シンジュク駅の一日の乗降者数は、全路線を合わせると三百万人を超えるらしい。
その数は世界一だそうだ。
皆足早に正面だけを向き、目的地へと向かって行く。
この人の波の中で誰か倒れても、きっと、日常のひとかけらとして処理されてしまうんじゃないだろうか。
今、僕は日常の中で非日常を経験した。
命を狙われる、という非日常を。
それでも時間の流れは変わらないし、日常は通り過ぎていく。
僕は、スカイさんの腕をぎゅっと握り、その感触にこれは夢じゃない、と確認する。
あぁ、これ、現実なんだな。
三十度近く気温が上がっているはずなのに、僕の腕には鳥肌が立っている。
僕の様子を見て、スカイさんは目を丸くした後、戸惑い気味に僕の頭を抱きしめる。
スカイさんの香水の匂いが、優しく香る。
「怖い思いをさせちゃったね」
「いいえ……あの……」
大丈夫、という嘘を言う気持ちにはなれなかった。
「僕が君を守るから。絶対に。ね、まあごさん?」
え、まあごさん?
僕は思わず足元を見下ろした。
するといつからいたのか、二又の尻尾を立てたまあごさんが、僕の足のそばにいる。
え、いつからいたの?
「まあごさん……?」
「まったく。猫づかいが荒いよねえ、スカイは」
「え、いつからいたんですか? ずっといたんですか?」
「え? うーんと……」
僕の問いに、まあごさんは目を泳がせる。
「まあごさんには、毎日君にくっついて行ってもらっているからねえ」
「え、全然気が付かなかった……」
「まあ、人の目に見えない様にするのは、たやすいからねえ」
そう言うことか。
まあごさん、知らないうちに僕を守ってくれていたのか……
って待って。
「それって、僕が狙われる可能性、ずっとあったってことじゃあ……」
「まあ、そうとも言えるけれど、念のためだよ。学校は、僕がついて行くわけにはいかないしね。何かあればすぐまあごさんが教えてくれるから」
「私を使い走りにするなんていい度胸だよねえ」
言いながら、まあごさんは人の波をじっと見つめる。
「ヤタガラスに天使機関、なかなか面倒だねえ」
天使機関はわかる。
僕が生まれるはるか昔、都内でテロ行為を繰り返したテロ集団だ。
ヤタガラスは聞いたことがない。
ヤタガラスって確か、神様の使いの烏じゃなかったっけ?
三本足の烏……
「ヒジリはヤタガラスっていう闇の組織の暗殺者なんだよ」
さらりと言ったスカイさんの言葉に、僕は耳を疑う。
闇の組織。暗殺者。
あ、思考がついて行かない。
「怜君」
「はい」
「お昼食べて、服を見に行こう。話はそれからでも十分できるから」
そう言われて始めて、僕のお腹が空腹を伝える。
時刻はもう、十二時をとうに過ぎている。
あんな怖い目にあっても、お腹って空くんだなあ。
「お腹は空くよね。せっかくここまで来たし、僕は怜君との買い物、楽しみにしていたんだ」
そう言われ、僕は勢いよく頷いた。
デパートのレストラン街でパスタを食べながら、僕はさっきの青年について聞きたかったけれど聞けなかった。
周りの席の人たちは皆談笑していて、僕がさっきの事をスカイさんに聞いたとしても誰も気に留めないと思う。
けれど聞けなかった。
スカイさんは小説家で、妖怪とか悪魔を退治する仕事をしていて。
でも昔の事を語ったことはない。
スカイさんは、あまり自分の事を語らないし、昔の写真も見たことないや。
今聞けないなら、家に帰ったら聞こう。
食事の後、一緒にデパートやファストファッションのお店で服を見て、色々と買い物をして家路についた。
時刻は四時半を過ぎたところだった。
「べつに、無理に夕飯を作ろうとしなくてもいいのに」
服が入った大きな紙袋と、キチジョウジの駅前で買った夕食の材料の入ったエコバッグをさげたスカイさんは、苦笑して言った。
僕は首を振り、
「お昼は外で食べましたから、夕食は家でゆっくり食べたいんです!」
と、笑って答える。
本音は、今日の昼に会ったヒジリという青年について聞きたいだった。
さすがに外で物騒な話はしたくない。
「怜」
呼び捨てにされて、僕は思わず足を止める。
日がだいぶ落ちてきたとはいえ、気温はまだ高い。
アスファルトが貯めた熱が足元から伝わり、額や背中から汗が流れていく。
スカイさんは僕の方をじっと見つめ、いつにない真面目な顔で言った。
「あの子、ヒジリは暗殺者だよ。僕がそう育てた」
遠くでサイレンの音が聞こえてくる。
救急車なのか、パトカーなのか。その音の違いを僕は知らない。
子供の頃、この音を嫌と言うほど聞いたっけ。
お父さんが死んだ日。
たくさんのサイレンの音を聞いた。
「……暗殺者って……」
絞り出すように、かすれた声で僕は言った。
暗殺者。
現実味のない言葉だった。
いや、そもそもスカイさんのしている、悪魔や妖怪を退治する仕事だって、現実味なんて感じないんだけど。
「ヒジリはね、『ヤタガラス』っていう名前の組織に所属する暗殺者なんだ。僕は昔そこにいた」
「む、昔って……」
スカイさん、何歳だったっけ?
まだ二十代半ば……だったよね?
「『ヤタガラス』は悪魔退治や暗殺を手掛ける組織なんだ。僕はそこを抜け出したんだけれど、どうやら彼らは僕を諦めてはいないらしい」
「スカイさん……」
理解が追い付かず、名前を呼ぶのが精いっぱいだった。
スカイさんは僕の腕を掴み、いつものように優しく笑う。
「帰ったら話そう。わけもわからず、命を狙われるのは嫌だよね」
確かに嫌だ。というか、理由があろうと命を狙われるのは御免こうむりたい。
でもそれよりも。
「それよりも僕はもっと、スカイさんの事を知りたいです」
知らないことは不安を呼び起こす。
そして今これから何かが起きるのならば、僕は……スカイさんの負担にはなりたくない。