仁王立ちのハカセ。
勉学優先で、クラスの出し物にはいつも否定的。
僕の誘いだって、受けたことがない。
ま、まさか、そんなハカセまで僕の為に来てくれるなんて……。
驚きを隠せない僕に、彼は鼻を「フン!」と鳴らした。
「まさか、この僕が君の為に駆け付けたと思っているんじゃないだろうな?」
「えっ、ち、違うの!?」
「勘違いするな。僕はただ参考書を買いに来ただけだ」
そう言って、ハカセは手にした参考書を掲げて見せる。
「あ~……。やっぱりというか、何というか……」
相変わらずのハカセっぷりに、僕は思わず苦笑した。
そんな僕を
「……僕には理解できん」
その口から、ため息が漏れた。
「なぜ、こんなことをする? 君の行為は、自分の未来をふいにすることだと気付かないのか?」
「それは……わかるよ……」
僕は、拳を握り締めた。
「恋愛なんて、今じゃなくてもいいのではないか?」
「それも、わかるよ……」
そんな僕の態度に
青く澄み渡った空には、一筋の飛行機雲が伸びていた。
「馬鹿げている……。本当に馬鹿げているとしか言いようがない」
伸びていく飛行機雲を眺めながら、ハカセは口を開く。
「こんなことで、自分の経歴に傷を付けるとは……」
そして、深いため息をつきつつ、再び僕に視線を戻した。
「君は、愚かだ!」
その瞳は
「ハカセ……」
僕は、その視線から目を反らさずに口を開いた。
「確かにハカセの言う通りかもしれない……」
その言葉に、ハカセは鼻を鳴らす。
しかし、僕は言葉を続ける。
「でもね……。ハカセが勉強に全てを賭けているように……僕にとってはミサキがその全てなんだ」
体の横で握り締めていた拳が、ゆっくりと解かれていく。
ミサキ――
その名を呼ぶだけで、僕の心に温かいものが生まれる。
彼女のことを想うだけで、色々な感情が生まれてくる。
それは愛しさだったり、切なさだったり……。
そして、強くあろうとする気持ちだったり……。
「……こんな気持ち、初めてなんだ」
僕は自然と微笑んでいた。
「今行かなかったら、きっと一生後悔すると思う」
もう、そこに迷いはない。
吹き抜ける風に清涼感を覚え、僕は空を見上げた。
先程の飛行機雲は、今はもう薄く広がっている。
「恋ってさ……この空みたいじゃない?」
「空……だと?」
「うん……。空は、晴れだったり雨だったり、色々な姿を僕たちに見せてくれる」
僕は、ゆっくり視線を戻した。
「恋も同じ。嬉しい気持ちだったり、悲しい気持ちだったり……。色々な感情が僕の中に生まれてくるんだ」
いぶかしげな瞳をするハカセ。
そんなハカセに、僕は微笑んだ。
「それで、優しくもなれるし、強くだってなれる」
「フン……。僕には、わからない感情だな」
そう言って、ハカセは指で眼鏡を押し上げた。
「そのうちわかるさ」
僕は笑う。
そんな僕を、ハカセはジロリと見た。
「だからなのか? ……君は、いつも誰かに
「え……? あ……あは……あははは……」
思わず苦笑いが出る。
「僕にだってそうだ。人が1人で勉強していても、君はいつもお構いなしで……」
「わ、わるかったよ」
「君のせいで……」
ハカセは、短く息を吐きながら背を向けた。
「君のおかげで……僕はクラスから孤立しないで済んだ」
「……えっ?」
予想外のその言葉に、僕は思わず耳を疑った。
「君の見ている世界、僕にはとうてい理解できるものではない」
ゆっくりと僕に向き直るハカセ。
「だから……」
そして、手にしていた参考書で、僕の胸を叩いた。
「だから、僕にその答えを見せてみろ!」
「ハカセ……」
一陣の風が吹き抜けていく。
「か、勘違いするな!」
その風でズレたのだろうか?
