ピピピピピーッ!
「はい、止まって!」
響き渡る笛の音。
そして、車内にまで聞こえてくる大きな声。
彼女は、声の持ち主である警官の指示に従い、車を停車させた。
誘導棒を持った若い警官たちの中に、1人中年の警官がいる。
おそらく、声の主はこの中年警官だろう。
彼が、車に近付いて来るのが見えた。
彼女は、パワーウインドウのスイッチを押して窓を開ける。
「検問です。運転免許証を拝見いたします」
切れ長の目が凛々しい中年警官。
顔立ちや仕草から、大人の渋さを感じさせる。
きっと、若い頃は相当モテたんだろな……。
そんな考えが、
「何かあったんですか?」
彼女は、助手席にあったバッグから運転免許証を取り出しながら問う。
「いえ……恋愛免許が無いのに告白しようとする少年がいましてね」
警官は、免許証に目を落としながら答えた。
「そうなんですか」
「まったく、困ったものです。……ん?」
「どうか……しましたか?」
「いえ……あなたのお名前、
中年の警官は額に手をあて、しばし考える素振りを見せる。
「あの……失礼ですがご職業は?」
「私、高校で教師をしております」
「それって……もしかして、
「はい、そこの2年2組の担任をしています」
恐る恐る尋ねる警官に、ヒナコ先生は優しく答えた。
「ああっ、やっぱり! そ、それは失礼しました!」
警官は敬礼をすると、慌てたように免許証を返す。
「いつも、息子がお世話になってます!」
「え? 息子さん?」
先生は首を傾げた。
「申し遅れました、私はカズマの……。
そう言って、目の前の警官は頭を下げた。
「いつも息子がご迷惑おかけしています」
「迷惑だなんて、そんなことありませんよ」
ヒナコ先生は微笑む。
「ちょっと不器用なところはあるけど……。友達思いのいい子ですよ」
「そ……そうなんですか?」
「はい」
「そうですか……」
ため息混じりのその声には、安堵の感情がありありと見えていた。
「ああ、ところで先生」
しかし、その声はすぐに仕事へと戻る。
「先生は、どちらに行かれるんですか?」
「はい、ちょっと駅まで。今日は実家の母が来ることになってまして、その迎えに」
「ああ、そうでしたか」
カズマの父さんは、ポンと手を叩く。
だけどその顔は、すぐに申し訳なさそうなものになった。
「すみません、この先は封鎖されてまして。車では駅の正面に行けないのですが」
「あら~、それは困ったわ」
体をくねらせるような、ヒナコ先生の声。
「徒歩でしたら問題なく利用できるのですが……」
「困ったわ~、母は足が悪くて~」
そんな先生に、カズマの父さんはニカッと笑う。
「でしたら、そこの路地を抜けて下さい。道なりに行けば、駅の裏手の方に出ますよ」
明るく答えるその声からは、気さくな性格が滲み出ていた。
「わかりました、そこの路地ですね」
「あれっ? 新発田さん!」
そのとき不意に若い声が響く。
見れば、そこには20代くらいの警官が立っていた。
「新発田さん、何やってるんです!?」
「何ってお前、交通整理をだな……」
「そんなものは、若い者に任せればいいんです」
若い警官は、やれやれと息を吐く。
「上の人は、もっとどんと構えてて下さいよ」
「何を言う! 俺はこう見えて、交通整理のシンちゃんと呼ばれてだなぁ!」
「そう言うわりに、後続車は別の者に任せ、ご自分は話し込んでたじゃないですか」
「うぐっ……。そ、それはだな……困ってる人がいたら手を差し延べるのが我々の使命であって……」
「はいはい、わかりましたから」
若い警官は、苦笑いを浮かべながらカズマ父の背中を押していく。
「こ、こら、ちゃんと話をだな……」
カズマの父さん……。
顔は二枚目だけど、性格は三枚目なのかも……。
小さくなっていく背中にヒナコ先生は会釈すると、教えられた路地に向かって車を走らせた。
しばらく車を進めたところで、先生は前を向いたまま口を開く。
「……もう、出て来ていいわよ」
「ぶはぁ!」
その言葉と同時に、僕は後部座席から飛び起きた。
体を覆っていた大きめのブランケットが、パサリと下に落ちる。
「あ~、暑かった!」
車の中はエアコンが効いているとはいえ、今は夏だ。
頭からブランケットを被ってたら、そりゃ暑いに決まっている。
「ふ~~」
僕は片手を
「梨川くん……。時々、ブランケットから外を覗いてたでしょ~」
「えっ!? ……バレてました!?」
「バレバレよ、もう~」
ルームミラーに映る先生は、ふうっとため息をついた。
「見付かるんじゃないかって、冷や冷やしたわよ」
「あう……ごめんなさい」
「まぁ、見つからなかったから良かったけどね」
「ほんと、お世話になりっぱなしで……」
僕は今、ヒナコ先生の車の中にいる。
ハカセの活躍で警官たちを振り切ることができたけど、駅の正面口に続く大通りはすでに封鎖されていて……。
警察の人も、今まで以上にいっぱいで……。
困っていたところを、たまたま車で通り掛かった先生に声を掛けられた。
それで、事情を察した先生は、僕を半ば強引に車に乗せたのだった。
「ニュースの情報だと高校生は走ってるって言ってたし、車ならノーマークかなって思ったのよね。……でも、その高校生が、まさか自分のクラスの子だとは思わなかったわ」
「すみません……」
肩をすぼめている僕に、先生は笑顔を見せる。
ちなみに、駅にお母さんを向かえに行くというのは、本当のことらしい。
「ねぇ! 先生の演技、なかなかだったでしょ?」
「え!? あ、はい、それは……う~ん……」
