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第2話 クズ

「――私ね。多分、癌なんだ。乳がん」


七海の口から予想外の答えを聞いて、凛太郎の脳みそは一瞬、活動を停止した。


 入社早々、営業部の先輩である若生から、新入社員の歓迎会の時に「彼女、有名人やで」と阿賀川七海のことを知らされたが、その瞬間は凛太郎25年の人生で初めての”一目ぼれ”であった。阿賀川七海は確かに美人である。しかしそれ以上の『何か』を凛太郎は強く感じ、強力な引力に吸い寄せられるかのように惹かれていった。


 だが同時に、あまりにも相手が高嶺の花過ぎるとも感じていた。かたや会社のアイドルでチーフデザイナー。仕事は抜群にできて人望も篤い。それと比べて自分は…営業成績は常に最下位争いばかり。不思議と社長を含むまわりの人に愛されているから社員を続けているだけで、普通ならいつクビにされてもおかしくないはずだ。人としての格差がありすぎるという理由で、凛太郎は七海に対して、自分の思いをうち開けることはしなかった。どれだけ苦しくても、このまま社内に大勢いる「阿賀川七海ファン」のうちの一人のままでいいと思っていた。


 ところが今回、突然の七海の退社の噂を聞いて、七海と会えなくなるのは絶対に嫌だという思いが、この遠慮の気持ちを打ち破った。もし彼女が本当に会社を辞めるのなら、自分の思いを伝えよう。本来、なぜ営業マンを続けられているのかわからないほど奥手である凛太郎にとって、この決断をするだけでも実に膨大なエネルギーを使ったのである(少なくとも本人はそう感じていた)。


 だが今、凛太郎は心底後悔していた。自分の惚れた腫れたという感情だけでしかモノを考えていなかった己れの浅はかさが、心底憎かった。決して体力に自信がある方ではないが、健康体である凛太郎にとって「癌」という言葉は新鮮ですらあった。それほど凛太郎の自分史において馴染みのない言葉であった。自分が思いを寄せている相手は、まったく予想外のものと、おそらくは大いなる深刻さをもって戦っていたのである。


「……」


凛太郎はなかなか言葉を発することができない。


「ごめんね。リアクションに困っちゃうよね。

…胸に…しこりがあってさ。今度、きちんと検査するんだけど、ほぼ間違いないでしょうっ、だって」


「…そう…ですか…」


「…乳頭にね。少しでも癌細胞があると、全摘出なんだって。全部取っちゃわなきゃいけないの。」


「…」


「私、しこりの場所がね。乳頭に近いんだ…」


予想の何倍も重たい話だった。てっきり「今の自分のスキルに満足がいかなくて…」とか、「実家の都合で…」とか、そういった話を予想していたのに。


七海の目には涙が浮かんでいる。

凛太郎にも、七海の不安と恐れが痛いほど伝わる。


ドクン。


凛太郎は自分の心臓の鼓動が異様に大きく感じた。凛太郎の脳内を、今まで経験したことのない感覚が襲う。


ドクン。


らぬぞ』


「うっ…」


凛太郎は下を向いて頭を押さえる。夢の中で頭の中に響く、あの声だ。


『手術も検査も受けんでよい。なぁ、凛太郎よ』


なぜか分からないが、この声が言っていることが正しいということには確信が持てた。


「検査は…受けなくていいです」


「…え?」


「検査を受ける必要はないです。心配いりません」


「…なんで?」


凛太郎は、自分でも自分が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。


「なんででもです。検査はキャンセルしてください。」


どうしてそこまで断言できるのか、凛太郎本人も全く分からない。が、頭に響く声のとおり、検査は不要だという絶対的な自信がどこからともなく湧いてくる。


「何言ってるの…?どんな…何の根拠があるの?」


根拠だの理由だの言われても、凛太郎本人も説明がつかないものは、七海に説明ができるわけがない。ただ一つ、自分が七海のことを心底大切に想うがゆえに、検査も手術も必要ないという『事実が分かる』のだということには、何となく確信があった。


