「ねぇ、カズマ」
バイクを運転するカズマに後ろから話しかける。
「夏休み前の体育で、100メートル走をやったの覚えてる?」
「……ああ」
ややあって、カズマから返事がきた。
100メートル走――
あのときの僕の相手はカズマだった。
結果は……。
ゴール直前で力を抜いた僕の負けだった。
「あのとき言ってた『テメェは、そうやってまた……!!』 ……あれってどういう意味だったの?」
「はぁ……本当に何も覚えてないんだな」
カズマは、やれやれとため息をつく。
「お前、中学1年のときの陸上の夏の大会、覚えてるか?」
中1の夏の大会――
それは、僕がオーバーゾーンで失格になった大会だ。
そのせいで、キャプテンの……そして
僕の不注意が、先輩たちの3年間を台無しにしたんだ。
忘れたくても忘れられない過去。
それは、今でも僕の胸を締め付けている。
「……覚えてるよ」
絞り出すような声が出た。
ズキン――
と、胸の奥が痛む。
僕は、強く手を押し当てた。
「でも……カズマと何の関係が……?」
カズマは、僕と同じ中学校ではない。
怨まれる筋合いなんてないはず……。
疑問の嵐が吹き荒れる中、カズマの口が開いた。
「お前……1年の100メートル走で1位になったよな」
「う、うん……?」
100メートル?
確かに僕は、400メートルリレーの他に、1年の100メートルにも出場していた。
で、でも……。
400メートルの、あのことじゃないとなると……。
全然心当たりないよ?
疑問の嵐は、更に勢力を増していく。
「ふう……」
カズマは息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は2位だったんだよ」
「あ~…………。って、ええっ!?」
疑問の嵐の後に待っていた衝撃の言葉。
「カズマ、陸上やってたの!?」
「それすら覚えてないのかよ……」
カズマは、がっくりと肩を落とした。
「俺さ……昔から足は速くて、誰にも負けたことがねぇんだ」
そう言って少しだけ笑う。
「……だけど、お前には完敗だった」
カズマは、真っ直ぐ前を見詰めたまま言葉を紡いでいく。
「その上、1年なのに上級生に混じって400メートルリレーにも出ちまうしよー」
その口から、深いため息が漏れた。
「お前とは次元が違ったんだよな」
「そ、そんなこと……」
「だからな!」
慌てて否定しようとした僕を、カズマは遮る。
「俺は努力したんだ! 必死にトレーニングして、自己ベストを何度も塗り替えて……。だけど、お前は次の大会に出てなくてよ……。聞けば陸上を辞めたって言うじゃねーか!」
カズマのグリップを握る手に力が入る。
「勝ち逃げってやつだよな」
「そ、そんな!」
そんなつもりはなかった。
僕はただ……。
先輩たちに申し訳なかっただけで……。
僕は、思わずうつむいた。
「それで、そんなモヤモヤした気持ちのまま高校に入ったら、お前がいてさ……」
そんな僕には気付かずにか、カズマは言葉を続ける。
「物事すべてに本気を出すことをためらって、中途半端に生きてる姿にムカついちまってな」
「カズマ……」
「まあ、今となっちゃ過去の話だけどな」
そう言って、カズマは笑う。
「違う……」
喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。
「それは違う……」
「ん? 違う?」
僕は、勢い良く顔を上げる。
「僕はただ、自分のせいで、また誰かが傷付くことが嫌だったんだ!」
「お、おい、落ち着けって……」
僕の豹変ぶりに、驚いたようになだめようとする。
だけど、僕はそれを振り切って叫んだ。
「僕がどれだけ苦しんできたか! いつも自分勝手に生きてるカズマには、僕の気持ちなんてわかんないよーっ!!」
その瞬間、カズマはバイクを急停止させた。
「テメェ……」
唸るようなカズマの声に、僕は我に返る。
「あ……や……こ、これは……」
ヘルメットを取ったカズマは、僕に向き直った。
鋭い瞳でにらんでくる。
その強い目力に、全身から汗が吹き出した。
僕はなんてことを……。
カズマは善意でバイクを走らせてくれている。
なのに、怒らせるようなことを言うなんて!
カズマの目が怖い!
と、とにかく謝らないと!
