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第41話 『愛しさと せつなさと 心強さと』

 仁王立ちのハカセ。

 勉学優先で、クラスの出し物にはいつも否定的。

 僕の誘いだって、受けたことがない。


 ま、まさか、そんなハカセまで僕の為に来てくれるなんて……。


 驚きを隠せない僕に、彼は鼻を「フン!」と鳴らした。


「まさか、この僕が君の為に駆け付けたと思っているんじゃないだろうな?」

「えっ、ち、違うの!?」

「勘違いするな。僕はただ参考書を買いに来ただけだ」


 そう言って、ハカセは手にした参考書を掲げて見せる。


「あ~……。やっぱりというか、何というか……」


 相変わらずのハカセっぷりに、僕は思わず苦笑した。

 そんな僕をにらむように見詰める。


「……僕には理解できん」


 その口から、ため息が漏れた。


「なぜ、こんなことをする? 君の行為は、自分の未来をふいにすることだと気付かないのか?」

「それは……わかるよ……」


 僕は、拳を握り締めた。


「恋愛なんて、今じゃなくてもいいのではないか?」

「それも、わかるよ……」


 そんな僕の態度に苛立いらだちを覚えたのか、気持ちを抑えるかのようにハカセは空を見上げる。

 青く澄み渡った空には、一筋の飛行機雲が伸びていた。


「馬鹿げている……。本当に馬鹿げているとしか言いようがない」


 伸びていく飛行機雲を眺めながら、ハカセは口を開く。


「こんなことで、自分の経歴に傷を付けるとは……」


 そして、深いため息をつきつつ、再び僕に視線を戻した。


「君は、愚かだ!」


 その瞳は憤慨ふんがいしているようにも、哀れんでいるようにも見える。


「ハカセ……」


 僕は、その視線から目を反らさずに口を開いた。


「確かにハカセの言う通りかもしれない……」


 その言葉に、ハカセは鼻を鳴らす。

 しかし、僕は言葉を続ける。


「でもね……。ハカセが勉強に全てを賭けているように……僕にとってはミサキがその全てなんだ」


 体の横で握り締めていた拳が、ゆっくりと解かれていく。


 ミサキ――

 その名を呼ぶだけで、僕の心に温かいものが生まれる。

 彼女のことを想うだけで、色々な感情が生まれてくる。


 それは愛しさだったり、切なさだったり……。

 そして、強くあろうとする気持ちだったり……。


「……こんな気持ち、初めてなんだ」


 僕は自然と微笑んでいた。


「今行かなかったら、きっと一生後悔すると思う」


 もう、そこに迷いはない。

 吹き抜ける風に清涼感を覚え、僕は空を見上げた。

 先程の飛行機雲は、今はもう薄く広がっている。


「恋ってさ……この空みたいじゃない?」

「空……だと?」

「うん……。空は、晴れだったり雨だったり、色々な姿を僕たちに見せてくれる」


 僕は、ゆっくり視線を戻した。


「恋も同じ。嬉しい気持ちだったり、悲しい気持ちだったり……。色々な感情が僕の中に生まれてくるんだ」


 いぶかしげな瞳をするハカセ。

 そんなハカセに、僕は微笑んだ。


「それで、優しくもなれるし、強くだってなれる」

「フン……。僕には、わからない感情だな」


 そう言って、ハカセは指で眼鏡を押し上げた。


「そのうちわかるさ」


 僕は笑う。

 そんな僕を、ハカセはジロリと見た。


「だからなのか? ……君は、いつも誰かにまとわり付く」

「え……? あ……あは……あははは……」


 思わず苦笑いが出る。


「僕にだってそうだ。人が1人で勉強していても、君はいつもお構いなしで……」

「わ、わるかったよ」

「君のせいで……」


 ハカセは、短く息を吐きながら背を向けた。


「君のおかげで……僕はクラスから孤立しないで済んだ」

「……えっ?」


 予想外のその言葉に、僕は思わず耳を疑った。


「君の見ている世界、僕にはとうてい理解できるものではない」


 ゆっくりと僕に向き直るハカセ。


「だから……」


 そして、手にしていた参考書で、僕の胸を叩いた。


「だから、僕にその答えを見せてみろ!」

「ハカセ……」


 一陣の風が吹き抜けていく。


「か、勘違いするな!」


 その風でズレたのだろうか?

