ヤマノテ線の外。シンジュクから電車で二〇分ほど離れたこの一帯は、高級住宅街となっている。
その一角に建つ洋館が、僕の住む家だ。
主の名前は、天皇海(あますかい)。
父親を失い、孤児院に預けられた僕、穂高怜を引き取った人だ。
鍵のかかっていない重い玄関扉を開くと同時に、二階から足音が響く。
階段を下りてきたのは、黒のパンツに黒のカットソーを着た虚ろな顔をした青年。
癖のある黒髪に、生気のない黒い瞳。
年齢は確か、二十代半ばくらい。
この館の主で、僕の養父であるスカイさんだ。
「ただいま、スカイさん」
「やあ、お帰り、怜君」
小走りに階段を下りてくると、スカイさんはぱっと、明るい顔をして僕の手をぎゅっと握りしめた。
「今日の夕飯はなんだい?」
「今日はオムライスです!」
言いながら、僕は手に下げた買い物袋に視線を向けた。
「あぁ、楽しみだなあ、ねえ、まあごさん」
声をかけられた三毛猫は、大きな欠伸をして顔を洗う。
「じゃあ、僕はご飯作りますから待っていてくださいね」
「それじゃあ僕も、あと少し頑張ってくるかなあ」
言いながら、スカイさんは腕を上げて大きく伸びをした。
「自分の小説読むの、ほんと、苦手なんだよねえ……」
「その小説を楽しみにしてらっしゃるファンの方がいるんだから、ほら、続き、頑張ってください!」
僕はスカイさんの背中を押し、階段へと追いやった。
スカイさんは小説家だ。
だけど、校正が大嫌いらしい。
一度書いたらそれで完成なのだから、もう読みたくないのだとかなんとか。
正直意味は分からない。
「わかってるよ、怜君」
スカイさんは、僕を振り返る。
「その前に、紅茶、淹れてくれるかな?」
「わかりました」
スカイさんを二階に追いやり、僕はキッチンへと向かった。
一年前、十五歳になった六月の誕生日。
孤児院から僕を引き取ったスカイさんは、少しおかしな人だった。
小説家で、まあごさんという猫の妖怪と共に暮らし、厄介ごとに自ら首を突っ込んでいく。
「いい人、何だけどねー」
「ただの変な奴だよ、あいつは」
茶葉をポットに入れていると、食堂の椅子に座り尻尾をぱたぱたと振りながら、まあごさんが言う。
「変な奴。ははは、確かにねー。まあごさんていつからスカイさんと一緒にいるの?」
そう問いかけると、まあごさんはぺろぺろと手を舐めて、視線をきょろきょろと動かす。
「あれは二年……いや、五年前だったっけ……? あれ?」
二年と五年て大違いな気がするけれど。
まあごさんは人じゃないからか、時間感覚が僕たちとは違うらしい。
「まあ、いつでもいいよ。結構たつねえ」
「僕が引き取られた時にはここにいたんだもんね。いいなあ、僕ももっと早く、スカイさんに出会いたかったな」
「お前……」
と呟き、まあごさんは首を振る。
あれ? なんだろう、この間は。
不思議に思いながら、僕はお茶の用意をすすめた。
「まあいい。お前が覚えていないなら、それを私が伝える義理はないからな」
「まあごさん?」
話をしながら、僕はスカイさんの為に紅茶を用意すした
青い陶磁器のカップにお茶を注ぎ、僕はトレイと共にカップを運ぶ。
窓の外は日が暮れはじめ、廊下を夕暮れ色に染めている。
赤い血のような色。そう思い、僕は一瞬、足を止める。
血。赤い血。
脳裏をよぎる、視界を染める真っ赤な血。
「怜」
声がかかり、僕ははっとして足元を見た。
僕の足にまとわりついてくる、三毛猫の姿が視界に入る。
「あ……」
「ほら、スカイが待ってる」
「あ、うん、ありがとう」
何かが見えた気がしたけれど、僕は首を振り、階段を行く。
二階にある、スカイさんの部屋。
茶色の扉をノックしようとしたとき、空気がぴーん、と張りつめた気がした。
何だろう。この感じ。
この扉の向こうに何か……いる?
「スカイさん!」
僕はトレイを捨て、勢いよく扉を開く。
そこで目に映ったのは、窓を破り、椅子に座るスカイさんにとびかからんとする黒い獣の姿だった。
瞬間、スカイさんはすっとその場を離れ、手を振るう。
彼の手から伸びた糸は、窓から入ってきた獣に絡みつく。
黒い大きな犬のような姿の獣は糸に縛られ、ばたばたと足をばたつかせている。
「スカイさん?!」
僕の声にスカイさんはにっこりと微笑み、
「やあ、怜君。窓、割れちゃったよ」
と言い、手をぐい、と引き寄せた。
すると、糸に巻きつけられた獣の身体はばらばらになり、ふう、と消えてしまった。
スカイさんは小説家でありながら、悪魔を狩る仕事をする。
だから僕が悪魔を見たのは初めてではないし、スカイさんがその悪魔を倒すのを見たのも初めてではない。
けれどここに悪魔が現れることなんて初めてだ。
「スカイさん、大丈夫ですか?」
僕が声をかけると、スカイさんは手をひらひらと振りながらへらへらと笑う。
「大丈夫だよー。いやあ、僕が襲われる日が来るなんて思わなかったよ」
「何か心当たりは」
僕の言葉に、スカイさんは右手の人差し指を顎にあてて天井に視線を向ける。
「うーん……ない!」
襲われた割には明るくて、危機感ひとつ感じない。
「困ったものだねえ、怜君」
そして、スカイさんは廊下の方へと視線を向ける。
「あぁカップ、割れちゃったね」
言われて始めて、僕ははっとして記憶をたどる。
僕はここのドアを開く前に、トレイを捨てた。
そして、同時に聞こえた陶器の割れる音。
冷たい汗が背筋を流れていく。
「ご、ごめんなさい、スカイさん! 思わずポイ捨てしちゃって」
「あぁ別に大丈夫だよ。カップはたくさんあるし。怜君」
スカイさんは僕の手を掴むと、ぎゅっと握った。
「君に怪我がなくてよかったよ」
「大丈夫ですがでも……雨降ったら、大変ですよね」
僕が言うと、スカイさんは固まった。