暗闇に溶けるような、真っ黒なジャケットに真っ黒なパンツを着たその人は、僕を見下ろして言った。
「三年、待っていろ」
三年。
それがどんな意味を持つのか、僕にはわからなかった。
三年。
十五歳まで、いったいどこで何をして待てばいいんだろうか?
「だからそれまで」
彼の手が、僕の額に触れる。
「眠っていろ」
「あ……」
そこで僕の意識は途切れた。
それから四年が過ぎた。
学校そばの小さな神社の前で手を合わせてから、僕は駅に向かって歩き出す。
ビル群の隙間にある通りを歩きながら、僕は空を見上げた。
トウキョウの空は、青いはずなのになぜか灰色がかって見える。
それは、高層ビル群の存在のせいだろうか。
空を見上げても、白や灰色の巨人が僕の視界を遮ってくる。
僕がこの町にある高校に入学して、二か月が経とうとしていた。
それはつまり、スカイさんに出会って一年が経つってことだ。
ということは、六月二日がもうすぐやってくるそれは、僕の誕生日。
一年前、十五歳の誕生日にスカイさんは孤児院に僕を迎えに来てくれた。
だから僕は初めて、スカイさんといっしょに誕生日を迎える。
そう思うと僕の心は跳ね上がる。
高校での授業が終わり、僕はこれから電車に揺られてキチジョウジの駅まで行く。
そして、途中の商店街で夕食の買い物をして、家に帰る予定だ。
「穂高君」
名前を呼ばれ振り返ると、そこには同じクラスの女子生徒が立っていた。
肩口で切りそろえられた黒髪。二重の大きな瞳。
榛名セシル。僕の前の席の子だ。
「榛名さん」
「穂高君の家って、キチジョウジのほう?」
言いながら、彼女は僕の隣に並ぶ。
不思議に思いながら僕は頷いた。
「うん、そうだよ。でもなんで?」
「同じ電車で見かけることが多いから、そうなのかな、と思って」
「あ、じゃあ、榛名さんも?」
「私はナカノなの。ねえ、よかったら一緒に帰らない?」
こちらの様子をうかがう様な目をして彼女は言った。
女の子に誘われて断るわけはなく。
僕は頷いた。
「いいよ」
僕の答えを聞いて榛名さんの顔がぱっと、明るくなる。
「よかったー。断られたらどうしようかと思ったの。友達は先に帰ったし」
「え? そうなの?」
それってどういうことだろう?
不思議に思いつつ、僕達は連れ立って駅に向かって歩いていった。
「穂高君は部活入ってないの?」
「うん……入りたい部活ないし、家事もやらないとだから」
「家事って……穂高君がしてるの?」
榛名さんは驚きの声をあげる。
確かにこれは驚かれることが多い。
「うん。養父も家事はできるんだけど、食べることへの興味が薄くて。だから僕が作らないと食べようとしないんだよねー」
「……養父って……穂高君ち、複雑なんだね」
想像通りの反応が返ってきて、僕は内心苦笑いする。
まあ、そうなるよね。
「僕、去年まで孤児院にいたから」
「孤児院……そうなんだ。穂高君、すごいね。ご飯も作って、勉強もして」
すごい、と言われて悪い気はしない。
僕はちょっと照れて、頬を人差し指で掻いた。
「家事は嫌じゃないしね。養父は無理に家事をやらなくていいって言ってくれてるんだけど。でも、僕、スカイさんに何にもできないからさ」
「スカイさん……養父さんの名前?」
「うん。帰りに夕食の買い物していかないと」
「何作るの?」
何作るかは正直考えていない。いつも買い物行ってから考えてるからなあ。
今日は水曜日。
卵の特売日だ。
「卵料理かなあ……」
「オムライスとか?」
オムライスかあ。
とろり、とした卵ってどうやってやるんだろう? やってみたいな、あれ。
僕は榛名さんの方を向き、笑って言った。
「オムライスいいかも。冷ごはんがあるはずだから、そうしようかな」
「いいなあ。いつか一緒に作ってみたいな」
榛名さんはそう言った後、顔を真っ赤にして、下を俯く。
一緒に作ってみたいって、どういう意味だろう。
まさか……ね?
疑問を抱きつつ、僕たちは駅にたどり着いた。
シンジュクの駅はいつも人であふれてる。
都会ってすごい。
電車が次から次へとくるし、車両も多いし、路線もたくさんある。
スカイさんのおかげで僕はいきたい高校に行けているし、生活できている。
どうしたら恩返しできるだろうか? って最近よく考える。
スカイさん、欲しいものは自分で買えるだろうし……そう思うとあげられるものってないんだよなあ。
来週、僕の誕生日がある。
スカイさんとはまだ、その話はしていない。
自分から言い出すのはなんか嫌で言い出せないでいる。
ホールケーキ……あこがれるけどふたりだけだし、きっと食べきれないよね。
ハッピーバースデーと書かれたチョコレートプレート。
「16」の数字ろうそく。
想像しただけで幸せな気持ちになれる。
「穂高君、さっきから表情がころころと変わっているけどどうしたの?」
榛名さんの笑いを含んだ声が聞こえてきて、僕ははっとする。
「え? そんなに顔、変わってた?」
「うん。何か楽しみなことがあるの?」
「来週、誕生日だから……」
一瞬悩んだものの、素直にそう答えると榛名さんはばっと、こちらを向いた。
目を大きく見ひらき、
「え、そうなの?」
と、驚きの声を上げる。
そんなに驚くことかな?
「う、うん、そうだけど……」
「え、いつなの?」
「六月二日だよ」
僕がそう答えた時、電車がすぐにやってくる。
電車は人々を吐きだした後、すぐに多くの人間を飲み込み動き出す。
「そっか……二日が誕生日か……」
榛名さんは顎に手を当ててそう呟く。
僕の誕生日がどうしたんだろう?
何かそんなに気になるだろうか?
「誕生日って、今でもなんだかドキドキしちゃうんだよね。さすがにホールケーキはお願いしなくなったけど」
榛名さんの言葉が、ぐさり、と僕の心に突き刺さる。
ホールケーキはやっぱりなしかなあ……
途中で榛名さんが降り、僕はひとり窓の外の景色を見ながら考えた。
スマホで調べたホールケーキの画像が次々と脳裏に浮かんでいく。
すぐにキチジョウジの駅に着き、僕はもやもやしながら歩き、スーパーへと立ち寄った。
買い物をして帰りながら、僕はまた空を見上げる。
学校がある町とは違いこの辺りはビルが少ない。そのせいか、空はちゃんと青く見えた。
「怜」
足もとで凛とした声が聞こえ、僕は視線をさげる。
僕の足もとにいたのは大きな三毛猫だった。
長い二又の尻尾が特徴的なその猫は、フードのついた黒いベストを着ている。
「まあごさん」
猫は尻尾を振りながら大きく欠伸をした。
「おかえり、怜。迎えに来たよ。スカイが待っている」
「うん。わかってる」
僕はショルダーバッグの紐をぎゅっと、握りしめた。