「何よ? 言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさい」
「や……ちょっとクサい演技だったかなって……」
僕は頬をかいた。
「えっ、そ、そうだった?」
「はい……。『あら~』とか言って、体をくねらせるとことか……」
「あ、あれは雰囲気を出そうとして!」
頬を赤く染める先生の姿が可笑しくて、思わず口から笑い声が漏れた。
「まったく、誰のせいだと思ってるの」
そういう先生も笑っていた。
ひとしきり笑いあったあと、僕は先生に向き直る。
「……先生」
「うん?」
「なんで先生は、僕を助けてくれるんですか? 先生は大人なのに……」
僕は、胸の奥に渦巻いていた疑問を口にした。
規則を作るのは大人たちだし、それを破ったときに怒るのも大人たちだ。
今の僕は、無免許での告白をしようとしている。
普通なら、激しく怒られているとこだ。
「梨川くん……」
僕の問いに、先生は少しだけ悲しそうな横顔を見せた。
「大人がみんな、敵だと思わないで」
「え……で、でも普通は……」
「子供が何かを成そうとするとき、大人がそれを信じられなくてどうする!」
不意に響く強い口調。
僕は驚き、思わず息を呑んだ。
「ふふっ……ビックリした? これね、私が高校生のとき、担任の先生が言ってた言葉なの」
目を細めるヒナコ先生。
「いい先生でね……。私が教師を目指すキッカケになった人だったんだ」
「そうなんですか……」
遠くを見詰めるような瞳。
それは、昔を懐かしんでいるかのようにも見えた。
車は駅の裏手に到着した。
ここから駅は、目と鼻の先だ。
「梨川くん……」
ヒナコ先生は路肩に車を止めると、静かに振り返る。
「私は、あなたを信じる。あなたのその想いは、間違いなんかじゃないって信じてる」
「先生……」
「そして、この恋の答えは、あなた自身で確かめてほしい」
そう言って、先生は優しく微笑んだ。
「教師という道を見つけた、あのときの私みたいにね」
「答え……」
そうか……。
告白をしたからといって、それが上手くいくとは限らない。
フラれることだってあるんだ……。
でも……。
あのときこうしていれば……。
と、後になって後悔するのだけは、もう嫌なんだ!
だから、僕はミサキに告白をする。
これが僕の答え。
ミサキから、どんな返事がもらえるかは分からないけれど……。
僕は、それを受け止めなくちゃいけないんだ!
「いい目をするようになったね」
不意にヒナコ先生が言う。
「少し前と違って、迷いがなくなった気がするよ」
「そ、そうかな……」
なんだか、少し照れ臭くなった僕は、平静を装いつつ頬をポリポリとかいた。
「……あ、でもね!」
そんな僕に、ヒナコ先生は向き直る。
「私は、梨川くんに法を犯すことを勧めているわけじゃないからね?」
先生は、少し笑いながら言った。
「恋愛法は、私たちの暮らしを守るためにできたもの。それは間違いないから」
「そう……ですね」
「だから、あなたが戻ってきたら、何らかの罰を受けてもらうことになると思う」
その顔は微笑んではいるけど、目は真剣だった。
「その覚悟はできてる?」
静かな。
だけど、強さを感じさせる声。
「……はい!」
その声に緊張しながらも、僕は先生の目を真っ直ぐに見詰め答えた。
「そっか……。わかった」
僕の答えに満足したように、先生は何度もうなずいた。
「それじゃ、早く行ってきなさい」
そう言って、指し示す先。
そこには駅の構内へと続く狭い階段があった。
その場所は駅の裏手ということもあり、利用する人は少ない。
ただ今は、検問の影響で正面入口が利用し辛いためか、数人の人影が見て取れた。
その中には、警官の姿もある。
人数は2人。
階段の入口に立つ彼らは、この入り口を利用する者をチェックしているようだった。
「こんなとこにも……」
通行人を見詰める警官の鋭い目。
僕は思わず、息を呑んだ。
「大丈夫、私に任せて」
「先生……?」
「……私も覚悟は出来ているから」
「えっ!? それって……」
驚く僕に、先生は笑顔を見せる。
「今から私が警官の注意を引き付けるから、梨川くんはその隙に行きなさい」
「で、でも!」
「あなたの答え、しっかりと示しなさい!」
僕を、真っ直ぐに見つめる先生。
その笑顔は、どこか晴々としている気がした。
「ほら今よ! 降りて!」
「先生……」
「早く!」
その勢いに押し出されるように、僕は後部席の扉を開けて外に出た。
それと同時に、先生も車から降りる。
僕が車の陰に身を隠したのを確認すると、先生は警官の方に歩を進めた。
「すみませ~ん、ちょっとお聞きしたいのですが~」
「はい、何でしょうか?」
先生の演技に、キビキビと言葉を返す警官。
「田舎から出てくる母に~、何か美味しいものを食べさせたいのですが~」
「は? ……はぁ」
「どこか、オススメのお店はありませんか~?」
「い……いえ、そういうのはちょっと……」
ヒナコ先生の言葉に、警官は戸惑いを隠せない。
「お願いします! 母はグルメなんです!」
「そ、そんなこと言われましても……。お、おい、ちょっと来てくれ!」
くねくねした調子から、すがりつくような口調に急変するヒナコ先生。
完全に困惑した彼は、もう1人の警官に助けを求めた。
「お前、どこか美味い料理屋を知ってるか?」
「い、いきなりそんなこと言われてもなぁ……」
「お願いします! 教えて下さい! じゃないと私……私ぃぃぃ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて! ちょっと!」
(いまだ……!)
