デスク上の灯りだけが灯る、薄暗い部屋。
赤いワインが入ったグラスを見つめ、皇海は物思いにふける。
『スカイさんとの時間は、お父さんといるみたいで楽しいです』
昨日、怜が言った言葉が耳の奥で響く。
一年前から一緒に暮らし始めた義理の息子。
独身の皇海には養子にできる資格がないため、正確には里子だけれど。
この一年、彼のおかげでいろんなことを経験できた。
「親」として学校に行き、高校を共に見学に行き、受験の日は送り迎えもした。
合格発表の日は落ち着かない時間を過ごし、合格を知った時は、人生の中で一番、嬉しかったと言えるだろう。
怜と暮らし始めた時、皇海は二十三歳だった。
十五歳の少年との接し方なんてわかるはずもないし、そもそも皇海は日の当たる場所で生きてこなかった。
だからきっと、足りない部分ばかりだろう。
それでも不満を漏らすことはないし、慕ってくれる。
その事に、内心戸惑いを覚えることがある。
「君を引き取るのに、四年もかかってしまった」
呟き、ワインを口にする。
怜に話したように、皇海は彼の父親に会ったことがある。
ただ一度、ほんのわずかの時間だけれど。
そして同じ時に怜にも会っている。
その時のことを、怜は覚えていない。
「全てを思い出したら、君は僕を許すだろうか?」
呟き、皇海はグラスを手に持ち、赤いワインをじっと見つめる。
血のように赤いワイン。この血を、皇海は何度も見てきた。
「僕はたくさんの罪を犯したからねえ。でも、そんなに罪の意識なんてないんだけど」
「お前のそう言うところ、私は理解できないよ」
そう言ったのは、いつの間にか現れた大きな三毛猫。
まあごはすっと机に乗ると、そのまま座り皇海の顔を見つめた。
「政府お抱えの元暗殺者。よくもまあ、今まで無事に過ごせているよ」
半ばあきれた様子でまあごは言う。
まあごと出会ったのは、四年以上前のことだ。
皇海が暗殺者として活動を始めた頃に知り合った。
彼女の言う通り、皇海は元暗殺者だった。
政府がもつ秘密組織ヤタガラスの暗殺者として、三十年前国内でテロを繰り返し、今でも闇で動き続ける天使機関の者たちと戦ってきた。
その経歴を完全に断ち切り、表世界に出てきたのは一年半ほど前だ。
「あはは。だって、まあごさん。罪の意識なんて持っていたら、僕の心はとうに壊れているよ」
「……そうだね」
まあごからしたら、皇海の心はだいぶ壊れて見えるけれど、自覚がないのか、それとも見ようとしないのか。
皇海は生に対する執着心が薄い。
それに、食に対する意識も薄い。
暗殺者時代からそうだった。
まあごから見て皇海はとても、危なっかしい。
「怜が来て、随分とお前は雰囲気が変わったよ」
「あぁ、それは自覚しているよ。でも……」
皇海はワインをひと口飲み、その揺れる水面を見つめて言った。
「もうすぐ終わるよ。この間の獣は、様子見だろう。きっと、彼らはやってくるよ。天使たちもたぶん……」
三十年前、国内でテロ行為を繰り返した天使機関は、本物の天使が作った組織だ。
神社や社の破壊を繰り返したと思ったら、突如としてテロ活動に終わりをつげ、なぜか闇に潜伏してしまった。
「天使の要求は、神をも斬ると言う刀だ。その刀はいったいどこにあるのか、誰も知らないんだよねえ」
「ふん。人の庭に土足で上がりこみ、身勝手な要求してそれが手に入らないと知った瞬間テロ行為。天使っていうのはほんと、身勝手だね」
「その身勝手さで、何十人と死んだ。人も、僕たちが使役する妖怪たちも」
なぜ、天使機関が刀を要求し、そしてテロ行為を繰り返したのか。
どうも彼らは、刀が神社にあると考えたらしい。
それで都内にある神社を片っ端から壊して回ったとか。
普通に考えて神をも斬る刀が、そう簡単に壊れるわけないとわかりそうなものだが。
「天使と戦ったことがあるけれど、ほんと、彼らはプライドばかりが高くて、僕たち人間を見下していて好きじゃない」
「あぁ、お前は天使殺しだったねえ。それでお前は天使機関のレッドリストに載っているって話だっけ? そんな状況でなんで怜を引き取ったんだい?」
「そばにいれば守れるじゃないか。彼は自分が狙われるなんて微塵も思っていないからね。それにあのまま孤児院にいたら、たくさんの人を巻き込んでしまう」
だから引き取った。
引き取ると決心し、いくつかの手続きを済ませた時も迷いはあった。
そして今も、その迷いは心の中にある。
グラスの中で揺れるワインを見つめ、皇海は呟く
「僕と一緒にいることがいいことなのか、今ではいいことだったのだろうかと思うよ」
「あの子はいつも笑顔じゃないか。その笑顔が証明しているだろう」
皇海はグラスを机に置き、頬杖をつきまあごの頭に手を伸ばす。
「あぁ、そうだね。ありがとう、まあごさん」
「それで今日、気になることがあったんだが」
「何、気になることって」
まあごは、金色の目で皇海をじっと見つめて言った。
「あの子、学校の行き帰りにいつも、学校そばにある小さな社で手を合わせるんだよ」
「あぁ、お地蔵様とか、神社とか見つけると手を合わせると言っていたよ」
「あの子が社に背を向けた時に声が聞こえてねえ。その社にいる狐が、あの子に警告したんだよ」
それを聞き、皇海は目を瞬かせた後、口角を上げて笑った。
「へえ、それは面白い話だね。長く生きた狐の中には、千里眼を持つ者がいるとは聞くけれど、その類かなあ。まあごさんは、先の事、何かわからないの?」
すると、まあごは不機嫌そうにひげをぴん、とたて、すっと目を細める。
「たとえ自分に危険が及ぶ未来が見えたとして何ができる? どんな道筋をたどろうと、結果は変わらないものだよ。お前は、自分に訪れる未来を知りたいのかい?」
意地悪な声音で言うまあごに、皇海は首を横に振って見せた。
未来を知りたいとは思わない。
重要なのは今をどう過ごすかだ。
「そんなものに興味はないよ。生きている限り絶対に死が訪れることはわかっているんだから。僕にはその事実だけで十分だからね」
「あぁ、お前はそうだろうね。まあ、言えることは確実に日常は崩れていくだろうね。お前と、怜の日常は。まあ、契約は契約だから、私はお前が死を迎えるまで付き合ってやるよ」
そう言ったまあごの目は妖しく光った気がした。