「…僕は…はじめてお会いした時からずっと、阿賀川さんのことが好きでした。」


「…は?」


「だから、阿賀川さんのことは分かるんです。検査はいりません。」


凛太郎は、われながら最悪の告白だ、と思った。


「…全ッ然意味わかんない。」


七海の混乱と感情の高まりもピークに達する。当然である。


「どういうこと? …今わたし、本当に、本当に心がつらい時で…」


七海の声がつまる。


「そういう時に、こんな… こんなに感情が乱れるようなことを次々に言われると、私は…」


七海の目からは涙がこぼれ落ちてしまっている。


「葛原君、ホントにひどい。私が精神的に大変だから、便乗して告白すれば上手くいくと思ったの?それも若生さんからの入れ知恵?」


「違います!そんなことは、誓って絶対にないです!」


「…葛原君。あなた、男のクズよ!!!」


 凛太郎は自分の心臓が押しつぶされるような感覚を味わった。というより、七海の言葉が巨大な槍となって凛太郎の心臓を貫き、絶命に至らしめた(ほどの感覚を味わった)といった方が近い。今まで味わったどんな苦しみも、比較にならないものだった。


『ハハハ。頃合いかの』


ドクン。


頭の中の声とともにまた心臓の鼓動が大きく響き、凛太郎は自分の視界が徐々に暗くなっていくのを感じた。


『代われ、凛太郎…』


クラッ。凛太郎が白目をむく。

バタン!と言う音をたてて、凛太郎はそのまま店のテーブルに頭を打ちつけ、突っ伏してしまう。失神してしまっているのである。


「ちょっと、大丈夫?葛原君?」


凛太郎が気を失っていたのは、ものの5秒くらいであろうか―。


凛太郎は「カッ!」と急に意識を取り戻して顔を上げる。


が、何か様子がおかしい。犬歯が大きくなり、牙のように突き出している。そして何より…


「葛原君、眼が…!」


 凛太郎の目は、人間のそれではなくなっている。たとえて言うなら、爬虫類の目が近いだろうか。黒い瞳孔は縦長で、瞳孔の回りの虹彩は、金色こんじき色。その周囲、人間で言えば白目に相当する部分は、吸い込まれそうな緑色である。

「おっと。なにせ久しぶりでの。この目では流石さすが不味まずいか。」


凛太郎は「むー」と数秒間目をつぶって、もう一度開ける。ぱちぱちと瞬きをする。


「今度はどうじゃ」


凛太郎が次に目を開けると、先ほどまでの爬虫類の眼の要素はだいぶ薄れている。ただ虹彩はいつもの凛太郎のこげ茶色ではなく、深い緑色のままである。


(おかしい。いつもの葛原君とは雰囲気が別人。何より、さっきの眼!人間の眼じゃないみたい)


七海は、目の前の光景に一瞬、自分の心配事を忘れてしまっている。


凛太郎がニヤッと笑って口を開く。


「おぬしが、阿賀川七海とやらか。ふん、凛太郎にしてはいい趣味をしておるわい。」


「……??」 


七海の頭の中は完全にクエスチョンマークだらけである。


「それにしてものぅ。惚れた女子おなごに振られたショックで気絶するとは、なんとも情けない奴じゃ。

…まぁ、おぬしには礼を言わねばなるまいな。おぬしのおかげで、こ奴と交代できた。」


「あの… 凛太郎君じゃないの?」


「フフフ、凛太郎とは、しばらく交代じゃ。今日一日はこの肉体は儂が預かる。心配せずとも明日の朝には返してやる。『かいしゃ』とやらの仕事は、面白くなさそうじゃからの」


「…誰なの、あなた」


「おぬし、先ほど儂の名を呼んだではないか。」


「え…?」


「クズ、と呼びおったであろう。人間に呼び捨てにされるのはちと腹立たしいのう。そもそも、今のこの国の人間には、儂らを敬うものがあまりに少なすぎるわい」


「はあ?」


「…さてと。少々長く寝過ぎて、腹が減っているのでな。腹ごしらえをさせてもらうぞ」


凛太郎の上半身が巨大に膨れ上がり、ビキビキビキ…と不気味な音を立てながらみるみるうちに変化していく。角が生え、口は大きくけ、先ほどまでとは比べ物にならないほど鋭く巨大な牙がのぞく。よく見ると、左目を縦断する大きな傷跡がある。


「動くなよ。七海とやら。おぬしは美味そうじゃ」


さっきまで『凛太郎だったもの』の影におおわれ、七海の顔は恐怖にひきつった。


「…龍…?」


「いかにも。われは九頭龍。クズ“様”とでも呼ぶがいい」


先ほどまで凛太郎《だったもの》は、瞬く間に大きな口をガバッと開け、七海の上半身に食いついた。


「いただきます」


七海は、自分が龍に食べられる『ガブリ』という音を聞いた。


(つづく)

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