2人の警官が髪を振り乱す先生に気を取られている隙に、僕は車の陰から走り出す。
音を立てずに素早く!
まるで忍者のように走る僕は、どうにか駅の裏口の階段へと辿り着いた。
「ありがとう、先生……」
僕は一度振り返ると、そうつぶやく。
そして、再び階段に目を戻した。
長く薄暗い階段の先に、構内の明かりが見える。
ここまで来たら、あと少しだ!
僕は、弓から放たれた矢の如く走り出した。
その輝きに導かれるかのように。
今、光りあふれる場所へ!
―――
せわしない人の流れを眺める私。
街は、部分的に交通規制があるみたいだけれど……。
駅の中は、それでもたくさんの人がいる。
交通規制って、何かあったのかな?
事件とか、事故とか……。
「ミサキ、どうした?」
「こっちにいらっしゃい」
首を傾げている私に、少し離れたところからお父さんとお母さんが声をかけてくる。
「そろそろ新幹線が来るわよ」
「うん……」
お母さんの言葉にうなずくと、2人の所に向かった。
今から私たちは、新幹線に乗って空港に行く。
そこから、飛行機でアメリカに行くことになっているの。
旅行?
って良く聞かれるけど……。
旅行だったら、どんなに嬉しいか……。
私は、
それは、心臓にある弁が、上手く働いてくれない病気。
お医者さんから、体に負担をかけちゃダメって言われてて……。
だから、体育はいつも見学だった。
運動なんて、できなかったんだ……。
アメリカには、この手術のために向かうの。
向こうに、心臓外科の第一人者の先生がいるって……。
「ミサキ、安心してていいんだぞ」
「そうよ、手術なら大丈夫。凄く有名な先生なんだから」
「うん……」
お父さんもお母さんも、私をこうやって励ましてくれるけれど……。
手術に失敗したら命を失うかもしれないことも、私は知っている。
怖い!
そのことを考えると、夜も眠れなかった。
部屋の隅で、震えながら朝を待ったこともある。
闇の中に溶けていくような……。
私という存在が無くなってしまいそうな感覚……。
「ミサキ?」
うつむいていた私に、お母さんがもう一度声をかけてくる。
でも、ここで私が弱音を吐いたら、2人に心配かけちゃう……。
だから――
「私なら大丈夫だよ」
私は、一際明るい笑顔を見せた。
もちろん空元気だけど、元気がないよりいいよね……。
「そう……? それならいいけど」
私が見せた笑顔につられたのか、お母さんも一緒に笑う。
やっぱり……笑顔でいなきゃ……。
「ミサキの友達は、見送りに来ないのか?」
お父さんの言葉に私は首を横に振った。
「お友達に会ったら……行くの辛くなっちゃうから」
「そうか……」
お父さんはうなずくと、床のトランクを掴んだ。
私も、バッグを肩にかけ直す。
でも……。
本当は……。
後ろを振り返る。
改札口の周りには、たくさんの人の姿がある。
だけど、そこに私の知っている人はいない。
歩き出す、お父さんとお母さん。
私も、その後に続いた。
歩きながら、もう一度だけ振り返る。
でも、そこはさっきと何も変わらない風景だった。
短い間だったけど、大好きだった街。
ここで出会った大切な人たち。
私はもう、帰って来ることはできないかもしれない……。
「サヨナラ……」
小さくつぶやくと、私は前を向いた。
願わくば、この声が風に乗って皆に。
そして、彼に届きますように……。
私が、そう祈りを込めた瞬間……。