

 「あはは。……えーっと」

 「あー。照れてるー」

 仕方ない。助け船を出すか。俺は小学生男子に話しかける。

 「こら。あんまり人をからかうもんじゃない。そんなだと、好きな子に呆れられるぞー」

 「好きな子なんて、い、いないし!」

 いるのか。ませガキめ。人のこと言えないが。

 「じゃあね!」

 「うん。バイバイ~」

 逃げるように走り出す小学生男子。少し距離が離れたところでこちらを振り返ると小さくお辞儀をした。悪い子ではなさそうだ。俺もひらひらと美凪に習い、手を振った。

 小学生男子の姿が小さくなっていく。美凪が俺の方を向き、口を開いた。

 「あのさ、瀧上。さっきの、なんだけど」

 やっぱり。聞こえなかったか。俺はズボンのポケットからスマホを取り出して、メモ機能に字を打つ。打ち終えてから誤字がないか少し確認。それから美凪にスマホの画面を見せる。

 「優しくて美人、か。そっか……」

 【肯定難聴】。それは、強い自己否定や自己肯定感の無さが原因で発症する病。

 身体的な病気のように思うかもしれないが、精神的なものが原因だ。決して耳が悪くなったわけではない。肯定の言葉が認識できないのだ。

 治すことも難しい肯定難聴。それが、美凪静香という女の子が発症した病気だ。

 「ごめんね、いつも」

 「気にするなよ。これくらい」

 「あはは。瀧上は優しいね」

 美凪の方が優しいだろう。そう言っても、きっと美凪の耳には届かない。

 肯定難聴には中学の頃に罹ったらしい。この病に罹った人間には傾向がある。

 人格形成の際における圧倒的自信の無さ。大きな挫折。劣悪な環境の中、心の支えとなるものが無い。いじめなどによる外的心傷を負う。これらがある、または複合的に合わさると、肯定難聴の発症が高まる。

 美凪から、原因について詳しい話は聞いていない。聞くつもりもない。美凪の話では「ちょっと孤立しちゃった時期があった」らしいが、肯定難聴について調べた時点で、だいたいの察しはついた。高校ではその原因が無くなっていて、安心はした。

 だが、肯定の言葉を聞くことができない。それがどれほどの苦痛か、どれほどの孤独か。想像もつかない。どれだけ美凪のことを良く思っていても、それが伝わることはない。

 ふざけるな。叫びたくなる。

 「美凪」

 「なに?」

 「文化祭さ。俺の歌、聞いてくれ」

 「う、うん。被っている予定もないし、たぶん問題ないと思うけど」

 「絶対。聞いてくれ」

 真剣さが伝わったのだろうか。美凪は微笑んでから、左手の小指を俺に向ける。

 「わかった。約束するね」

 「ああ」

 指切りを交わし、俺たちはそれぞれの帰路に別れる。「またな」と手を振った。一人になり、俺は小さくつぶやいた。

 「誰からの好意も受け取れないなんて、そんなの、あってたまるか」

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