ハカセは慌てた様に眼鏡をずり上げる。
「べ、別に君の為じゃない! この僕に知らないことがあるのが気に入らないだけだ!」
「……ハカセらしいな」
不意に可笑しさが込み上げ、僕は声を上げて笑った。
「う、うるさいぞ!」
そう言うハカセの顔にも、照れ臭そうな笑みが浮かぶ。
彼のこんな表情を見るのは初めてだった。
ハカセに叩かれた胸が熱を持つ。
レイジ、マキ、カズマ、アサミ、クラスの皆……。
そして、ハカセの想いを受けた僕に、もう迷いはなかった。
「ありがとう、ハカセ」
お礼を言う僕に、ハカセは照れ臭そうに鼻を鳴らす。
そのとき――
「ハァッ……ハァッ……。ほ、歩道橋に……いるぞ!」
警官たちの荒い声と足音が迫る。
「うわっ!? そ、それじゃ、僕は行くね!」
「勝手に行けばいい……。僕は無関係なのだから」
相変わらずのハカセっぷりに苦笑いを浮かべ、僕は脇を走り抜けた。
ハカセは振り返らない。
歩道橋の真ん中に仁王立ちになり、ただ真っ直ぐ前を睨んでいた。
ほどなくして、そこに警官たちが駆け付ける。
「き、君っ!」
道を塞ぐ様に立つハカセに、警官は声を荒げた。
「君も彼の仲間か!?」
その言葉に、ハカセの口から深いため息が漏れる。
「僕はただ、参考書を買いに書店に来ただけだ!」
「そ、そうか」
手にした参考書を突き付けられ、思わずたじろぐ警官。
「通りたければ、勝手に通ればいい」
面倒臭そうにそう言うと、ハカセはおもむろに参考書を開いた。
「なら、そうさせてもらおう」
参考書に目を落とすハカセ。
その横をすり抜けようと、警官たちは1歩足を左に動かす。
その瞬間、ハカセも警官たちと同じ方向に歩を進めた。
再び対峙するハカセと警官。
「き、君……」
「何かね?」
ハカセはチラリと視線を上げると、言葉を続けた。
「僕は道を譲ってやったのだ。通るなら早く通ってくれ」
「そ、そうか。そ、それは済まなかった」
ハカセの放つ不思議な威圧感に圧倒されながら、警官は今度は右に歩を進めた。
その瞬間、再びハカセは警官と同じ方向に動く。
「き、君ぃっ!!」
警官のヒステリックな叫びが響いた。
「邪魔だてするなら、逮捕するぞ!」
「逮捕……だと!?」
その言葉に、ハカセの体がユラリと動く。
「僕はただ道を譲っているだけだ……。なのに、その僕が逮捕だと!?」
「そ、それは……」
「どういうことだ? 説明してもらおうか……!」
まるで何かに取り付かれたかの様に迫るハカセ。
その迫力に圧倒され、警官たちは後ずさった。
「説明してくれるまで、僕はテコでも動かないぞ! 動かないったら動かないんだぞ!!」
「うわっ、く、来るな!!」
鬼気迫る表情。
異様な圧迫感。
迫り来るその姿に恐怖した警官は、思わずハカセの肩を軽く押した。
「キャア、痛い!!!」
次の瞬間、動かないと叫んでいたハカセは、いともたやすく吹き飛んでいた。
2回、3回と後ろに転がって……そして、うつぶせの姿勢で停止する。
「えっ……ちょ……そんなに強く押してないぞ!?」
ピクンピクンと体を
確かに、それは押したというより、触れたに近かったであろう。
だが、現実はこうだ。
「き、君っ、大丈夫か!?」
慌てて駆け寄ろうとした、そのとき――
――ガバッ!!
っと、ハカセは飛び起きた。
アザ、擦り傷、鼻血、そしてフレームが曲がった眼鏡。
それは、先程の出来事が、演技では無いことを物語っていた。
「痛い痛い痛いぃぃぃぃぃぃ――――っっっ!!!!!」
顔を真っ赤にし、目を見開いたハカセは、空に向かって激しく叫ぶ。
「は、は、は、鼻血鼻血ィィィ!!! うるぐぁぁぁぁ@〇×☆◎△%※――――ッッッッッ!!!!!」
終わりの方は、もう何を言っているのか聞き取れない。
「き、君……」
警官の1人が話し掛けた瞬間――
――ぐりん!!
と、ハカセの首が異様なスピードで警官の方を向いた。
「ひっ!?」
その口から、思わず悲鳴が漏れる。
「ヤッタナ……」
ハカセは、足を引きずりながら、ゆっくりと警官たちに近付いていく。
「ひいっ、ひいいっ!?」
「警察ガ……善良ナル市民ニ、手ヲアゲタ……」
「す、済まなかった!! わ、わざとじゃないんだ!!」
泣き叫ぶような声。
だが、ハカセの歩みは止まらない。
ズレた眼鏡。
口から漏れ続ける、解読不能の音。
溢れ出す鼻血は顔を、そして服を真っ赤に染め上げる。
「ひいいっ、悪かった! 本当に済まなかった!!」
後ずさる足がもつれ、警官たちは思わず尻餅をついた。
ハカセは彼らの言葉に首を90度に傾げ、両手をゆっくりと前に伸ばした。
血で染まった
ポタポタと垂れた血は、地面に赤黒い染みを作っている。
地獄絵図とは、このことを言うのだろうか。
「悪カッタ、ダト……? 済マナカッタ、ダト……?」
迫り来る悪魔の手。
警官の瞳が、恐怖に見開かれていく。
「ソレデ済ムナラ……警察ハ、イラナイダロォォォォォォォォォォォ!!!!!!!」
「ぎゃああああああああああああ――――――――――!!!!!!!」
断末魔の悲鳴のような声が、辺りに響き渡った。
「……ハカセだけは、絶対に怒らせないようにしよう」
走りながら、僕は心にそう固く誓うのだった……。