「カ、カズマ、ゴメ……」
「わかんねーよ!」
謝ろうとした瞬間、カズマの叫びが響いた。
「そんなもん、わかりたくもねーよ! リレーで失敗したくらいで、ここまで引きずるお前の気持ちなんてよ!!」
「えっ……!?」
「お前のその間違った優しさが、人を苦しめることだってあるんだ。リレーの先輩だって、お前が自分を責め続けてたら、いつまで経っても笑い話にできやしねーだろ!」
真っ直ぐに見詰めてくる真剣な瞳。
「誰も、お前にずっと背負ってほしいなんて願ってないんだ!!」
「カズマ……」
僕は、思わず胸に手を当てた。
「お前はさ……すごく優しいヤツだと思うよ……」
静かな声が響く。
「だけどさ……そろそろその優しさを、自分にも向けてやっていいんじゃないか?」
「自分……に」
「走ることの楽しさ、忘れたわけじゃないんだろ?」
「それは……」
風と1つになれる感覚。
全力を出し切った後の、心地好い疲労感。
あのときの僕は、走ることが全てだった。
「忘れられるわけ……ない」
「なら、もう一度走ってみろよ!!」
そう言って、カズマは僕の胸を拳で叩いた。
叩かれた胸に痛みはなく、ただ熱い想いだけが伝わってきた。
「僕……いいのかな……」
「ああ! もし、文句言うやつがいたら、そのときは俺が相手になってやるさ!」
そう言って、カズマは笑った。
今まで重くのしかかってきたもの。
責任――
自己嫌悪――
罪の意識――
僕を過去に引き留めていたそれらが、少し軽くなった気がする。
「ありがとう、カズマ……」
素直な言葉が口から出た。
「僕……頑張ってみるよ」
「その言い方、お前らしいな」
カズマは笑うと、ヘルメットをかぶり直した。
そして、再び前を向くと、
「――行くぞ!!」
短くそう告げ、アクセルグリップを勢い良く回した。
一際大きくなる排気音。
周りの景色が、再び後ろに流れていく。
それと共に、僕が背負ってきたものも流れていく気がして――
僕は少しだけ笑った。
「あ……でも、なんでカズマがそんなに詳しく知ってるの?」
「ん? ああ……お前のこと、近くでずっと見てたからな」
「えっ、近くで!?」
僕は、記憶を巡らせる。
100メートル2位……。
近くにいた……。
ずっと見てた……。
「――あっ!」
そのとき脳裏に浮かぶもの。
すべての糸が一本に繋がった。
「思い出したか?」
カズマは笑いながら尋ねる。
「うん……。そういえば、ずっと僕をにらんでた人がいた……」
「あれは、にらんでたんじゃねーよ」
苦笑するカズマ。
「俺は、視力が悪いんだよ」
「そうなんだ……。僕、絡まれないようにって、必死に目を合わせなかったよ」
そう言って、僕も笑った。
2人を乗せたバイクは自動車の間をすり抜け、大通りを快調に飛ばしていく。
「なぁ……」
風の中で、カズマが口を開いた。
「これが終わったら……俺と100メートル、勝負しないか?」
「カズマ……」
「もう一度、ちゃんと走ろうぜ」
真っ直ぐ前を見詰めたまま、カズマは言う。
その言葉に、僕は微笑んだ。
「いいけど……さ」
「……けど?」
「僕は……速いよ?」
「言ってろ!」
そして僕たちは、大声で笑いあった。
「俺たち、やっと分かり合えたみたいだな」
「そうだね……。きっと人はみんな、分かり合えるんだよ」
「ああ……そうかもしれないな」
あんなに
人は分かり合える。
綺麗事って笑う人もいるかもしれないけど……。
僕は、そう信じて生きていたい。
バイクは、更に速度を上げた。
流れる景色が、更に早くなる。
これなら、あと10分ほどで駅に着くだろう。
ミサキ……。
早く君に逢いたい……。
今なら、この想いを素直に伝えられそうだから……。
そして、それから数分後……。
「まったく……何キロ出していたと思ってるんだ!」
「す、すみません……」
「2人乗りなのに、20キロ以上の速度超過! ほら、免許証出して」
僕たちは、白バイの警察官にスピード違反で捕まっていた……。
「すみません、ホントすみません!」
「俺たち、急いでるんです!」
「急いでいたからと言って、交通ルールを破っていいと思ってるのか! だいたい、最近の若い者は……」
警察官は、ぶつぶつ文句を言いながら、カズマから免許証を受け取った。
「おい……」
カズマが、そっと耳打ちしてくる。
「さっきの話だけど……」
「う、うん?」
「やっぱり、分かり合えない人種もいるみたいだぞ……」
僕は、思わず苦笑いを浮かべた。
ごめん、ミサキ。
もう少しだけ待っていてください……。