 ハカセは慌てた様に眼鏡をずり上げる。


「べ、別に君の為じゃない! この僕に知らないことがあるのが気に入らないだけだ!」

「……ハカセらしいな」


 不意に可笑しさが込み上げ、僕は声を上げて笑った。


「う、うるさいぞ!」


 そう言うハカセの顔にも、照れ臭そうな笑みが浮かぶ。

 彼のこんな表情を見るのは初めてだった。


 ハカセに叩かれた胸が熱を持つ。

 レイジ、マキ、カズマ、アサミ、クラスの皆……。

 そして、ハカセの想いを受けた僕に、もう迷いはなかった。


「ありがとう、ハカセ」


 お礼を言う僕に、ハカセは照れ臭そうに鼻を鳴らす。


 そのとき――


「ハァッ……ハァッ……。ほ、歩道橋に……いるぞ!」


 警官たちの荒い声と足音が迫る。


「うわっ!? そ、それじゃ、僕は行くね!」

「勝手に行けばいい……。僕は無関係なのだから」


 相変わらずのハカセっぷりに苦笑いを浮かべ、僕は脇を走り抜けた。

 ハカセは振り返らない。

 歩道橋の真ん中に仁王立ちになり、ただ真っ直ぐ前を睨んでいた。




 ほどなくして、そこに警官たちが駆け付ける。


「き、君っ!」


 道を塞ぐ様に立つハカセに、警官は声を荒げた。


「君も彼の仲間か!?」


 その言葉に、ハカセの口から深いため息が漏れる。


「僕はただ、参考書を買いに書店に来ただけだ!」

「そ、そうか」


 手にした参考書を突き付けられ、思わずたじろぐ警官。


「通りたければ、勝手に通ればいい」


 面倒臭そうにそう言うと、ハカセはおもむろに参考書を開いた。


「なら、そうさせてもらおう」


 参考書に目を落とすハカセ。

 その横をすり抜けようと、警官たちは1歩足を左に動かす。

 その瞬間、ハカセも警官たちと同じ方向に歩を進めた。


 再び対峙するハカセと警官。


「き、君……」

「何かね?」


 ハカセはチラリと視線を上げると、言葉を続けた。


「僕は道を譲ってやったのだ。通るなら早く通ってくれ」

「そ、そうか。そ、それは済まなかった」


 ハカセの放つ不思議な威圧感に圧倒されながら、警官は今度は右に歩を進めた。

 その瞬間、再びハカセは警官と同じ方向に動く。


「き、君ぃっ!!」


 警官のヒステリックな叫びが響いた。


「邪魔だてするなら、逮捕するぞ!」

「逮捕……だと!?」


 その言葉に、ハカセの体がユラリと動く。


「僕はただ道を譲っているだけだ……。なのに、その僕が逮捕だと!?」

「そ、それは……」

「どういうことだ? 説明してもらおうか……!」


 まるで何かに取り付かれたかの様に迫るハカセ。

 その迫力に圧倒され、警官たちは後ずさった。


「説明してくれるまで、僕はテコでも動かないぞ! 動かないったら動かないんだぞ!!」

「うわっ、く、来るな!!」


 鬼気迫る表情。

 異様な圧迫感。

 迫り来るその姿に恐怖した警官は、思わずハカセの肩を軽く押した。


「キャア、痛い!!!」


 次の瞬間、動かないと叫んでいたハカセは、いともたやすく吹き飛んでいた。

 2回、3回と後ろに転がって……そして、うつぶせの姿勢で停止する。


「えっ……ちょ……そんなに強く押してないぞ!?」


 ピクンピクンと体を痙攣けいれんさせているハカセに、慌てふためく警官たち。

 確かに、それは押したというより、触れたに近かったであろう。

 だが、現実はこうだ。


「き、君っ、大丈夫か!?」


 慌てて駆け寄ろうとした、そのとき――


 ――ガバッ!!

 っと、ハカセは飛び起きた。

 アザ、擦り傷、鼻血、そしてフレームが曲がった眼鏡。

 それは、先程の出来事が、演技では無いことを物語っていた。


「痛い痛い痛いぃぃぃぃぃぃ――――っっっ!!!!!」


 顔を真っ赤にし、目を見開いたハカセは、空に向かって激しく叫ぶ。


「は、は、は、鼻血鼻血ィィィ!!! うるぐぁぁぁぁ@〇×☆◎△%※――――ッッッッッ!!!!!」


 終わりの方は、もう何を言っているのか聞き取れない。


「き、君……」


 警官の1人が話し掛けた瞬間――


 ――ぐりん!!


 と、ハカセの首が異様なスピードで警官の方を向いた。


「ひっ!?」


 その口から、思わず悲鳴が漏れる。


「ヤッタナ……」


 ハカセは、足を引きずりながら、ゆっくりと警官たちに近付いていく。


「ひいっ、ひいいっ!?」

「警察ガ……善良ナル市民ニ、手ヲアゲタ……」

「す、済まなかった!! わ、わざとじゃないんだ!!」


 泣き叫ぶような声。

 だが、ハカセの歩みは止まらない。


 ズレた眼鏡。

 口から漏れ続ける、解読不能の音。

 溢れ出す鼻血は顔を、そして服を真っ赤に染め上げる。


「ひいいっ、悪かった! 本当に済まなかった!!」


 後ずさる足がもつれ、警官たちは思わず尻餅をついた。

 ハカセは彼らの言葉に首を90度に傾げ、両手をゆっくりと前に伸ばした。

 血で染まったてのひらは、まるで生贄いけにえを求める悪魔のよう。

 ポタポタと垂れた血は、地面に赤黒い染みを作っている。

 地獄絵図とは、このことを言うのだろうか。


「悪カッタ、ダト……? 済マナカッタ、ダト……?」


 迫り来る悪魔の手。

 警官の瞳が、恐怖に見開かれていく。


「ソレデ済ムナラ……警察ハ、イラナイダロォォォォォォォォォォォ!!!!!!!」

「ぎゃああああああああああああ――――――――――!!!!!!!」


 断末魔の悲鳴のような声が、辺りに響き渡った。




「……ハカセだけは、絶対に怒らせないようにしよう」


 走りながら、僕は心にそう固く誓うのだった……。

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